あーあ



「……触らないで」
 かすれた声。だが、はっきりとした拒絶だった。ナマエの指が止まる。表情も、ほんの一瞬、わずかに揺れた。
「……そう。わかったよ」
 彼は微笑んだまま、そっと手を引っ込めた。けれど——。
「君に嫌われる覚えはないんだけどな。僕は君を守るためにここにいるのに」
 自嘲気味な言葉が、ぽつりと漏れる。
 ナマエはそんな彼の様子を見て俯き、短く息を吐いた。
 言った。言ってしまった。とうとう自分は彼に告げてやったのだ。ナマエは下に下ろした手でぎゅうとワンピースの裾を掴んだ。何かに掴まっていないと、ふつふつと湧き上がる罪悪感に「今のは冗談だよ」と本心にもないことを告げてしまいそうになるからだった。
 いつものように。
 彼を拒絶しようとして、けれど失敗していたいつものように。
 だが今回は違う。今度こそ、彼のよく回る弁舌に流されたりすることもなければ、彼に申し訳なさを感じて自分の感情に蓋をすることもしないのだ。ナマエは深く息を吸って、それからゆっくりと長く吐いた。自分を落ち着かせるための深呼吸は、ざわついていたナマエの心にしばしの平穏を与えた。
 ――美しい純白で整えられた装飾の家具、お姫様が使うみたいな天蓋付きのベッドに、フリルのついたレースのカーテン、毛足の長いシャギーラグ。塵ひとつなく整えられた完璧な部屋。それはきっと少女の理想が詰まった可愛らしい部屋だった。統一感のある調度品は部屋に調和を生み、そこにあるだけで気分を好調させる。夢にまで見た愛らしい部屋こそ、ナマエに与えられた部屋だった。
 しかしここはナマエの家ではなかった。ナマエの為に用意された部屋だった。ナマエが不自由なく過ごしていけるように、ナマエが何にも脅かされることのないように作られたナマエの為の鳥かごだった。
 ナマエは何度も息を吐いては吸いながら、覚悟を決めて顔を上げる。

 眼前には、ナマエをじっと見つめる彼の姿がある。
 ナマエは彼――カーヴェの、出来損ないの幼馴染だった。

 *

 ナマエは昔から何もできなかった。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ないだった。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来であったから、ナマエの人生にはいつも孤立が約束されている。嘲笑の声も、軽蔑する眼差しも、そのどれもがナマエの親しい友人だ。ナマエは昔から何もできない。何かを上手にやれた試しがない。周囲から爪弾きにされ、無能の烙印を押されたナマエはいつだってひとりぼっちだ。
「ナマエ、やっぱりここにいた」
 そんな出来損ないのナマエには、たった一人だけ友人がいた。暖かな陽だまりのような金色の髪に、悼霊花の紅で染めたような赤い瞳をした少年――カーヴェは、こんな出来損ないのナマエを肯定し、認めてくれる唯一の人だった。彼は周囲の声や視線が辛くて逃げ出ししくしくと泣いているナマエを見つけては、ナマエのすぐ傍に腰掛けて、ナマエをぎゅうと抱きしめて背を摩ってくれる。彼は、ナマエがどこに隠れていようとも見つけてくれた。どうして自分は周りの人のように上手くできないのかと落ち込んで泣き出すナマエに、決まってカーヴェはこう囁いた。無理して頑張らなくたっていい。君は君のままでいいんだ=\―。
 周囲の大人はナマエが不出来であることに苦言を呈したが、一方カーヴェはよくナマエを甘やかした。走るのがずっと遅いナマエが追いつこうとして転んだ時はすぐに駆け寄って手を取り、わんわんと泣くナマエを抱きしめながらおんぶしてやったり、授業が理解できずに固まるナマエの傍にぴったりとくっ付いて横で丁寧に教えてやったり、ナマエが自身の祖母に部屋の片付けを命令されたのに、もたもたと容量悪く片付けをしていれば代わりにせっさと片付けてやった。物心着く頃には既にカーヴェはナマエの傍におり、不出来なナマエの世話をしていたような気がする。カーヴェはいつだってナマエの傍にいて、ナマエの手を握っては泣いているナマエを優しく慰めた。ナマエにとって、カーヴェは唯一自分を肯定してくれる大切な幼馴染だった。
 そのため、幼いナマエがカーヴェに依存するのは至極当然のことだった。カーヴェがナマエの傍にいてくれるように、常にぴたりとカーヴェの傍にくっついた。カーヴェが他の子供たちに話し掛けられた時は、不安そうに彼の腕にしがみついて、じっと黙り込んで俯いた。他の子供に遊びに誘われたカーヴェはそれに答えようとしたが、腕に抱き着いて不安そうに俯くナマエを見て「ごめん。ナマエは僕と二人がいいみたいだから、また今度一緒に遊ぼう」と断るのだった。子供たちが名残惜しそうに離れた後は必ず、くるりとカーヴェはナマエに向き直って「安心して、ナマエ。今度なんてない。僕は絶対に君から離れていったりしないよ。だからずっと二人で一緒にいよう」とナマエに囁いてナマエを安心させるように抱きしめた。
 カーヴェが傍にいる時のナマエは自分を守ってくれる人がいるという安心があったが、いくら幼なじみと言えども朝から晩まで四六時中一緒にいるというわけでもない。そういう時、ナマエは外に出ることができなかった。祖母に外へ遊びに出たらどうかと言われても静かに首を振って、部屋に閉じこもってカーヴェが昔遊んでいたという積み木で遊んだり、カーヴェにもらった本を何度も何度も繰り返し読み直した。嘲笑の声も、軽蔑する眼差しも、そのどれもがナマエの親しい友人だ。ナマエは昔から何もできない。何かを上手にやれた試しがない。周囲から爪弾きにされ、無能の烙印を押されたナマエはいつだってひとりぼっちだ。カーヴェという安心を手に入れてしまったナマエに、彼のいない外の世界は恐怖でしかなかった。
「ごめん、ナマエ! 僕、すっかり本に夢中になっちゃって……僕のことを待っていてくれたなんて知らなかったんだ」
「! か、カーヴェくんっ、カーヴェくんっ」
「わっ……ナマエ?」
 ナマエの依存は強く、カーヴェがいないと不安で何もできないほどだった。ナマエはカーヴェの姿を見るなり本を投げ出してカーヴェに抱き着くと、カーヴェのナマエを呼んではわんわんと泣いた。カーヴェはそれを見て驚いたように目を見開いたが、すぐにナマエを抱き締めて宥めるように背をぽんぽんと叩いてやる。
「やだよう、どこにもいかないで……おいてかないで……わたし、カーヴェくんがいないとやだよう……」
「……ナマエ……」
 ナマエはカーヴェの肩口に顔を埋めてすんすんと鼻を鳴らしながら擦り寄った。普通であれば、自分がいなくては一人で外に出ることもできないような不出来な人間など重たく、そして面倒なはずだったろうに、しかしカーヴェは一等心優しい人間であったから。
「大丈夫。ずっと傍にいるよ。僕は君をどこかに置いていったりしないから……」
 ――ナマエの幼少期はこのように、カーヴェに依存した生活を送っていた。何処へ行くにも何をするにもカーヴェが傍にいなければ何もできない。それどころか、ナマエができないことはすべてカーヴェが代わりに担って済ませていたので、ナマエがすることといえば、彼の隣でにこにこと笑って甘えて擦り寄るくらいのものだった。

