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……………
「お疲れさまー!」
「お疲れさまです!」
レース終了後、観客の拍手が選手達に送られた。
今日の結果は1位がビッキー、2位がリッキー、そして3位がボビーという結果。
ビッキーは朝から吸収した萌萌パワーで1位を勝ち取ったという事か。
2位のリッキーは相変わらずの上位組といった感じ。
走りにほとんどブレがない。
3位のボビーは…本当にアイツはたまにやってくれる。
見た事もないような動きで周りを翻弄し、いつの間にかゴールラインを通過している。
あの謎の走り方に惚れて、ウチのおとぼけ社長がスカウトしたとかしてないとかいう話だ。
私はと言うと、4位のジム、5位のナイジェルに次いで最下位。
ここ最近は不調で走りに乗れず、タイムが思うように伸びない時期が続いていた。
「疲れてるのかな…」
おでこの汗をタオルで軽く拭いて、控え室に置いてある保冷バッグからスポーツドリンクを取り出した。
そういえばこのドリンクは、七音達がCMをしてるものだったな。
青と水色が印象的な爽やかなラベルだ。
現在、この控え室にはサラひとりしかいない。
本日レースを行った会場は、初めて来るオークランドという場所にあり、ビッキーが観光をしたいとはしゃぎ出したのが始まりだ。
ひとりじゃ危ないからとジムが付いて、その彼が気分転換にとナイジェルを誘い、お土産が買いたいとリッキーも話に乗った。
お決まりのボビーはもちろん「愛しのビッキーちゃんが行くから」
サラも最初はジムに誘われたが、珍しくそれを断った。
やはりまだ気分が暗い上に、レースにも最下位になってしまった。
だから少し、ひとりになって考える時間が欲しかったのだ。
今の自分が不安定な事は、自分自身が一番わかっている。
キンキンに冷えたペットボトルの蓋を開け、半分くらいを一気に飲み干した。
冷たくて頭が痛い。
コンコン!
「……?」
時計の長い針は、まだ20分程しか動いていなかった。
扉が軽く叩かれ、咄嗟にペットボトルの蓋も閉めないで飲みかけのドリンクをテーブルに置く。
思ったより早く帰ってきて驚いた。
ビッキーがいるとなると、最低でも一時間はかかるかと思っていたのに。
コンコン!
「はいはい、今開けるわよ」
ガチャン!
何の心構えもせずに鍵を解除し、ドアを開けた。
「おかえ…………ッ…」
「ただいま、サラ」
ドアの前には、ひとりの男が立っていた。
しかも、その男の後ろにはジムもナイジェルも…誰もいない。
ひとりだけ。
「リッキー…」
「どうしたんですか?」
昨日、たまたま見られたあの光景。
確かに彼は…あの場へ来た。
突然、この控え室の緊張感が高まり始める。
「お…おかえり。皆は?」
「まだ夢中で買い物をしてますよ。俺はお土産も買い終わったし、疲れたので帰って来ちゃいました♪」
可愛らしく笑う彼の顔が…今は怖い。
どうして…そんなに笑っているのか。
「そう…。ジュースあるわよ?飲む?」
「ジュースより今は水の方が良いですね」
「水ね。ちょっと待ってて」
彼女が背を向けて保冷バッグに向かい、
ガチャンとリッキーの扉を閉める音が聞こえたと思うと
カチャッと続けて鍵をかける音も聞こえた。
「ミネラルウォーターあっ…
………ッ…!!」
ドンッ!!
よからぬ予感が現実になる。
「……!」
突然、背中から体を壁に押し付けられ、身動きが取れない状態にさせられていた。
その衝撃でミネラルウォーターが手から滑り落ち、床に転がる。
サラには一瞬の出来事で、頬を壁に付けたまま声を出す事すら出来なかった。
「…驚きましたか?俺が普段と全然変わらないから」
「………ッ…」
頭のすぐ後ろから、男の声が聞こえる。
手の甲を両手で押さえ付けられ、とてもじゃないが動ける体勢ではない。
「昨日の事…忘れてないですよ。
あの光景も、
貴方の顔も、
声も、
全部…」
強引に体の向きを180度回転させられ、顔に暗い影が落ちる。
重ねられたままの両手は強く壁に押し付けられ、顔の距離が近すぎて上手く声が出せない。
「リッ…キ…」
「散々考えました。サラは結局俺の事なんて、ただの子ども同然としか思ってないんじゃないかって」
「………ッ…」
壁に押し付けられた手。
骨が軋みそうな程強く握られ、その目線がまるで別の人物のように私に突き刺さる。
声も普段の優しいリッキーの声ではない。
「サラの相談相手になりたいというのは本望でした。
辛そうな貴方の顔を見てると俺だって悲しかったし、何より俺を頼りにしてくれた事が本当に嬉しかったんです。
でも正直…貴方に近づきたいと思う気持ちも心のどこかにはありました」
「…………。」
「図々しいのは百も承知です。
ナイジェルがこんな時に…俺は一体何を考えてるのかって…
でもね。
俺はそれでも、期待を捨て切れなかったんです。
ずっとずっと前から、貴方の事を見てきたから」
「リッキー…」
ハイライトが消え、瞳孔が開ききっている
優しい後輩の裏の顔。
「でも今回の件でわかりました。
俺はもう…どう足掻いても相談相手より上の存在にはなれない。
俺がどれだけ貴方に憧れ、想いを募らせた所で
俺は絶対、ナイジェルの位置には届かない」
「違っ…」
「今日のレースだけじゃない!
