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……………
「座って!」
「…えっ?」
「いいから座んの!」
無理やり美空が彼女を連れ込んだのはweather lifeの事務所。
今は皆焼き肉を食べに行っていて、丁度誰もいないし。
ソファーを何度も叩いたら、エマは遠慮がちにゆっくりと腰を下ろした。
「楽器はCDだけど歌声は生だからね!この僕がこんなサービスなんて滅多にしないんだから感謝してよ!」
気分屋な性格で周囲からは有名の美空七音。
自分が作詞、作曲した歌がヒットして相当気分が良いらしい。
ルンルンでCDをステレオへ挿入すると、スピーカーから前奏が流れ始めた。
〜♪
「音のない世界を旅しても…」
・
・
・
美空はマイクを使わずに歌い出す。
先程のチャラチャラした話し方とは別人のような美声。
彼の美しい歌声は部屋を包み込むように響いた…――
「声を聴かせて、声を聴かせて、声を聴かせて
貴方の声を
そっと目を閉じ、感じたいの
目で見ても、指を触れても、キスを交わしても
足りないの
足りないの
声が聴きたい…
silent lady…」
サビ、フィニッシュを迎え
スピーカーからの音は耳から消えてなくなった。
美空は歌の余韻に身を任せ、大きく息を吐いた。
「…………。」
エマは黙ってソファーに座り、こちらを見ていた。
表情に変化の少ない子だが、なんとなく穏やかな顔に見える。
…喜んでもらえただろうか。
「どうだった?」
「…………。」
彼女はその表情のまま動かない。
「ねぇ、どうだったって訊いてん…」
「……っ?」
彼の顔を見ていた彼女は何かに驚いたように体をピクンと震わせ、立ち上がってパチパチと拍手をした。
「………っ…」
拍手を続けるエマに、美空は言葉を失って立ち尽くす。
忘れていた…
自然と心臓の鼓動が早くなる。
「…じょっ…」
上手く話せない口調で感想を言おうとしているのだろうか。
そんなの、無理に決まっている。
だって…
「じょうず…」
ガッ!と咄嗟に彼女の手を強く握った。
嘘をつくなよっ…
唇が小さく震える中、美空はテーブルに置いてあった紙とペンを取り…
『ごめん』
その文字が荒々しく書かれていた。
彼女には「音」が聞こえない。
聞こえない「言葉」で説明して
勢いだけで連れてきて、
無理やり「音楽」を聴かせた。
彼女にとっては自分が何故ここへ連れて来られたのか、自分が今何をしてもらったのか、恐らくほとんどわかっていないのだと思う。
全てひっくるめて謝りたかった。
「…?」
だんだんと空の青がオレンジに変わり始める時間帯。
窓からのその光に照らされたエマの「どうして?」と言いたげな顔に、ますます複雑な気持ちが膨らんでいく。
だって…
何かを書こうと思っても、ペンが止まってしまう。
何を書けば良いのかわからない。
彼女は「音楽を知らない」
そして僕は「音楽しか知らない」
手まで震え出して、臆病風に吹かれて目を床に向けた途端
エマは彼の持っていた紙とペンを取り上げた。
「………ッ…」
『楽しかった』
彼女の書いた文字に、美空は目を大きく見開く。
「なんで!?だって…アンタは何も聞こえてなかったんでしょ!?」
この言葉ももちろん聞こえていないが、エマには何を言ったのか、なんとなくわかったらしい。
再びペンを走らせ、彼に見せた。
『音は聞こえなくても、貴方が楽しそうに歌ってる姿は見える』
「……………ッ…」
呼吸を一瞬忘れた。
今まで体験した事のない気持ち。
耳が聞こえない人間は、この世界にきっと数え切れない程存在する。
しかし今まで、そんなの考えた事もなかった。
僕にはそんな事関係ないし、ハッキリ言って面倒臭いから。
しかし今、音の聞こえない人達の為に自分がしてあげられる事はないかと、初めて考えた。
いや、「人達」じゃなくて「人」の為に。
でも今までにない経験で、
この分野の単語を僕は何も知らなくて、
どれだけ考えても言葉が出てこなかった。
『帰っていいよ。無理やり連れてきてごめん』
代わりにペンが生み出した文字がこれだ。
頭を下げる事も忘れて、ただその文章を書いた紙をエマに見せていた。
「気に…しないで…」
僕の文に対しての返事が今のたどたどしい言葉。
正直…勘弁してくれと思った。
彼女を前にしていると、ますます自分が惨めに感じてしまう。
考える時間が欲しいんだ。
頼む、今は…
「ただいまー!あれ?美空さん、帰ってたんすか?」
突然扉が開けられ、そこにはお腹をさする日晴が立っていた。
「ヒーちゃ…っ!?帰ってくるの早……違う、えっと…」
「ん?お客さん?」
「あっ…違うんだ!……その…知り合いの妹さんで…」
我ながら苦し紛れの言い訳。
エマに何も聞こえていないのが唯一の救いだ。
男性がゾロゾロ入ってくるや否や、彼女は慌てて荷物をまとめ、お辞儀をして部屋を出て行った。
突然知らない男の人がたくさん現れて、怖くなったのだろう。
とりあえず助かった…。
「焼き肉…美味しかった?」
「うん♪ぜーんぶリツ君が払ってくれたんだよぉ」
雪之原は財布の中を寂しそうに見つめる雨宮の背中を、特有の黒い笑顔で軽く叩いた。
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