 ――そんなものだから、カーヴェが教令院に入学すると決まった時は酷かった。

「やだ! やだあ! いかないでよお、いかないでえっ!」
「ナマエ、ナマエ、落ち着いて……!」
 カーヴェが教令院に入学するということは、カーヴェと共にいることはできなくなるということだ。つまり、ナマエはまたひとりぼっちになる。初めこそカーヴェの教令院の入学を喜んでいたナマエだったが、カーヴェがナマエの傍にいることができないとわかるとナマエは大いに暴れた。いやだいやだ一緒にいてそばにいてはなれていかないでと幼い子供のようにわんわんと泣き喚いてカーヴェにしがみついて離れないものだから、これにはカーヴェも、そしてナマエの祖母も困り果てた。祖母が「カーヴェくんの迷惑になるからやめなさい」と窘めても、カーヴェが「時間ができたら必ずナマエの元へ帰るよ」と言っても聞かない。ナマエにとって、カーヴェの存在こそがすべての世界だった。カーヴェこそが、ナマエのすべてといっても過言ではなかった。
 だがナマエの反抗とは裏腹にカーヴェの教令院入学を止めることはできない。ナマエに教令院へ入学できるほどの学があれば変わらず彼の傍にいれたことだろうが、残念ながらナマエにはそれが叶うだけの頭はない。カーヴェは後ろ尾を引かれるような気持ちで教令院へと入学し、ナマエとカーヴェは以前のように毎日過ごすことはできなくなった。
「ナマエ、ナマエ、安心して。僕はナマエと一緒にいるよ。ずっと一緒にいるよ。約束しただろう?」
「で、でも、カーヴェくん、遠くに行くもん……」
「教令院だよ。ナマエのいるシティから離れるわけじゃない。少し……そう、少し離れ離れになるだけだ。卒業したら、すぐに迎えに行くよ。二人で暮らそう? それに、定期的に会いに来るから……ね?」
 ナマエは昔から何もできなかった。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ないだった。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来であったから、ナマエの人生にはいつも孤立が約束されている。嘲笑の声も、軽蔑する眼差しも、そのどれもがナマエの親しい友人だ。ナマエは昔から何もできない。何かを上手にやれた試しがない。周囲から爪弾きにされ、無能の烙印を押されたナマエはいつだってひとりぼっちだった。
 カーヴェがいなくては何もできないナマエは、カーヴェがいなくては生きていけなかった。カーヴェが教令院へと入学してナマエの傍にいてくれなくなってからは毎日毎日泣いて部屋に閉じこもり、カーヴェくんカーヴェくんといない彼の名を呼んで縋りついていた。ナマエの世界がカーヴェだった。ナマエの世界は、カーヴェという人間の手によって彩られていた。ナマエの人生は、このままカーヴェの重荷となって、カーヴェがいなければ生きていけない人間へと腐っていくだけのものになるように思われた。
 ――しかし、そんなある日、腐ってばかりのナマエを変える出来事が起こる。
「ナマエ、久しぶり! 元気にしてた? 泣いていなかったか?」
「カーヴェくん……! 久しぶり、うん、わたし、泣かなかったよ!」
 カーヴェは休みの日になると必ずナマエの家にやってくる。いつもうじうじとカーヴェを恋しがっていたナマエだったが、カーヴェがやってくる時ばかりは元気になって、朝からうきうきと心を弾ませていた。ナマエに会いに来たカーヴェは大抵、ナマエの普段の様子を聞きたがる。最近はどう、何をしているの、上手くやれている、寂しがってはいないか――ナマエを置いてきたことを心配しているようで、カーヴェはナマエと会えなかった分を埋めるようにぴったりと横にくっ付いて、ナマエの手を握って優しく微笑んでくれた。それを見ると、ナマエは灰色だった自分の世界が色付くのを感じた。暖かい手のひらは、ナマエの安心の象徴だった。
 そしてまた、ナマエに話を訊ねるのと同じくらいに、彼は教令院での自身の生活を話してくれた。要は近況報告会だ。ナマエはカーヴェに会えてとても嬉しい気持ちになったが、それと同時に一抹の不安を覚えていた。それは、教令院での生活を話すカーヴェはとても楽しそうだということだ。日々の日常を面白おかしく語るカーヴェは、ナマエの知らない顔をしている。ナマエは自分の傍にいる時とは違うカーヴェの一面を垣間見た。好奇心に溢れる瞳、知識に触れることが心底楽しいのだと訴えかける彼の態度。新しくできたのだという後輩の話を語る彼の表情は今までに見たことがないほどに喜びに満ち溢れていて、ナマエはそのまだ見ぬ後輩に嫉妬すると同時に、カーヴェに申し訳なさを覚えた。
 そんな感情が湧く度に、つきつきと胸を刺す感情が湧き上がる。――自分はずっと、カーヴェに無理をさせていたのだ、と。
 考えてみれば、ナマエはずっとカーヴェに世話をされるばかりでカーヴェとは対等に過ごしたことがなかった。それこそ、件の後輩のように同じ目線で物事を考えることも、議論することもしたことがない。そもそもナマエにそんな高尚なことはできない。ナマエは運動はできず、かといって勉強もできない、要領も悪ければ何をやるにも失敗ばかりの出来損ないで、いつだってカーヴェに尻拭いをさせてきた。カーヴェはいつもナマエの面倒ばかり見て、彼自身の楽しい≠追求することも、彼自身の喜びを見つけることもしたことがない。ナマエの傍にいる時のカーヴェはいつもナマエ本位で動いてしまう。そこに、カーヴェの幸福はない。カーヴェの為になるものがない――ナマエはずっと、カーヴェを縛り付けていたのだ。
 それに気が付いた時、ナマエは自分が恥ずかしくなった。自分のエゴでカーヴェを束縛して、カーヴェを困らせていた! 脳裏に過ぎるのは、彼の入学が決まった時、彼の入学を祝うこともせずに泣きついて駄々を捏ねる自分のみっともない姿だ。ナマエはどうしようもなく消えたくなった。自分はなんてことをしてしまったのだろうと反省して、そしてカーヴェを自由にしてやらなければならないと思った。
「――それで、今はこういうことを学んでいるんだ。ナマエは? ナマエは、何をしてる?」
「……」
「ナマエ?」
 ――ナマエは、何もしていない。
 毎日毎日カーヴェの名前を呼んで泣き崩れているばかりで、何もできていない。
 無能のまま。出来損ないのまま。このまま、輝かしい功績を残していくのであろうカーヴェのお荷物になってよいのだろうか?
 ――そんなこと、許されるはずがない。
 
 そしてナマエは初めて、一人で何かをしようと思った。このまま閉じこもってばかりの生活ではいけない、カーヴェがいなくても彼を心配させないようにしなければならないと思ったのだ。次第にナマエは外に出るようになり、今までカーヴェが代わりにやってくれたものを自分一人で行うようになった。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来なナマエではあったし、そしてナマエが熟した大抵の物事は到底完璧とは言えないけど出来のものばかりであったが、一人でやり切ったあとの達成感は自分を出来損ないだと思い込んでいたナマエの心を満たした。
 そうしていると、ナマエの頑張りを見ていたものがいるのだろう、あんなにも嫌われていたナマエの周りにも人が寄ってくるようになった。それは子供の時より彼等が各々成長したということもあるのだろうし、ナマエの努力を認めたものもいたからなのだろう。かつてナマエを出来損ないだと馬鹿にしていた子供たちの中には、ナマエの頑張りを見て助言をしたり、手助けしてくれる人も出てくるようになった。もちろん、それはいいものばかりではない。以前と変わらずナマエを馬鹿にするような人や、ナマエを憐れむような人もいたが、しかし、確かにナマエという人間と、その周囲の反応は変わった。出来損ないで何もできない、皆の嫌われ者のナマエ。それが今は、たったひとつの勇気と努力で変化した。
 ナマエは昔から何もできなかった。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ないだった。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来であったから、ナマエの人生にはいつも孤立が約束されている。嘲笑の声も、軽蔑する眼差しも、そのどれもがナマエの親しい友人だ。ナマエは昔から何もできない。何かを上手にやれた試しがない。周囲から爪弾きにされ、無能の烙印を押されたナマエはいつだってひとりぼっちだ――だが、ナマエはもうただの出来損ないではない。
 きっと教令院でカーヴェが上手くやっているように、ナマエもまた、人生が好転していくのを感じていた。これなら、カーヴェの横に立っても少しは恥ずかしくなくなったのではないかと思った。
 
