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……………
「はぁっ…」
部屋の中でも白い息が出た。
今まで誰もいなかったこの建物の中は、風さえしのげるものの、気温は外と変わらない凍える寒さ。
急いでクラウディは部屋の扉を閉め、暖房をつける。
前に来た時は人数がもっと多かったからか、随分と部屋が広く見えるな。
『There is a room to show you. Would you come with me until this gets warm?
(貴方に見せたい部屋があります。ここが温まるまで、自分に付いて来てくれませんか?)』
彼はリモコンをテーブルに置き、携帯にこの文字を打って見せてきた。
「部屋…?」
見せたい「部屋」があるなんて思ってもいなかったエマは、ハイライトのない独特な瞳を上げた。
クラウディは否定もせずに頷いて、エマも驚いたものの特に拒否もせず首を縦に振る。
『A mischief is not carried out. Please feel easy.
(イタズラはしませんよ。安心してください)』
その文字を読んで、彼女はクスッと笑ってしまった。
・
・
・
再びクラウディに手を引かれ、廊下に出て階段を下った地下。
連れて来られたのは、その中のひとつの扉の前だった。
一見、私には何も関係のなさそうな部屋に見える。
ガチャン
彼が扉を開け、中に入ると
「………ッ…!」
見た事のない世界が目の前に広がっていた。
壁に立てかけてあるチェロ。
並べられたバイオリン、トランペット、クラリネット。
堂々と部屋のスペースを占領するグランドピアノ。
その他、ハーモニカにフルートに木琴鉄琴、打楽器。
もはや名前さえ出てこない種類のものまで。
地下のこの部屋は、ありとあらゆる楽器で埋め尽くされていた。
「………ッ…」
耳の聞こえないエマにとっては、ほぼ全てが初めて生で見るような物ばかり。
【楽器】
自分には最も縁のない…程遠い存在といえる物。
この先一生関わる事なんてないと思っていた物。
でもよく考えてみれば、この人達はバンドをしている人達か。
こういうスペースを所有するのが、当たり前なのかもしれない。
「…ここは……そのっ…バンドで…使う、楽器の倉庫……ですか?」
『It is different. It is a private room of NAOTO here.
(違うよ。ここは七音のプライベート部屋)』
「……えっ!?」
クラウディの見せた字を読んで、思わずエマは口を開いた。
倉庫と見間違えるくらいの楽器の量。
ここが…あの七音君の部屋?
あのチャラついた彼とはあまりに結びつかなくて、もう一度楽器のひとつひとつを目に映す。
『To NAOTO, it is secret. If having entered freely is known, because I will be scolded
(七音には秘密だよ。勝手に入ったって知られたら、自分が怒られちゃうから)』
声が出ず首を縦に振る。
ある程度部屋の中をグルッと回り呆気に取られていると、再びクラウディが携帯を見せてきた。
『It sees, and music is all of him as it understands. If there is no music, he cannot make a living.
(見てわかる通り、音楽は彼の全てなんだ。音楽がなかったら彼は生きていけない)』
「…………。」
携帯の液晶を見た彼女の反応は、眉を下げる寂しそうな表情。
「………?」
「私っ……には…その………音楽…が…わかりません…
なんにも……聞こえ…ないから…」
「………。」
クラウディはその言葉を聞いて、見せていた携帯をそっと下ろした。
「そんな…私っ…に…は……七音君…が…求めるものが……全然…わから、ないのに……
…あの人の……期待っ…に……応えられる自信が…っ……ありませ…ん…」
窓のない密閉された空間。
灰色の壁には防音加工が施されており、彼女の小さな声はあっという間に吸収されて聞こえなくなってしまった。
「………。」
黙っていた彼は肩を震わせて今にも泣き出しそうな小柄なエマを見つめ、
突然、美空がいつも使っているデスクへ歩き出した。
「……クラウッ……?」
机には無残に撒き散らかされた紙。
その山を漁り、数枚丁寧に抜き取った。
全て五線譜が引かれている。
普通の楽譜だと思ってたけど、それをまとめて持ってきたクラウディの手元を見た途端、
肩の震えが止まった。
【サイレントレディ】
その楽譜だった。
*****
『この間、無理やり聴かした歌。あれ、エマちゃんをモデルに僕が作った歌なんだよ』
「えっ…?」
教えてもらったのは、七音君達がゲリラライブを終えた数日後だった。
いつものカフェテラスで、そのメモ帳を見せられた驚きといったらもう…
「…私な…んかを…?どうして…?」
『耳が聞こえない女の人って、なんか新しいテーマだと思ったの!
事務所から求められてたのもバラードだったし『コレだ!』だって閃いて。
スッゴい売れたんだよ!!
まぁ天才の僕が作ったんだから、売れるのは当たり前なんだけどね〜』
最後の文章にクスッと笑ってしまった。
相変わらず七音君は妙に自信家で偉そうで、いつも自分の事を「天才」と呼ぶ。
本当の実力はわからないけど、バンドも人気だし歌もきっと上手いんだろうな。
『エマちゃんの耳が聞こえたらなぁ!何千回でも聴かせてあげんのに!』
「そんなに…聴いたら、疲れちゃう」
笑った顔を見せ、カップに注がれていたコーヒーを一気に飲み干した七音君。
こんな私が音楽のテーマとして彼に使ってもらえた事が、純粋にとても嬉しかった。
どんな歌なんだろうな…
一度聴いてみたい。
嬉しさを隠せなくて、その日はこの内容を日記に書き綴る事に決めた。
「……なんて……いうんですか…?」
「ん?」
「…曲の……タイトル……」
あぁ、タイトルね!と、紙に文字を書き出す。
『サイレントレディ』
この時初めて、私はこのタイトルを知った。
忘れられない。
私が生まれて初めて知った
音楽。
*****
数十枚にも渡る楽譜。
中には音符が書いてなくて、五線譜の上に文字しか書いていないものや、
没になったのか、上からぐちゃぐちゃの線が入ったものも多く混ざっている。
クラウディから自然とその楽譜を受け取り、目がそのメロディを追った。
【声が聞こえなくても】
【感触だけを頼りに】
【自分の音が聞こえないの】
所々に私に関連する文章がいくつも入っている。
紙を捲る度に瞬きの回数が増えて、この部屋でこれを無我夢中に書いている美空の姿が頭をよぎった。
『It hardly came out from this room for one week until NAOTO could do this music.
(七音はこの曲が出来るまで、1週間はこの部屋からほとんど出て来なかった)』
そう、クラウディさんが教えてくれた。
少なくとも1週間は、私の事を考え続けていてくれた。
全然そんな事知らないし、彼の口からも聞いた事がない。
『Although it is also regarding this time, he needs you seriously.
The thought to his music must not be imperfect. I guarantee it.
(今回の件でもだけど、彼は本気で貴方を必要としています。
彼の音楽に対する思いは生半可なものじゃない。それは自分が保証します)』
「クラウディ…さん…」
その言葉がただ嬉しくて、楽譜をギュッと握ってしまった。
そしてエマは最後にコクリと頷く。
「私……書き…ますっ…」
「……?」
「皆さんを………納得させられる…ような…詩……っ…
…来週…までっ………絶対…」
たどたどしい彼女の言葉を聞いて、クラウディもやっとニコリと笑った。
役に立ちたい。
もっともっと…七音君の役に立ちたい。
その瞬間
詩の題材は私の頭の中で確立した。
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