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……………


悲しかった。


七音君だけは…私の耳を絶対悪く言わないって信じてた。


彼は耳の聞こえない障害を知っても、何の壁も作らずに私の手を引いてくれた。


私が何も聞こえないから、視覚で楽しませてくれようとダンスも一生懸命練習してくれて…



何より「私」の歌を作ってくれた。







信じてたのに…














―なんで聞こえないの?―――…














とにかくその事実が悲しくて、あまりにも自分が惨めになった。

我慢出来ず、雨が降っている事なんてお構いなしに何も持たず事務所から飛び出してしまって…


今は誰にも会わず、誰にも顔を見られたくない。


隠れるように見知らぬ空き家の裏に潜り込んだ。



その瞬間に堪えていた大量の涙が目から溢れ出して、立っている事さえ出来なくなって屈み込んでしまう。

十分な屋根という屋根がなく、体に大粒の雨が吹き付けるが、今はそんな事どうでもいいの。


雨が流しても流しても、私の涙は一向に止まらない。



これほど…自分の無能さを恨んだ事はない。

自分のこの耳を恨んだ事はない。



聞こえないから、本当の事がわからなかった。


聞こえないから、簡単に騙されてしまった。




なんで私の耳は何も聞こえないの?



皆聞こえるのに、どうして私だけが聞こえないのっ…



なんで!

なんでなんにも聞こえないの!!!!!



真っ赤になる程何度も叩いたり引っ張ったりしたけど、


それでも結局結果は同じ。


うんともすんとも…


こんな豪雨の中なのに…どうしてこんなにも…



私の中はこんなに無音の世界なのだろうか。



その場所で散々泣いて、泣いて、泣き疲れて。

気がついたら私はただ人形のように壁にもたれてグッタリと座り込んでいた。

もう全身ずぶ濡れ。

これならもう、どれだけ汚れても構わない。




私はもう…七音君にとって、いらない存在。


いつかはそんな結末になる事…


最初から薄々わかっていたはずなのに。



こんな障害を持ってる人間なんか、最初は興味本位で近づいてくる人もいるけど…


結局最後は面倒になって、皆離れて行ってしまう。


きっと七音君もそうだったんだ。


あんなに人気者なんだから、少しの間でも私と関わってくれた事自体が奇跡だったんだ。








忘れよう。




もう全部。




何も変じゃない、むしろ今までの生活が日常からかけ離れすぎていたんだ。






慣れたひとりぼっちの生活に戻る。






ただ…それだけの事。













心の中できっかり諦めがつき、ようやく座りっぱなしだった腰を上げた。

このロングスカートも雨に濡れれば凄く重たい。



家に帰……あっ…




そうだ。

よく考えると財布も定期券も携帯も、全部事務所に置きっぱなしだ。


あの場所に戻らなければ、家にも帰れない。



ど…どうしよう…

行きたくない。

もう…こんな顔、誰にも見せられないのに。







……………







とにかく事務所の近くまで自力で戻り、さっきまで私達がいた3階の部屋を見上げてみる。


あっ。電気がついていない…


という事は、あの部屋にはもう誰もいないと考えてよさそう。


荷物を取りに戻るなら今しかないっ…






ビルの入口に入り、ようやく雨の当たらない場所へ。


その場で少しスカートを絞っただけで、足元に大きな水溜まりが出来た。


まだかなり濡れているが、のんびりしている時間はない。

小走りで廊下を走り、階段を駆け上がり、元いた部屋へ。



「はぁっ…はぁっ…」


乱れた呼吸を整え、電気のついていない部屋をこっそり覗く。


よかった。誰もいないみたい。


すぐに部屋の中へ入り、明かりもつけずにロッカーへ向かう。

ビショビショの体のままだけど、もちろん拭いている余裕などない。

急いでバッグを取り、財布と定期券、携帯が入っている事を確認する。


もしかしたらメンバーの皆は、外で私を探し回っているかもしれない。

誰かが帰って来てしまうかもしれない、その前にっ…


早くここから出なきゃ…!



























ガチャン!!!!


