 カーヴェは、休みの日になると必ずナマエの家にやってくる。それは、カーヴェがどんなに忙しくしていても、どんなに辛いことがあっても、ナマエの為だけに時間を作って、ナマエに会いに来てくれる。
「ナマエ、久しぶり。君に会うのを楽しみにしてたんだ」
 その日ナマエの家を訪ねてきたカーヴェを見て、ナマエは思わず息を飲んだ。カーヴェの目の下には、まるで塗ったような黒い隈がくっきりと残されていた。それどころか顔色も悪くやつれた様子であるし、それに以前よりも少し痩せているように見えた。とても健康とは言い難い風貌をしている。絶句するナマエを他所に、カーヴェは慣れた様子で家へ上がると、ナマエの手を握ってナマエの部屋へと行こうとした。彼らが顔を合わせる度に行われる近況報告会のためだろう。リビングにいる祖母に挨拶をして、カーヴェはナマエの手を引きながらナマエの部屋へと進んでいく。ナマエは何も言えず、ただ手を引かれるまま、なされるがままに彼の後ろを着いていった。
 ――そして報告会が始まった。それはいつもの報告会のように見えた……しかし、その時ばかりは様子が違った。
「なんで君がそんなことする必要あるんだ。今までやろうともしなかったのにどうして? 僕がずっと傍にいなかったから起こっているのか? 答えろ。全部。最初から!」
「それっていつ? 友達って誰。僕以外にできたのか? そいつと何をしたんだ。何を見せた? 何をやらせた? そいつは君の何を知ってる? ……まさか、そんなぽっと出のやつのこと、僕より大切にしてるなんて言わないよな」
「ふうん。その程度しかできない友達なんだな。僕のほうが余程君の役に立てるよ。それどころか、君のことならなんだって分かる……。ほら、君の一番の理解者は僕だよ。……まあ、君なら分かっていると思うけどね」
 ナマエがいつものように簡単に近況を話した時、異様にカーヴェがナマエの行動に対する詳細な情報を聞いてきたのだ。何月何日の何時に誰とどこで何をしたのか……会わなかった月日の数分すべて、カーヴェはナマエのことを知りたがった。それがあまりに異様な光景だったので、ナマエは思わず気圧されてしまう。攻撃的な言葉に、ナマエの努力否定するような発言……顔色が悪いことも相俟って、事細かにナマエのこれまでを問い質すカーヴェの目がぎらぎらと光っているように見え、ナマエはカーヴェに対して初めて恐怖を覚えた。
「な、なんでそんなひどいこと言うの……」
「ひどい? どこが? ただの事実だろう」
「事実じゃない……カーヴェくん、そんなこと言う人じゃなかったのに、どうして会ったこともないひとのこと、悪くいうの……? か、カーヴェくん、らしくないよ……」
「……僕らしさ? 君は、僕が変わったって言いたいのか? ……変わったのは、君の方のくせに」
 その刺すようなとげついた言葉にごくりと唾を飲み込む。背筋にぞくぞくとした嫌な悪寒が走って、ぴりつくような緊張に鳥肌がたった。カーヴェと過ごす時間はナマエにとって穏やかで優しい時間のはずであるのに、何故だか逃げたくなる衝動に襲われる。矢継ぎ早に問い質される質問はまるで尋問だ。そして、ナイフのように鋭利な言葉はナマエの心を深く抉った。ナマエは自分がどうしようもない罪を犯した罪人のような気持ちになった。そして同時に、こんなにもカーヴェの様子がおかしいのは、彼が日々忙しくしているのに、自分のために時間を作っているからだと考えた。足裏から這い上がる冷えた忌避感がナマエの表情を強張らせていく。ナマエの頭はもう、いかに彼を自由にするかでいっぱいだった。
 ほんの少しの寂しさとカーヴェへの強い罪悪感が胸中を覆っていく。そんな感情をぐっと抑えて、ナマエは頬を引き攣らせながらへらりと笑い、努めて明るくカーヴェに声をかけた。
「か、カーヴェくん、もう無理してわたしのところに来なくていい、よ」
「……えっ?」
「わたし、わたし……ひとりでもだいじょうぶ。心配しないで? カーヴェくんがいなくても、わたし、泣いたりしないから……」
「な……何を、何を言って、るんだ?」
 これはナマエなりのカーヴェへの気遣いだった。ナマエというお荷物を背負わせていることへの贖罪であり、ナマエという枷から彼を解放してあげるべきだと思っての発言だった。カーヴェに依存し、彼に何もかも任せきりだった今までがおかしいのだ。ナマエにはナマエの人生があるように、カーヴェにはカーヴェの人生がある。教令院で新たな場所を見つけ、彼自身の輝かしい未来のために歩んでいくカーヴェをナマエの我儘で縛り付けるわけにはいかない。
 とはいえ、永遠の別れというわけでもない。要は、ナマエを一番に考えなくてもいいという誘いだった。ナマエのことを心配して、貴重な時間をわざわざナマエに割く必要はない……ただ時々、思い出した時にナマエに会いに来てくれればいいと、そういう意味で告げた言葉だった。
 ナマエは昔から何もできなかった。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ないだった。故にカーヴェはナマエを心配して、ナマエの世話をしてくれていた。ナマエを甘やかし、ナマエはそのままでいいのだと慰めてくれた。ただ、カーヴェを安心させてやりたいだけだった。ナマエが一人でも問題なく生きていけると知ったならば、カーヴェも安心して日々を過ごせるだろうと、ただそれだけの思いだったのだ。
 ――しかし。
「無理なんてしてないよ、僕は本当に君に会いたくて来てるんだ。どうしてそんなことを言うんだ? 僕が今酷いことを言ったから? それなら謝るよ、ごめん、だからそんなことを言わないで……」
「ずっと思ってたことなの! カーヴェくんがいなくても、わたし、一人で片付けもできるし、料理もできるし、勉強だって教えてくれる人ができた。だから、カーヴェくんは自分の研究をしていていいんだよ。わたしのこと、無理して面倒を見なくてもいいから」
「無理? ……僕は無理なんてしていない。全部全部やりたいからやってるだけだ。ナマエの世話をしてるのも、ナマエに会いたいのも、全部全部僕がやりたいんだ、だってナマエには僕が必要なんだから、ナマエは僕がいないと生きていけない……」
「カーヴェくん……?」
 ナマエの予想とは裏腹に、カーヴェの返答は否定的だった。それどころか、爪を噛んでぶつぶつと早口で何事かを呟き始めるので、その異様な雰囲気にナマエは動揺を隠せなくなる。それはナマエの知るカーヴェの姿ではなかった。少なくとも、泣いていたナマエを見つけて、あの陽だまりのような優しい微笑みでナマエの弱さも至らなさも受け止めてくれていたカーヴェはここにいない。太陽が雲に遮られて陰ってしまうように、ふと空を覆った暗雲が彼の暗く淀んだ一面を顕にしていた。
 ナマエはカーヴェに動揺と恐怖を覚えると同時に、彼が心配になった。教令院での生活で何か嫌なことがあったのだろうか。それとも、彼に深い隈を刻み込むほどの強いストレスが彼を追い詰めているのか……漠然と不安になり、ナマエは俯くカーヴェに近付いて、いつかカーヴェがナマエにしてくれていたように背を撫でると、恐る恐る声をかけた。「……カーヴェくん」その瞬間、俯いて垂れ下がった前髪の向こうから、ぎらぎらと光る赤い瞳がナマエを見つめて、そして低い声で唸るように問いかけた。
「……もう、僕は用済みってことか?」
「そ、そんなこと言ってないよ! ただ、わたしはカーヴェくんが無理しないようにって……」
「同じことだろ!!」
 瞬間、カーヴェが声を張り上げて怒鳴りつけるので、ナマエはびくりと肩を跳ねさせる。隈の残る顔色の悪いその顔はナマエをぎろりと睨み付ける。そして、ナマエはカーヴェに強い憂懼を感じた。ナマエとカーヴェはずっと小さな頃から共にあったが、このようなことは初めてだった。かと思えば、くつくつと喉を鳴らすような笑い声を上げて、ナマエを嘲笑するような不敵な眼差しを向けた。
「勉強だって°ウえてくれる人ができた、ね……。それって誰だ? 僕より頭がいいのか? 僕より君のことを理解してあげられる?」
「か、か、カーヴェくん、どうしてそんなに怒ってるの? わたし、ただ……」
「どうしてだって? ……ッ君が言ったくせに! 僕がいないと嫌だって、僕じゃないと嫌だって、君が言ったくせに!」
 ――それは突然だった。先程まで名前に向けていた不信感のある眼がかっと赤くなったのは。そうしてナマエの戸惑いなど見えていないかのように突然カーヴェは発狂し、頭をぐしゃぐしゃと掻き毟り始める。
「君まで僕を置いていくのか! 君まで! 君だけはずっと僕の傍にいてくれると思ったのに!」
「か、か、か、カーヴェ、くん……?」
 異様だった。何がって、眼前にいるカーヴェそのものが。突然声を荒げるのも、ナマエからすれば突拍子もない言葉で責め立ててくるのも、そして――カーヴェが何を思い、何を感じ、何を不安に思っているのかも。ナマエには、何も分からなかった。理解もできなかった。ナマエはカーヴェのことを何も知らなかった。ただ、爆発して感情を顕にするカーヴェを呆然と眺めていることしかできなかった。
「なんで上手くいかない……なんで皆離れていくんだ……! 僕がちゃんとやらなかったからっ? でも僕は大丈夫だって、ちゃんと最後まで一緒にやるって言ってるのに、なんで皆皆皆皆やめていくんだ……! どうして、なんでこんなに上手くいかないんだ!? 才能ってなんなんだよ、君までいなくなったら、僕は……!」
「カーヴェくん、お、おちついて……!」
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 君だけは絶対に離さない! だってずっと一緒にいるって言っただろ!?」
 俯いてぐしゃぐしゃと頭を掻き毟り、声を荒げながら絶叫するカーヴェにナマエはただ圧倒された。ただ曖昧に声をかけることしかできないまま、どうすればカーヴェを落ち着かせることができるのかが分からなかった。ナマエにとって、カーヴェという人間はいつも落ち着いていて、穏やかで頼りがいのある心優しい少年だ。それが、今はどうだろう? 今のカーヴェはナマエの知らないカーヴェだった。彼のこんな姿は見たことがない……こういう時、どう接すればいいのかをナマエは知らない。ただおろおろと当惑したまま、半狂乱になるカーヴェを前に動けないままでいた。
 ――その時、突然カーヴェが動く。
「い゙ッ……」
 ぐっと身体を前に乗り出したかと思うと、困惑に戸惑うナマエの両肩をがしりと掴み、ぐっと顔を近付けてナマエに怒鳴ったのだ。
「君は僕のものだ! 僕だけのものだ! 君の隣は、ううん、君は僕の隣にいるべきなんだ!!!!」
 その剣幕は激しく、威圧的だった。どこか焦燥感に追われた声は、ナマエの一挙一動を見逃さんとばかりに見開かれたままナマエを捉えて離さない。それに呼応するように強くなる彼の手が、細いナマエの肩に食い込んだ。ナマエは痛みに堪らず呻き、くしゃりと泣きそうな顔でカーヴェを見つめる。
「い、いたいよお……カーヴェくん……」
「……あっ……」
 ナマエの弱々しい声に正気を取り戻したのだろう、烈火のごとく燃えて赤くなっていたカーヴェの瞳に理性が宿る。はっとした様子でナマエを見やったカーヴェは、痛みに歪むナマエを見てその顔を青ざめさせた。
「ご、ごめんナマエ、僕、僕、そんなつもりじゃ……」
 カーヴェはすぐにナマエを抱き締めた。それはいつもナマエが泣いている時にしていたように慰めるために、いや、今回はきっと自分がナマエにとって恐ろしい存在ではないのだと証明するために。優しく抱き寄せて、背を撫でやる。
「い、痛かったよな? ごめん、ごめんね。泣かないで? 怖かったね、大丈夫、大丈夫だよ、ねえ、ナマエ……」
「……ヒッ」
「あ……」
 そっと身体を離し、ナマエの顔を覗き込むように顔を近付けた時のナマエの怯えた眼を見て、カーヴェは傷付いたような表情を浮かべた。そこには、ナマエに拒絶されたことへの深い悲しみと、後悔が滲んでいた。
「違う……僕、君を怖がらせたかったわけじゃなくて、僕、ただ、ただ、君まで失うのが怖くて、だから……」
 両肩から滑り落ちるように離れていく暖かな手のひらを見て、ナマエはただただ戸惑いの眼差しをカーヴェに向けていた。カーヴェに一体何があったのだろうか? 何がここまで彼を不安にさせて、何がここまで彼を追い詰めているのだろうか……。カーヴェはゆらゆらと瞳を揺らして、それからくしゃりと顔を歪めてふい、と辛そうにナマエから顔を背けた。
「……ごめん、僕、帰る。またね、ナマエ……」
 カーヴェはそう言うと駆け出すように部屋を飛び出し、そして――そして、それからナマエに会いに来ることはなかった。
 この時、カーヴェに何があったのか、そしてどんなことがカーヴェを追い詰めたのか、終ぞナマエが知ることはなかった。ナマエには自分よりもずっと優れた人物の集まる、ナマエのような存在がお呼びではない場所へ行く勇気も度胸もなく、結局仲違いをしたような形で二人の仲はそっと途切れてしまうこととなる。
 ナマエは昔から何もできなかった。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ないだった。
 結局、何から何まで出来損ないであったが故に、大切な幼馴染であるカーヴェのことを傷付けた。
 すべてはナマエが出来損ないだったからだ。ナマエがもっと感情の機微を察する能力に長けていて、ナマエがもっと優れた知能であったなら、きっとカーヴェの心の痛みに寄り添う事ができただろうに、ナマエがただ与えられるだけの出来損ないであったから、彼の優しさを無下にしてしまった。
 ナマエはずっとこれを後悔している。ずっと引き摺っている。
 ――これが、ナマエに起こった六年前の後悔と人生を変える出来事である。
 