サラは前回のレースでも前々回のレースでも、ずっとナイジェルの後ろに付いています!
意識してるにしても無意識にしても、ずっと手を抜いてあの人の後ろを走っている!」
「そんな事はな…!」
ガシッ!!
「見てください!これが貴方の手です!!
これが女性である貴方の手の平!
こんなにまで血豆が出来る程トレーニングして、実力を身に付けた貴方が、何度も最下位になる事なんて今までなかったんですよ!
それでも貴方は、彼の事を気にかけていないと言い切れるんですか!?」
「………ッ…!」
彼の声はこの狭い控え室だと、微かに跳ね返ってくる程大きかった。
リッキーにこんなに大きな声を出された事は、今までに一度もなくて
「…………。」
頭の中が真っ白になる。
彼の荒い息の音が耳に入り
握られたままの手は、離れる気配を見せない。
「サラの…ナイジェルを気がける気持ちは十分にわかります。
今の彼が一番辛い状況にいるって事も…わかっていますっ…
だけど…
あんな光景見せられてっ…
貴方に優しくされればされる程…貴方がわからなくなって…!
俺はいつまでも貴方の『可愛い後輩』でしかないし、
どれだけ振り向いてもらおうと努力しても、貴方は俺をいつも子ども扱いするッ!煤v
かつてなかった、リッキーのこんな姿。
もはや…あの優しい笑顔は面影も残っていない。
「ごめんなさい…」
「……………ッ…」
彼女の口から出てきた謝罪の言葉に体が震える。
「俺は…最低です…」
「…………。」
「すみません…。サラ」
「もう…全部ぶっ壊したいんです。
意味、わかりますよね?」
「………ッ…」
空気が変わる。
その一瞬で
ギリギリまで張っていた糸が
プチンと音を立てて切れた。
ガタンッ!
「嫌っ…やめてっ!!」
先程よりも肩を強い力で押さえつけられ、首に噛みつかれる。
「はっ…離して!」
怖くなってそのまま手で押しはらうが、
彼はそれでもすぐに肩を両手で掴んできて
強引にキスをされる。
「んぅっ…ふっ!煤v
クチュっ……ちゅっ…
抵抗出来ずにいると
肩から離れた手は頬を抑えて、奥まで舌が侵入してくる。
「…ん…んぅっ……ん!」
こんなの…リッキーではない。
あの謙虚な態度は
嬉しかった言葉は
私を癒やしてくれた優しい笑顔は
全部嘘だったの?
「……んっ…はぁっ…はぁっ…///」
ようやく離れた唇は、透明な銀色の糸を引く。
彼がこんな乱暴な口付けを知っているなんて思ってもいなかった。
「もうやめて、リッキー」
「貴方がいつまでも気づいてくれないのなら、わからせてあげますよ。
俺がもう子どもじゃなく、大人の男なんだって…
いつまでも可愛い後輩じゃないって事を!」
バチンッ!!
「……ッ…!」
頬に衝撃が走った。
痛くて熱くて、ジンジンする。
左手を赤く腫れた自分の頬に当てた。
「ハァッ…ハァッ…」
目の前の女性は息切れ切れに、出していた手を引っ込める。
「す…すみません…」
彼女に頬を叩かれ、ようやくリッキーも正気に戻ったらしい。
一歩引き下がって軽く頭を下げた。
ただ…純粋に悔しかった。
ナイジェルがこの人とキスをしていた事実が。
自分も少しはサラとの距離を縮めていたと思っていたのに。
結局は俺が自惚れていただけだとわかって。
悔しさや嫉妬心、悲しみと羞恥心全てが襲いかかってきて
頭の中がおかしくなってしまっていた。
サラがそう思ってるなら、無理やりわからせてやればいい。
力づくでも体を奪ってしまえば、貴方だって俺がもう子どもじゃないって事…わかってくれるでしょ…って…
俺はこんな馬鹿な行動に走ってしまった。
「誤解しないで…。
誰のせいで…私がこんなに悩んでると思ってるの!?」
「………ッ…」
言い放った彼女の本心。
しかしその言葉の意味が、今の俺には理解出来ない。
「サラ…」
「ナイジェルと…あんな事をしてたのは、ごめんなさい。
私も…気持ちが先走ってしまって…リッキーに辛い思いをさせた事、謝る。
でもあともう少し…時間を頂戴…」
「…………。」
サラは言葉を残し、逃げるようにこの部屋を出た。
残ったのは転がったミネラルウォーター、彼女の飲みかけのドリンク
そして立ち尽くす俺。
サラの心情が…放心状態だからか、今の俺には全然わからない。
人がひとり減ってしまっただけで、この控え室は時計の秒針の動く音が聞こえる程静かになった。
「誰のせいで…こんなに悩んでると思ってるの…か…」
彼女の台詞を小さく呟いてみても何も見えてこない。
リッキーはひとり椅子に座り込んだ。
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