堕落を生きた理由
『...おい。なんでや』
彼の肩の傷跡は、紛れもなくあの時、私がつけたものだ。あの時の感触が蘇り、吐き出した息も、手も震えた。
彼が私を見ているのがわかったけれど、視線を合わせることが出来なかった。
そして、この人に言われた言葉が頭の中に繰り返し流れていた。
確かにこの人は、違う世界で生きて行け、と私に言った。忘れるはずがない。はっきりと覚えている。
『あかん言うたよなぁ?』
怒りを含んだような、呆れたような声に唇を噛み締める。声が震えてしまわないようにきつく拳を握り締め、顔を上げて彼を見つめた。
「...行くところがないの」
また目に入った背中の傷跡から反射的に視線を逸らすけれど、鼓動は鎮まるわけもない。私がつけたその傷が痛々しくて、苦しい。胸が痛くて息が詰まりそう。
「...お金もない。何にもないの」
助けられても尚、あの時と同じように危険な場所を選んで生きてきたのは、自分の手で彼を傷付けてしまったから。
そして、汚れてしまったから。汚い世界で汚い大人に汚され、彼に生かされたのに、それが繰り返された時、もう戻ることは出来ないと思った。
同じ道を進む他なかった。一度墜ちた場所から這い上がる気力も勇気もなかった。
「だから殺してって言ったのに、...」
でも、もう一つだけ、理由があった。
「...あなたのせいでしょ...?」
小さく響いた涙声は、静かな部屋に染み込むように消えた。
彼が言ったことを、守ることはできなかった。けれど、その言葉は密かに私の支えでもあった。私を錯覚させた彼からの偽物の愛も、同じだった。
彼に、会いたかった。“トッポ”に。
あの日から、忘れたことはなかった。この世界にいれば、また会える気がした。この世界でなければ、会えないと思った。
いつしか彼が、暗闇の中の小さな小さな光になっていた。
だから私は、生かされたこの命で、この世界を生きてきた。
暫く黙ったまま、彼は私を見つめていた。彼は何を思っているのだろう。
せっかく会えたというのに、会いたかったと伝えることは許されない気がして、私も黙ったままでいた。
脱いだシャツをソファに放り投げてこちらに歩いてきた彼が、私の前に立って真っ直ぐに私を見つめた。
『いくら必要なん』
...よくわからなかった。
お金が必要なのは当然。けれど一年以上こうして、人に飼われギリギリで生きてきて、今更普通の暮らしなんてよくわからない。お金を手にしてどうしたいのか、どこに行きたいのかもわからない。
ただ、彼に会いたかっただけなのだと、今この瞬間彼に気付かされた。
黙ったまま言葉を探していると、俯いた視界の中で彼の靴が距離を詰める。顔を上げると私に手を伸ばした彼が、私の首元を掴む。あの時のように、少しずつ力を込められ後ろに押された。苦しさに彼の腕を掴むと、足が後ろにあったベッドにぶつかり、そのまま体重を掛けられベッドに倒れ込む。首を押さえたままベッドの上の私に跨り、それから手が離れていった。
大きく息を吸い込み咳き込んだ私を見ながら、彼がポケットに手を突っ込む。
『わかった』
荒い呼吸を繰り返す私の顔の横に、乱暴に何かを放り投げた。顔をそちらに向けると、三つの札束が置かれていた。驚いて彼を見上げると、無表情のまま私を見下ろす。
『金、欲しいんやろ?』
ただ黙って彼を見つめた。何も言葉が出て来なかった。
...そうじゃない。そんなことを望んだわけではなかったのに。
戸惑って揺れる私の目を、ただただ真っ直ぐに見ているその目が怖かった。
彼の顔が近付いてきて思わず身を固くする。すると片手を私の顔の横に付いて、反対側の手が梳くように私の髪を撫でた。
『俺が買うたるわ』
表情を変えることもなく、異様な迫力に満ちた眼鏡越しの彼のガラス玉の様な目が、突き刺すように私を見つめる。飛び出しそうな程暴れる心臓のせいで呼吸が震えた。
握るように髪を掴まれ、一瞬吊り上げられた口の端を見ていたら、噛み付くように唇が塞がれた。
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