 そして歳月は経ち、ナマエの環境も生活も大きく変化する。ナマエはカーヴェに優しくしてやれなかったことを悔やみ、そしてナマエは一人で生きていかなければならないと思った。一人でできるようにならなければならない、一人で生きていけるようにならなければならない、誰かに依存して生きるのではなく、誰かを支えられて生きられるようにならなければならない……そう強く胸に決めて一歩踏み出した社会はナマエにとても厳しかったが、しかし、ナマエに新たな世界を見せてくれた。狭い世界は瞬く間に大きくなり、出来損ないのナマエにも居場所を与える。
 六年でナマエは変わった。何もできない、できるはずがないと思われていたが、決して諦めることはなく小さなことからこつこつと積み上げていけば、人並みとは言わずとも幾許かは熟せるようになる。社会に出れば様々な人と出会い、喜ばしい体験もすれば、嫌な経験もした。そうして日々を過ごしていく中で――風の噂で、カーヴェが優れた建築物を建てたという話を聞いた。スメールシティの隅で、細々と小さな仕事に従事するナマエと、その名を轟かせて皆の憧れの星となって輝くカーヴェ。天井に輝く星と路傍の石ころは住む世界も見える世界も違うのだ。
 二人の人生は決して交わらないように見えた。しかし、ナマエにとっては変わらずカーヴェは大切な幼馴染には変わりなかった。カーヴェがナマエのことを忘れていても、カーヴェが健やかで、苦痛や悲しみのない人生を送ることができるようにと、遠くから祈っていた。
 ――ナマエの祖母が急死するまでは。


 
 がらんどうの部屋の中にいる。在るべき人のいない部屋は空虚で虚しく、そして侘しい、孤独の部屋だった。いつも家に帰ればナマエを笑って迎えてくれた人は、今はもういない。明かりの落ちた家、広くなった一室、暖かな気配の消えた冷たいリビングは、ナマエに取り残された孤独をただ淡々と教えた。音はない。そして、光もない。ナマエだけの暖かな家は消え去り、今はしんと静まり返った静寂だけが虚しさを抱えて包み込んでいる。
 ナマエはまた何もできなくなった。かつて祖母が生きていた頃のまま、時間は止まったまま、どこにも行けない一室で懐かしい記憶に縋っている。何もかもが祖母の生きていた時そのままだった。何もかもが祖母のいなくなるまでのまま、変わらないまま。作り置きされたシチューは、畳んでいる最中だった服は、椅子にかけられた上着は、丁寧に世話をしていた花は、そのすべてが腐って枯れ落ちたまま、片付けられることはない。
 ナマエは腐っていた。悲しみに耽ってどうしようもないまま、ただ過ぎ去って消えていく過去の情景の中で泣き崩れていた。
 ――丁寧に整えられていた家は荒れ始めている。シチューの腐った匂いと捨てられなかったごみの酷い匂いが充満して、明かりの灯らない家には冷たい虚無が広がっている。呆然と繰り返すだけの日々に取り残されたナマエは、祖母がいつも座っていたソファの上に横たわって、ぴくりとも動けないでいた。
 喪失感があった。深い悲しみはナマエから生きる力を奪っていたのだ。
 何日経ったのか、数週間経ったのか、それとも数ヶ月もの月日が経っているのか、部屋に籠りきりになっているナマエには分からない。同じ日々を繰り返すだけで、ナマエはただ泣くことしかできなかったから。時間の感覚さえもわからない。ナマエはずっと、暖かな家だった頃に縋っていたから。
「……ナマエ、久しぶり」
 ――そんな中、来訪者が訪れたのは突然のことだった。
「君のお祖母様が亡くなったと聞いたんだ。それで、居てもたってもいられなくて……入ってもいいかな?」
 それは暗闇に包まれた部屋を開き、そしてナマエが横たわるソファへと近付く。こつり、こつり、と荒れた部屋を叩く足音は、酷く懐かしい誰かの音だった。
「こんなに散らかって……」
 聞き覚えのある声。しかし、記憶のそれより少し低くなった声。足音はまっすぐにナマエの方へ近付き、そして、ぼうっと虚空を見つめる名前に影を落とした。
 そして、腕を引かれる。勢いで起き上がらせられたナマエをその人はぎゅうと抱きしめて、まともに風呂にも浴びていないために油っぽくなった軋んだ髪を優しく撫でやりながら、宥めるように、落ち着かせるように、ナマエを抱く。
 いつかのように。いつか暖かな手のひらと優しさに包まれていた頃のように。
「ナマエ、大丈夫……泣かないで、安心して……」
 穏やかな声が、そっとナマエに囁いた。
「これからはずっと、僕が傍にいる。ずっと、僕がナマエの傍にいるから……」
 暖かな手のひら、穏やかな体温。懐かしい匂い、懐かしい声、懐かしい――あの陽だまりのような金色の紙。
 ナマエをいつかのように抱きしめてくれていたのはカーヴェだった。そしてカーヴェは、涙に暮れたかさかさの頬をそっと包み込むと、ふわりと静かに微笑んだ。

