「私は行おう」、それは罪だ


「よかった、大丈夫だったみたいね」


着替えを勝手に変えておいたがきちんとそれを着てくれたようでホッとする。結局一人で入浴という事になってしまったがドクターがいうようにそれは正しい判断だったのか、先ほどよりも少しだけ顔色も良くなっていた。立ち眩みも今はそこまで酷くないようでしっかりとした足取りではあったが心配になってすぐに椅子から立ち上がってベッドを示してそこを勧める。少し躊躇った後にそこにちょこんと浅く座った彼女に安堵しながらその足首にまた包帯が巻きなおされていて新しいものに変えようと思って用意していたテーブルの上の救急箱を視界に止めながら苦笑する。しかし衛生的に良くないだろう。


「螢、包帯変えましょう?新しいものを持ってきたから」


そう言って救急箱を手に取って中から包帯を取り出し、彼女の手首を指さす。しかしながら彼女は私の行動を見て表情を硬くしてしまった。意味が伝わらなかったのかと思って包帯を少し解いて自分の指に巻きつけてからもう一度彼女の手首を指さしてみる。しかし、一向に彼女の表情は変化しない。そこでやっと私は螢に一度目で意図が通じていたのだと理解し、そして彼女がそれを拒絶しているのだと察した。そのことに気が付いた途端、急に自分の行動が浅はかに思えてしまって慌ててテーブルの奥にそれを戻し、笑顔で首を振った。


「ごめんなさい、無神経だったわよね、気にしないで」


そんな私に視線を彷徨わせて何かを言おうとしているのか、口を開閉させた螢に、言葉を待つように首を傾げる。
大丈夫、傷つくな、私たちがこの子をこんな風にしてしまったのだから、だからせめて笑え。手首を抑えながら伺うようにこちらをチラリと見ては視線を落としてしまう螢に悲しい思いを全て笑顔で覆って必死に隠す。けれども結局彼女は何かを言葉にすることもなく閉口してしまった。それでも包帯がそのままなのはよくないだろう。包帯だけを救急箱から取り出して彼女のすぐそばに置き、ゆっくりとした言葉で「使って」と言えば小さくだがそれでも確かに頷いてくれた。
何度も思ったことだが、螢は完全にこちらの言葉が分からない、という訳ではないようだ。ゆっくりと言葉を告げれば大抵のことは理解してくれている。英語を話す環境にでもいたのかとも思ったがそれを知るには彼女に直接聞くほか方法がない。そこで気が付く、私は螢の事を本当に何も知らないのだと。いままで、聞くことすらしなかった聞けたことと言えば年齢くらいだ。


「…私は、中国人なの、中国、知ってる?」


知らないだろうかと期待と少しの不安を感じながら問えば間はあったものの首が縦に振られた。それに伴って髪から拭ききれていなかったのであろう水滴が落ちたが故郷を彼女が知っていることが嬉しく、落ちた水滴を気にしないことが出来た。


「よかった!知ってるのね!そういえば日本もアジアだったわよね…」


日本、神田の故郷で蕎麦があって、そしてAKUMAの巣窟となってしまった国。私が日本について知っていることと言えばそれくらいで、それだけだ。唯一の日本が故郷である団員は神田であり、彼はあまり多くを語らない性分な為自ずとこれくらいのことしか知ろうと思っても知れなかったのだ。けれど兄さんも言っていたように、日本にいて生き残ったという事であれば彼女にとってそこは故郷の思い出よりも恐怖を思い起こさせる場所でしかないだろう。でも、それはこちらが勝手に予想していることであって螢にとっての事実では決してない。もしかしたら、ひょっとしたら、そんな憶測で螢の事を知れないのは、私の臆病のせいだ。これ以上螢を傷つけたくはない、けれど今よりももっと、私はこの子の事を知りたい。縮こまってばかりいては何も変わらないのだと私はこの子に会ってから痛感させられていた。


「中国はね、ここよりもずっと暖かくて緑が深いの、あぁ、でもこっちの方が技術は発達しているかな…それに、」


それに。それにあと何を私は自国について知っていただろうか。それ以上のことは言葉に出来るほど知らないのだと改めて知って、どんどんあそこを故郷と呼んでもいいのか分からなくなっていく。字も書けなくなっていた、風景もぼんやりとしか浮かばない、知人も教団の人間を抜いてしまえば誰一人としていない。家族だって、兄さん以外は顔すら思い出せないのだ。私が産まれてすぐに亡くなってしまった両親に代わって私を育ててくれた兄。私の為に人生を決めてくれた兄。気が付けば兄さんについてぽつりぽつりと螢に向かって零していた。それに気が付いて途端に恥ずかしくなり、慌てて口を閉じて螢を見ればジッと綺麗な深い海の瞳が私を見据えていた。


「ご、ごめんなさい変な話をしてしまって…そうだ!日本は、どんなところ?」


話を変えようと口に出してしまってからドッと緊張した。これは、聞いていいことだったのだろうか。螢を傷つける言葉ではなかっただろうか。ぶわりと冷や汗が出てきたようなそんな寒気を感じるほどに焦ってしまったがそんな私の気持ちとは正反対に螢の表情は変化しなかった。そのことにホッとすればいいのか謝るべきなのか判断が付かず、きゅっと口を閉じて彼女の反応を待った。


「…兄は、双子」


しかし、まさか言葉が返ってくるとは思ってもみなかった。一瞬何が起こったのか分からず、呆けてしまったくらいだ。声は少し掠れてはいたが、その声からは慈しむような愛が満ち満ちていた。彼女からそういった感情を読み取れたことが純粋に嬉しく、つい興奮して声が弾んでしまう。


「螢は双子だったのね?」


しかし私の言葉に少し思案した後に返ってきた反応は首を横に振る仕草。あれ、と思うも困った様に口をもごもごとさせる螢が年相応に幼く見えてまた一つ嬉しさが募る。指を自分に向けて薄い唇を薄らと開いた。


「私…兄、二人……双子」


「え、二人お兄さんがいてお兄さんたちが双子、ってこと?」


確認の様に彼女の言葉をなぞればこくりと頷いて自分に向けていた指を下ろした。俯いた螢の表情がハッキリと見えるわけではなかったが、覗いた口元が少しだけ弧を描いているのを見つけて心が温まるのを感じた。
この子にだって家族がいて、いつかの私の様に彼らの元に帰りたいだろうに。そんな感情を微塵も見せてこなかった螢の異様さに気が付くと同時にそんなことにすら気が回らずにいた自分がまた惨めになる。私だって、ここが大嫌いで家に帰りたくて堪らなかったのに。しかし私はもうこの子がここに囚われてしまうであろうことを悟っていた。イノセンスの適合者でもあったのだ、もうどんなに足掻いたって逃げられない。逃がして、あげられない。螢の目の前だというのに泣き喚いて懺悔をしたいくらいには後悔と罪悪感に濡れて胸が張り裂けてしまいそうだった。



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投稿日:2017/0502
  更新日:2017/0502