「……ッ…!煤v




バッグを閉じて体の向きを変えようとした瞬間、エマの体がビクッと動く。


最悪のタイミングで、後ろの扉が動く瞬間が見えてしまったのだ。



サーッと顔の血色が悪くなり、逸らしたままの視線。







誰かっ…帰って来てしまった。




ど…どうしよう。


怖くて後ろが振り返れないっ…



この際、見知らぬ人から泥棒に間違われた方がマシだと思ったのに。



勇気を振り絞り、恐る恐るゆっくり後ろを振り返ると、




不運にも知った顔。



そこには肩で息をしている雨宮君の姿があった。






「…あ…っ……あの…」







このシーンでなんと言えばいいのかわからない。

頭の中が真っ白になって、咄嗟にまた背中を向けてしまった。

今はっ…本当に誰にも会いたくなかったのに。


きっと彼も怒っているに違いない。



weather lifeの中で最も厳しいと言われている人。


いくら私が怒られた事がないとはいえ


私のミスで皆の曲やCMの話がダメになってしまった事。


謝りもせずに、自分勝手な感情だけであの場を逃げ出した事。


そして、こんなにも惨めなみっともない姿でコソコソと帰ってきて…





きっと呆れている。


もうっ…いっその事、今ここで「二度とここへは来なくていい」と追い出して欲しいっ…





weather lifeと過ごしたこの夢のような月日。



楽しかったけど。



凄く楽しかったけれど





結局、あれは私にとって幻でしかなかったの!!







もう…全部おしまいなのッ…!!!!
























ガバッ!












「…ッ!煤v



目も合わせられなくて彼に背を向けていると、慣れない衝撃が突然体を包む。


これは…腕?


突然、後ろ肩から腕が回ってきたのだ。



「あまっ…!?」

「…………。」



その腕からグッと後ろに引き寄せられ、屈んだ雨宮の胸元とエマの背中が密着した。

腕の力が強くなってずぶ濡れだったせいか。

彼の服がみるみるうちに濡れていく。


わずか数秒。


一体何が起こったのか理解出来ず放心状態になり、ようやく自分の体が雨宮に抱き寄せられている事に気がついて…



「キャッ!!」



男性恐怖症の反応で、気づくとその腕から無理やり抜け出していた。



「…はぁっ…ん…はぁっ///…何っ…する…のっ…」

「…………。」



息を切らしながらようやく見れた彼の顔は、呆れて怒っている顔でも冗談で笑っている顔でもない。


堪えていた何かが、ふとした拍子に壊れてしまった


苦しくて切ない、男性の顔。




彼はその場で美空がテーブルに置いていったペンを取り、


自身の手の平にその文字を書いた。














『僕の方が君を大切に出来る』











「えっ…」



自分の瞳孔が開く感覚がリアルにわかった。

見慣れない文章。そのせいで理解力が追いつかない。

彼は真っ直ぐな瞳で私の顔を見つめている。



なにっ…その言葉っ…

なんでそんな顔…してるの?







「タオルを持ってくる。待っていろ」



ぽつりと呟いた雨宮。

もちろんその言葉はエマには聞こえなかったが、隣の部屋からすぐにタオルを持って来てくれて彼女にも理解が出来た。

しかし、それを受け取るも頭の中は真っ白なまま。





今のっ…なんだったの…///?


何に悩んでいたかも忘れ、動揺した表情のままタオルで体を拭く。



僕の方がっ……大切に…?


どうして雨宮君がそんな事…















―――雨宮君の事はどう思ってる?―…………








「ッ…」



突然頭の中で思い出されたのは、前にサラさん達と温泉旅行に行った時の記憶。

夜、布団の中で彼女から訊かれた質問だ。


その時は、どうしてそんな事を訊くのか意味がわからなかったけど。




今は、そのシーンを思い出した途端に顔が真っ赤に熱くなった。







心臓が…凄くドキドキしてる…


なんで…っ…


なんで私の心臓っ…こんなに早く動いてるの?







『そのままでは風邪をひく。女性用の服を持ってくるから着替えろ。その後は僕が自宅まで送る』

「…ッ」


不意打ちに見せられた携帯の画面に、心の準備が出来てなくてまたもピクッと反応してしまう。


「…はっ…はい…///」


怒ってる怒っていないかとか、そんな事は全然訊ける余裕もなくてエマは小さく頷いた。

冗談だと笑ってくれる事を期待したけど、雨宮君の顔は冷静でやっぱり笑わなくて、ますます彼が何を考えているかわからない。



持ってきてくれた女性スタッフさん専用の服を借り、彼は「着替え終わったら呼んでくれ」とだけ伝えて部屋を出た。



合うサイズがなくて着てみると少し大きめだが、さっきのずぶ濡れ姿よりも断然マシだ。


濡れた服は別の袋に入れ、彼は私を自宅へ送る為に一緒に事務所を出てくれた。


だいぶ小雨になった空が、濁ったハイライトのない丸い瞳に鮮明に映った。


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