 カーヴェと会うのは実に六年ぶりのことだった。風の噂で彼の話は耳に届いていたが、彼の姿を目の当たりにするのは本当に久しぶりのことだった。彼がどうしてナマエの家を訪ねてきたのか、どうして彼のように素晴らしい人が腐ったナマエに優しくしようとしてくれているのか、その理由は分からない。ただ事実としてナマエの家にカーヴェがやって来るようになった。それだけだった。
 記憶の中にある少年の姿と打って変わって、一人の青年として成長した彼は、ナマエより身長も肩幅もずっと大きくなってナマエを見下ろしていた。彼は無気力のナマエを抱き上げて浴室へ連れていくと、まずはごわついた髪を洗い、そしてしばらく洗ってもいなかった身体を丁寧に磨いた。そして風呂から上がれば全身を丁寧に手のひらで温めて伸ばしたボディミルクで保温し、髪の水分を丹念に拭き取ってはヘアオイルをつけて指通りが良くなるまで優しく櫛で梳かすと、ナマエをまた優しくソファに寝かせた。そうしててきぱきと荒れた部屋を片付けて掃除していくと、カーヴェはナマエに微笑むのだった。
「ゆっくり休んでいていいよ。後は全部僕がやってあげるから」
 ――ナマエは何をしなくてもよかった。ただ好きなだけ浸る悲しみに暮れていればそれで良かった。身の回りのことはカーヴェがすべて行ってくれる……掃除も、洗濯も、風呂も、料理も、ナマエが何も言わずともカーヴェは率先してそれらを行い、そして無気力に動けないナマエの世話をした。ナマエが寂しさに涙する夜は優しくナマエを抱き締めて共に眠ってくれたし、ナマエが後悔に呻いた時には優しく抱き寄せてくれた。
 カーヴェに抱き締められている時、懐かしい匂いを肺いっぱいに吸い込むと、名前#はふといつか失った暖かさを思い出した。カーヴェはいつだってナマエの傍にいて、ナマエの手を握っては泣いているナマエを優しく慰めた。懐かしい頃と変わって大きくなった背中に、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。 
「……カーヴェ、くん」
「! どうしたんだ?」
「……わたし、……ごめん、なさい」
 ナマエはカーヴェを見て、申し訳ない気持ちに襲われて、ただ謝った。
 ナマエのための食事。ナマエのために掃除された部屋。ナマエのために洗われた衣服。ナマエのために買い込まれた日用品。すべて、すべて、ナマエがやらなければならないことだった。一人になったナマエは生きていくためにすべてを熟して、地に足をつけて前を向いて歩いていかなければならないのだ。いつまでも悲しんではいられない。もう、ナマエは泣いていることが許されている子供ではないのだから。
「無理をしなくていいよ」
 だというのに、彼は優しく微笑むから。
「辛い時は、辛いって言っていいんだ」
「……」
「嫌なことから逃げ出すのは間違いじゃない。見たくない現実から目を逸らすことは、自分を守るためのものだから。……ナマエ、おいで」
 カーヴェは作業を中断してソファに座るナマエの隣に腰掛けると、そっとナマエの腕を引いてぎゅうと自分の胸の中に閉じ込めるように抱き締めた。
「いいんだ。君は君のままでいいんだよ。無理して変わる必要もないし、早く立ち直らなければと急がなくてもいい。君のことは、僕が支える。僕がずっと傍にいるから……だから、ナマエはずっとそのままでいいんだ……」
 いっそ不思議なくらい、カーヴェはナマエに優しかった。六年前の仲違いなど嘘のように、ナマエを暖めていたあの優しさでナマエを包み込んでくれる。
 暖かな手のひら、穏やかな体温。カーヴェに抱き締められている時、酷く安心した。胸中に渦巻いていた不安が萎んでいくような気がした。
 ――そんな不安定なナマエを見ていれば、カーヴェがナマエの家に移り住むようになるのは至極当然のことだった。
 あくる日カーヴェは居候していたのだというところから大荷物を持ってナマエの家にやってくると、勝手知ったる他人の家とばかりに客間のひとつを自室として好きなように内装を弄り始めた。そしてカーヴェがナマエの家で過ごすようになれば、ナマエの生活はより一層カーヴェに依存したものになった。朝はカーヴェに起こしてもらい、昼食は彼が朝作ったものを食べて日がなぼうっとしながら過ごし、夜は帰ってきた彼を迎えて彼の作った夕食を食べ、共に風呂に入り、そして彼に抱き締められながら眠る。ナマエが何かを言うまでもなく、まるで元からそうであったように彼はナマエに与えるので、ナマエはただそこにいるだけで良かった。雛鳥のように巣の中で囀って、与えられるのを待つだけの日々はとても簡単で楽な行為だ。ナマエの世界はまた再びカーヴェを中心にして回るようになった。
 カーヴェが身の回りの事をしてくれるおかげで、ナマエはゆっくりと自分を見つめ直すことができた。そして時の経過とともにナマエは正気に帰った。現実を見る余裕ができてきたのだ。そうなると、ナマエは仕事もせず、家に閉じこもってただ自堕落に生きている自分に違和感を覚えた。こんな有り様を祖母が見ていたのならきっとナマエを叱るに違いない。
「カーヴェくん、あ、あの……」
「ナマエ? ご飯ならもうすぐできるからそこで座って待っていてくれ。すぐに……」
「ち、ちがくて! わ、わたしもやる……」
「え?」
 違和感は徐々に肥大化し、ナマエはただカーヴェに任せているだけでは駄目だと考えた。これではただ幼い頃を再演しているだけだ。走るのがずっと遅いナマエが転んだ時にはすぐに駆け寄って手を取ってくれるのも、わんわんと泣くナマエを抱きしめながらおんぶしてくれるのも、授業が理解できずに固まるナマエの傍にぴったりとくっ付いて横で丁寧に教えてくれるのも、ナマエが自身の祖母に部屋の片付けを命令されたのに、もたもたと容量悪く片付けをしていれば代わりにせっさと片付けてくれるのも、それが許されたのはナマエたちが幼かったからだ。子供だったナマエたちの世界は狭く、閉鎖的だったからまだ許された。だが今は? 仕事こそ休んでいるものの、ナマエには勤めるべき職場があるし、カーヴェもまた多くの人々と交流がある。昔のようにナマエと閉じこもって二人だけの世界を作っていいはずがない。――ナマエは、カーヴェに依存してはならない。だからこそ自立を決めたのに、これでは意味がない。
「やるって、何を?」
「りょ、料理とか。洗濯……とか、ぜんぶ……」
「どうして? 君は何もしなくていいよ。僕がやるから」
「ぼ、僕がやるって、なんで……わたしがやらなきゃいけないことなのに……」
 だというのに、カーヴェはばさりとナマエの決意を切り捨てた。こてりと首を傾げて、心底理解ができないといった様子で訝しげに眉を顰め、そして彼は手にしていたレードルを鍋の縁にかけ、キッチンの入口に立つナマエの方までやってくると、ナマエと目線が合うようにナマエの前に膝を着いてナマエの両手を取って握った。
「ナマエ、よく聞いて。君は今傷付いているんだ」
「う、うん」
「無理して頑張る必要はないよ。本当は辛いのに頑張ったって、君が潰れてしまうだけだ」
「で、でも、ここは、わたしの、わたしの家で……」
「言っただろう? 僕はずっと君の傍にいる。だから、君のことを僕がやったって、何もおかしいことじゃない」
「で、でも、でも、でも……」
「でももだってもない。僕がそうだと言っているんだからそうなんだ。それとも、君は僕の言葉が信じられない?」
「……う、ううん……」
 言い聞かせる声音には少し棘があり、ナマエは躊躇いはしたが、言われるがままにこくこくと頷いた。カーヴェの眼差しこそ穏やかなものではあったが、妙にぎらついた光が宿っているように見えて、ナマエは何も言えなくなる。無言の圧力が肩に伸し掛っているように感じた。カーヴェは何も間違えない。いつだってナマエを助けてくれて、そしていつだって正しいことしか言わなかった。カーヴェに窘められるように言われると、ナマエは自分がすべて間違っているように感じた。
「ね、分かった? ナマエ、君は何も気にしなくていいんだ。君のことは、僕が守るから」
「まもる……」
「そうだよ。昔みたいに一緒にいよう? もう間違えたりなんてしないから、ずっと一緒にいよう。そのための準備だって、たくさんしたんだよ」
「準備……?」
 ナマエがカーヴェの言葉を反復すると、カーヴェがその目尻を緩めて、微笑んだ。
「うん。……本当は、もっと早く君に会いに来るつもりだったんだけど、思いのほか準備に手間取っちゃってさ。それより、夕食を食べたら一緒にお風呂に入って……今日は早めに寝ようか。きっと君は疲れているんだ」
「……疲れて、なんて」
「いいや、君は。そうじゃなきゃ、君がこんなこと言うはずがない。ほら、夕食にしよう? もうできるから」
 少し強引に片付けられた言葉に、ナマエは閉口した。
 戸惑いがあった。そして、同時に思った。――本当に、ここままでいいのだろうか、と。

 それからのカーヴェの変化は顕著だった。ナマエが何も言わないことをいいことに自身がやりやすいように家具の配置を変え、そしてどこかからか新たな絵画や調度品を買ってきては家に飾って少しずつナマエの家を自身の好みのものへと変えていく。
「ナマエ、ごらん。この部屋は全部ナマエのために用意したんだよ」
 元よりカーヴェが移り住んでからはカーヴェの部屋で共に眠っていたのでほとんど自室を使っていなかったとはいえ、気付いたときにはナマエの部屋が一変していたことにはさしものナマエも目を丸くした。美しい純白で整えられた装飾の家具、お姫様が使うみたいな天蓋付きのベッドに、フリルのついたレースのカーテン、毛足の長いシャギーラグ。塵ひとつなく整えられた完璧な部屋。少女の理想が詰まった可愛らしい部屋――それはいつか幼いナマエが憧れた部屋だった。少女なら誰だって絵本の中のお姫様に憧れることがある。幼いナマエもそうだった。ナマエも、昔は絵本の中のお姫様になりたがったものだ。だが、まさかそんな幼少期の空想と憧れを本当に形にするとは思いもしない。
「カーヴェくん、これ……」
「昔ナマエが言っていただろう? お姫様みたいな部屋に住みたいって。どうかな、気に入ってくれた?」
「う、うん。すごくかわいい。でも……」
「よかった! 君の理想に見合う家具を作るのはすごく苦労したんだ。家具デザイナーと話をつけてデザインについてあれこれ議論して……ほら、ここの意匠を見てくれ。これ、僕がデザインしたんだぞ。昔君が憧れていた月のお姫様をイメージしてデザインしたんだ。君だけの特注品だよ」
 ナマエの手を引き、家具のひとつひとつに込めたこだわりを解説するカーヴェはいつかナマエが見た無邪気な少年を想起させる。教令院へ通うようになって
「これ、お金、すごかったんじゃ」
「お金? ああ、気にしないでくれ。それはこれからたくさん働けばいいし……君が気に入ってくれることが重要なんだ」
 これは後からナマエが知ることだが、カーヴェは家具デザイナーに家具を作ってもらうことを条件に、彼らの家具に見合ったモデルハウスの設計をする取引のをしたらしい。著名なデザイナーに家具をデザインしてもらうなど簡単な話ではなかっただろうに、これも彼の仕事の伝手なのだろうか。何はともあれ、これらの取引はカーヴェの多忙に拍車をかけることになったのは間違いない。
 カーヴェはナマエのこめかみに触れるだけのキスをした。ナマエがそれに驚いて思わず飛び退くと、カーヴェはくすくすと笑みを零しながらナマエの腕を引いてぎゅうと抱き締めた。
 暖かな手のひら、穏やかな体温。たくさんの優しさに包まれているはずなのに、どうしてかナマエは胸の内から冷えていくような感覚を覚えた。
 
「カーヴェくん、わたしも手伝う」
「大丈夫だよ。僕がやるから、ナマエはそこで休んでてくれ」
「カーヴェくん、洗い物ならわたしが……!」
「駄目だ。君の手が荒れるだろう? 気持ちだけ受け取っておくよ、ありがとう」
「カーヴェくん、買い物ならわたし行ってくるよ。カーヴェくん、疲れているんだから、休んで……」
「君に重たいものなんて持たせられない。僕のことは気にしないでくれ。大丈夫、ちゃんと休んでいるから安心して。ほら、心配なら今日も一緒に寝よう? 大丈夫、大丈夫だよ。僕に全部任せてくれれば、それで……」
 カーヴェの存在はナマエの日常だけでなく、家にも侵食して、今は最早カーヴェありきの生活になってしまっていた。カーヴェが動きやすいように、やりやすいようにと変えられた家具の配置によって、ナマエはどこに何が置いてあるのかも分からない。例えば調理器具が閉まっている場所、食器棚の位置、掃除用具の場所、細々とした日用品の場所、場所、場所、場所……ナマエの家であるはずなのに、まるでナマエの家ではないかのようだった。それは、どこかからか買ってくる絵画や家具などをカーヴェが飾っているせいでもあるのだろう。ただでさえ忙しいカーヴェは仕事で疲れて帰ってきた後にナマエの世話をするだけでなく、貴重な休みもナマエのために時間を使っているのだ。早く解放してやりたかった。そのためにまずは自分の身の回りのことくらいできるようになりたいのに、どうしてこんなにも自分の家ではないように感じてしまうのか。
 ――いや、そもそも最後に外に出たのはいつだっただろうか?
「……わたし……」
 ナマエのために用意された部屋。ナマエのための憧れのベッドの上で、ナマエは愕然とした。
「わたし、もうずっと、外に出てない……」
 ふとその事実に気が付いた時、ナマエはとても恐ろしくなった。
 もうずっと閉じこもっている。何日経ったのか、数週間経ったのか、それとも数ヶ月もの月日が経っているのか、部屋に籠りきりになっていたナマエには分からない。同じ日々を繰り返すだけで、ナマエはただ与えられてばかりだったから。時間の感覚さえもわからない。ナマエはずっと、いつかそうだったようにカーヴェに依存した生活を送っていたから。

 
 ――あの頃みたいに二人で過ごそう。あの頃みたいに一緒にいよう。
 あの頃みたいに。
 二人だけで過ごして、ずっと一緒にいるのだと約束したあの頃みたいに、二人きりでいよう。

 ナマエを抱き締めながら眠る夜には、カーヴェは歌うように、そしてナマエに教え込むようにそう呟いた。
 ずっと一緒にいよう。ずっと、ずっと、二人だけでいよう。
 あまい、あまい囁きだった。蜜のようにねっとりとした甘やかなその声は、ナマエの心の臓まで垂れ落ちて、言葉という呪いの中に閉じ込める。それが真実なのだと、疑いようのない現実なのだと、ナマエの中に植え付けながら。
 幼い頃、ナマエは何もできなかった。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ないだった。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来であったから、ナマエの人生にはいつも孤立が約束されていた。ナマエは昔から何もできない。何かを上手にやれた試しがない。周囲から爪弾きにされ、無能の烙印を押されたナマエはいつだってひとりぼっちだった。
 けれどそんな孤独に寄り添う人がいた。暖かな陽だまりのような金色の髪に、悼霊花の紅で染めたような赤い瞳をした少年――カーヴェは、こんな出来損ないのナマエを肯定し、認めてくれる唯一の人だった。幼い頃、ナマエの世界はカーヴェだった。カーヴェだけが、ナマエのすべてだった。
 けれど、今は?
 今は違う。今、ナマエの世界はカーヴェだけにはなり得ない……。ナマエを取り巻く環境には様々なものが付随して、大人になったナマエを構成する骨となっている。
 二人で過ごすことはできる。だが、二人きりにはなれない。外界のすべてを遮断して、閉じこもって生活し続けることなど不可能だ。ナマエはそれを知っている。ナマエはそれをよく知っている。だから、いつまでも祖母を失った悲しみに浸ってばかりではいられないし、カーヴェにすべてを委ねて依存してばかりではいけないのだ。
 ――ナマエは自立しなくてはならない。それが、大人≠ニいうものなのだから。

「か、カーヴェくん。あの……」
「ん? どうしたんだ、なにか気になることでもあった?」
「あの、あの……わたし、わたし、もうこの生活やめたい……」
「――え?」
 恐る恐るとナマエがそう口にすると、カーヴェの動きがぴたりと止まる。
 そして、彼はナマエの方に顔を向けた。信じられないものを見るかのようにナマエを見やった。不可解そうなその表情は、ナマエの真意を求めるようにじっとナマエを見据える。
「ナマエ、何か不満でもあったのか? それなら……」
「そ、そうじゃなくて! ずっとこのままはだめだって思ったの!」
「……どうして?」
 ナマエが大声でずっと抱えていた気持ちを叫べば、いよいよカーヴェの顔が曇り、その眉間に皺が寄った。どことなくぴり、と空気がぴりついたような気がして、ナマエの心臓はきゅうと縮こまる。ナマエはカーヴェの優しい一面しか知らない。故に、いつもナマエに向けられるような失望や呆れた眼差しと同じものを向けられた時、ナマエの心はずきずきと痛み、そしてすぐにでもカーヴェに謝って許しを乞いたくなった。
 だがこのままではいけない。このままカーヴェにすべてを頼りきって、碌に何かをしていない状況が許されていいはずがないのだ。幼い子供の時であれば許された二人きりの世界も、れっきとした大人になった今は決して認められるようなものではないのだから。ナマエは自立しなければならない。一人で立ち、一人で生きていき、カーヴェの手を煩わせることのないようにしなければならないのだから。カーヴェにはカーヴェの人生がある。そこにナマエがいつまでも寄生してはならないのだ。
「わたし、ずっとカーヴェくんに頼りっぱなしで、でも、こんなのだめなんだよ。わたし、わたしもう大人だから。仕事、ちゃんと見つけて、働いて……泣いてばっかりじゃいけないんだ。わたし、もう昔とはちがうんだから……」
「もし君が僕に申し訳なさを感じているなら、それは感じる必要のない感情だ。僕は好きで君の傍にいて、君の世話をしている。……他の人に何か言われたのなら、僕が言ってきてあげる。……誰にそんな余計なことを吹き込まれた?」
「ち、ちがうっ……誰にも何も言われてない! わたしがそう思ったの! わたしが、このままじゃだめだって、だから……!」
「じゃあ、なんだ? 君は君自身の意思で、僕から離れたいって言うのか?」
「う、うん。そう……」
「……ふうん……」
 ナマエの訴えに対するカーヴェの声は酷く冷めきったものだった。先程までの穏やかな顔とは裏腹に、カーヴェはすとんとその表情を落として、何事もなかったような温度のない口調で淡々と言葉を返す。
「なら、それは忘れるといい。君は今まで通り、僕と一緒に暮らしていけばいいよ」
「……っえ……」
「ほらナマエ、席に着いてくれ。ご飯にしよう。今日は、君の好きなシャフリサブスシチューを――」
「ま、まって! まだ話はおわってない!」
 これにナマエが慌てて声を上げ食い下がると、かーは眉を顰めてナマエを見やる。
 うんざりとした顔付きだった。ナマエの言葉に苛立ちと、そして僅かな失望がその眼差しに込められている。ナマエはそんなカーヴェを見て気圧された。この眼差しには見覚えがあった。そう、それは六年前に見たことがある。六年前、ナマエとカーヴェが仲違いをしてしまった六年前の日に、ナマエを睨むように見つめていたあの淀んだ黒い眼差し……。
 ――あの時と同じ瞳が、今、ナマエを見つめている。
「フウー……せっかく話題を切りかえてやったのに……君は何が不満なんだ? 君の欲しいものは全部揃えてやってるだろ? 君の好む部屋、君の好きな食事、君が欲しいものは全部用意してあげてる。何が不満なんだ」
「な、なにが不満って、だって……」
 ナマエが言い淀むと、カーヴェがナマエの両肩に手を置いて、顔を覗き込むように身体を屈めてゆっくりとナマエに語りかけた。
「なあナマエ、よく聞いて。僕は君の望むことは全部叶えてあげたいんだ」
「う、うん」
「僕は君にずっと笑っていて欲しいんだ。僕がずっと傍にいて、僕がいないと生きていけない君を守ってあげたい。僕にとって、この生活はずっと求めていたものだから」
 不思議と、カーヴェの言葉に淀みはなかった。眼差しはあの時と変わらない色をしているのに、いっそ不気味なくらいにカーヴェは落ち着いていた。あの時のように感情を無闇に乱すことはなく、まるで本の一節を読み上げるような断言めいた口振りでナマエに言い聞かせる。
「で、でも……わたし、もうおとなで……」
「だから? ははっ、君が大人だから何だって言うんだ? 人間の本質はそう変わらない。君は今も昔もずっと、僕がいなくちゃ生きていけない可愛い子だよ」
 その時、カーヴェがくすくすと笑った。楽しいから、おかしいから、そういった理由で零される笑い声ではなく、明らかにナマエを嘲笑するための声で、カーヴェはナマエの言葉を嗤った。
 そしてカーヴェがすっとナマエを見据える。つんとつり上がったつり目の大きな赤い瞳が、ナマエを射抜くように見つめ、そして、ナマエの心を大きく揺るがす言葉を告げた。
「だって、君は僕がいないとんだから」
「――!!」
 ――それは、裏切りだった。少なくとも、ナマエはカーヴェにそう告げられた時、カーヴェに抱いていた信頼や信用ががらがらと崩れ落ちていく音を耳にした。
 ナマエにとって出来損ない≠ヘ禁句の言葉だった。それはナマエの強いコンプレックスの象徴たる言葉であった。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来であったナマエ。嘲笑の声も、軽蔑する眼差しも、そのどれもがナマエを孤独にしていた。ナマエは昔から何もできない。何かを上手にやれた試しがない。周囲から爪弾きにされ、無能の烙印を押されたナマエはいつだってひとりぼっちだった。カーヴェがいなければ何もできない、ひとりぼっちで可哀想なナマエ。ナマエが最も嫌い、疎んでいる負の象徴。誰かに依存し頼りきりになった自分から変わろうとして頑張っていたのに、よりにもよって変わるきっかけとなった人に、そして誰より信頼し、心を寄せていた人にはっきりと出来損ない≠ネのだと突きつけられたことで、ナマエの情緒はたちまち乱れた。
「難しいことなんて考える必要はないんだ。君はただずっと、僕の隣にいてくれればいいんだよ」
 カーヴェは目をゆるりと細めながら、ナマエの頬に手を伸ばす。
 カーヴェだけはナマエを傷付けないと思った。カーヴェだけは、ナマエを認めてくれていると思っていたのだ。なのに。
 ――なのに、ずっと、ナマエはカーヴェに見下されていた。
「さっ……触らないで……!」
 咄嗟に名前は伸びてきたカーヴェの手を叩いた。
 それは拒絶だった。初めて名前が行った、カーヴェ≠ニいう人間の、拒絶。
「……君に嫌われる覚えはないんだけどな。僕は君を守るためにここにいるのに」
「ば、ばかにしてた! わたしのこと、そうやって……そうやってばかにしてたんだ!」
「……馬鹿にしてるだって? 馬鹿になんてしてないよ。ただの事実だろう?」
「〜〜! 嘘つき! わたしが何もできないって、カーヴェくんだけは、カーヴェくんだけは言わないって思ってたのに……!」
 ナマエは瞳に涙を浮かべながらきっとカーヴェを睨んだ。ナマエの小さな胸には、ずきずきと釘を打たれたような痛みが広がっていた。傷口から染み込んだマグマのような辛い現実が、じくじくと内側を焼きながら炎症を齎していく。
 胸が苦しい。息が上手くできない。じんわりと視界が涙で滲む中、ナマエは初めてカーヴェに反抗した。ナマエのすべてだった人に。ナマエを唯一肯定し、守ってくれた人に。反抗した。ナマエのちっぽけなプライドを守るために。
「わたし、出来損ないなんかじゃない! 一人だって生きていける! 一人だってやっていけるんだ!」
「へえ。君が?」
「カーヴェくんには、カーヴェくんには分からないよ。わたし、いつまで出来損ないでなくちゃいけないの!? わたしだってみんなと同じだよ、みんなといっしょにやっていける!」
「……家を荒らし放題にして、駄目になっていたのに?」
「……っ!」
 けれども、カーヴェはそんなナマエの犯行を鼻で笑うのだった。呆れたような、小馬鹿にするような、そんな酷い態度だった。ナマエを対等になんて見てすらいない。むしろ――ナマエを≠ネものとして扱っている。
 その目には、言葉には、態度には覚えがある。ナマエは昔から何もできない。運動はできず、かといって勉強もできず、要領が悪く、何をやるにも失敗ばかりの出来損ない。人の二倍もの時間をかけなければたったひとつの物事を熟すこともできないほどに不出来な出来損ない。周囲の人々から散々向けられていた冷たい目が、ナマエを見ていた。無能。やくたたず。一人で、虚しい、可哀想な、出来損ない――。
 瞬間、嫌な記憶が蘇った。足先からぞぞぞと這い上がるような冷たい悪寒はナマエの肌を舐め上げ、そして感覚の底から冷やされていくような恐ろしさを覚えた。自分の足がきちんと床についているのか、そもそもナマエは今しっかりと立てているのか、一瞬の浮遊感がナマエを襲って、ナマエは自分がどうなっているのか分からなくなった。平衡感覚がぐにゃりと曲がって、頭がずきずきと傷む。金槌で頭をがんがんと叩かれている気分だった。
「っ……あ……」
「何が一人でも生きていけるって? 掃除も片付けもできないまま全部放置して、結局一人で生きていけなかったじゃないか」
「ぅ、ぁぁ……」
「何もできないまま、独りになった瞬間に君は立つことさえ叶わなくなった。ひとりぼっちの君は、誰かの支えがなくては生きてはいけない」
「ぁ、ゃだ、ちが……」
 責め立てる冷たい声から逃げるように両手で耳を塞げば、すぐにカーヴェに腕を取られて、鼻先が触れ合う距離まで顔を近付けられると、ナマエの眼をしっかりと見据えてカーヴェが告げた。
 逃げるな、と。そう告げるように。カーヴェの、その悼霊花で染めたような瞳の中に、汗をかいて動揺に眼を揺らすナマエの姿が見えた。
「耳を塞ぐなよ。ちゃんと聞くんだ。君は一人では生きていけない。だって――んだから」
「――あっ」
 ナマエは目を見開いた。瞬間、膨大なまでの情報がナマエの記憶の中に蘇った。
 出来損ない。ナマエに向けて、誰かが言った。やくたたず。期待に応えられなかったナマエを、誰かが侮蔑した。無能、能無し、出来損ない。出来損ない。出来損ない。誰かの声が反響する。誰かの声が木霊する。誰かの声が――カーヴェの声になる。
「あの頃はよかったな。君には僕だけで、僕がいなくちゃ君は息すらできなかった。僕がいないとすぐに不安になってわんわん泣いているんだ。可愛くて、可愛くて、ずっと守ってあげたいって思った。……なのに、今の君には邪魔なものが多すぎる」
「ち、ちが、わたし、わたしっ……」
「人間関係も、取り巻く環境も、目まぐるしく変わる中で、君だけはあの頃のまま変わらないでいて欲しかったんだ。僕だけの君のまま、そして、君だけの僕のまま、永遠であったなら、何も疑わずに二人きりでいられたのに……」
「う、うう、ちが、ちがうっ、わたし、わたし、できそこないなんかじゃ……」
「ううん、ナマエ。君はできないよ。君は、んだ」
 汗をだらだらとかき、うろうろとその眼を泳がせては必死に首を横に振っては逃げようとするナマエを、カーヴェは優しく捕まえて、否定した。
 そしてカーヴェはナマエの両頬に手を添え、俯きはじめた顔を固定し、無理矢理に自分の顔と合わせる。
「……君の目に映るものも、君を知る人も、全部消えてしまえばいいのに」
 その時、ナマエの目尻に溜まっていた涙がぽろりと零れ落ちたので、カーヴェはそれを舌で掬って舐めとってやった。逃がすつもりはなかった。カーヴェはとろりと蕩けるような甘やかな笑みを浮かべると、ナマエにいつか与えた呪いの言葉を囁いた。
「ね、ナマエ。昔みたいに、二人だけでいようよ。誰にも邪魔されなかったあの頃みたいに」
 あまい、あまい、ささやき。
 脳も、心臓も、全部犯して、浸して、滅茶苦茶にさて、溶かしてしまいそうなくらいに、優しくて、甘美な、あまやかなささやき。
「僕から離れていかないで。他の何もかもが変わっても、君だけは変わらないでいて。ずっと僕の傍にいて……他の何も必要としないで、僕だけを見ていて……」
「あっ……」
「だって僕たち、ずっと一緒だって約束しただろう?」
 ナマエは、はくりと息を吐いた。
 違和感があった。言いようのない、そう、パズルのピースを間違えて嵌めてしまったかのような、気持ちの悪い違和感だった。
 それから、ふるふると揺れる眼で、カーヴェをゆっくりと見つめ直した。
「カーヴェ、くん、は」
「うん?」
「カーヴェくんは、わたしに……出来損ない≠ナいてほしいの? 何もできない、意味のない、わたしに……」
 ナマエの震えた声を聞いて、カーヴェはぱちくりと瞳を瞬く。
「うん」
 そしてすぐににっこりとわらって頷いた。
「君には何もできないままでいて欲しい。誰からも嫌われて、見放される存在であってほしい。そうじゃないと誰かに取られるし、今みたいに僕から離れていこうとするだろう?」
「ッ……!」
「何もできないままでいてくれよ。全部僕に任せてほしいんだ。そのほうがずっと、ずっといいよ……」
 ナマエはその瞬間、気付かされた。
 ナマエはずっと、ずっと、できなかったのではない。
 のだ。
「好き」
 愕然とするナマエを、後ろ手に回した手がナマエの頭ごと抱え込むようにして優しく抱き締めた。そして、肩口にある彼がはあ、と甘い溜め息を吐くと、ナマエの耳元で囁いた。
「君が好きだよ。出会った時からずっと。君が、僕の名前を呼んでくれた時から、ずっと……」
 暖かな手のひら。穏やかな体温。ぎゅうと抱き締める手が、こんなにも自分を縛る枷のように感じてしまうことなんて、きっとこの先ないだろう。
 ナマエは自分を支え、守ってくれた手が、自分を追い詰めるものであることにようやく気が付いた。そしてその瞬間、ナマエにとっての安寧の象徴はナマエにとってのコンプレックスを刺激する負の象徴へと変貌した。
「き」
 気付けば、ナマエは口を開いていた。
「きらい……」
「――えっ?」
「カーヴェくんなんて、き、きらい……」
 ――ナマエがそう告げた、その瞬間だった。
「ぁぐっ……!」
 ナマエはカーヴェによって壁に追い詰められていた。いや、カーヴェの手によって、壁に押し付けられていたのだ。
 ナマエの細い首を握って。ナマエの細い首を押し付けて、カーヴェはかっとその瞳孔を開きながら、ナマエを上から覗き込むようにして圧をかける。
「……今、なんて?」
「ヒッ……!」
「ナマエ、答えて。……今、なんて言ったんだ?」
「きら、きらいって、いっ、いっ……!」
 ナマエがカーヴェを否定する度に首を握る手に力が込められ、ナマエの首はぎゅうぎゅうと締め付けられた。ナマエは必死になってカーヴェの手をばしばしと叩いたが、カーヴェはもうナマエの知る優しいカーヴェではないのだ。記憶の中にある優しいカーヴェよりもずっと身長も伸びて、ずっと大きくなって、そして――ずっと、ずっと、ナマエより優れた人になってしまった。
「ナマエ、君には僕だけなんだよ。君がそう言ったんだろ、なあ」
「あっあっ、う……」
「ナマエ。……僕、嘘は嫌いだな」
「い、いたッ……ヒ、う、うう……」
 締め付けられる感覚は呼吸を奪う。ナマエは息ができなくなって、酸欠で顔を赤くした。涙で視界が滲む。息苦しさに呼吸は荒くなり、ひたひたと躙り寄る冷たい感覚にナマエはがたがたと震えた。
「や、やめて……」
 そして、ナマエはカーヴェを見上げた。
「か、カーヴェ、くん、や、やめてよ……ね、や、やめて……」
 そういえば、許してもらえると思った。
 いつか泣いていたナマエを優しく抱き締めて慰めてくれたように。いつか寂しがったナマエに微笑みかけてくれたように。カーヴェは、ナマエのことをいつだって守ってくれた。大切にしてくれた。だからこそ、ナマエがこうして弱々しく懇願すれば、また優しいカーヴェに戻って、「怖い思いをさせてごめん。大丈夫だよ、もう怒ったりしていないから」と慰めるように抱き寄せてくれると思った。
 しかし。
「……やめて=H」
 声が、ほんの少しだけ低くなる。
「やだっ、やめて……!」
 抵抗の声など、耳に入らなかった。
「僕が、どれだけ君のこと考えて……どれだけ我慢してきたと思ってるんだよ…っ!」
 怒りが先に、動いていた。
「……っ……ぅ……」
 呻くように、ナマエは泣き出した。叫びもせず、ただ静かに、子供のように嗚咽を漏らした。




みどりのよる