裏切りもののヘレル

手のひらに触れる漆喰の感触、戒めの様に心強くそこに巻いてある羂索の結び目も温度のない無感情さも変わらない。あまりにも唐突に目の前に現れて、反射の様に体が動いてしまった。いくら強く握っても、手に痛みが走るだけでそれでも足りないともっと強く握る。もっと傍にと引き寄せる。しかし体がついてこないのか痺れてしまったかのように体が震えた、吐く息が小刻みに途切れた。
こんなに大切なものなのだと、思い知らされる、体が心がこれを求めていて止まなかったのだと震えを持って気が付く。まるで依存のような執着に自分で呆れすら覚えたがそれでも嬉しくてしょうがなかった。
私にとっての“命”で、形見で、繋がり。
あぁ、嗚呼、返ってきた。


「――――、――、―――」


「―――――、――」


そうやってどれくらい時間が経っただろう。次第に体の感覚が戻ってくる。
肩を支える様にして置かれた手の温度、触れる床の冷たさ、耳に届く声。
まるで自分だけの世界の厚く固い殻に、小さなひびが入って、空気が侵入してくる。自分だけが吸って吐いていたはずの空気は生温く、冷たい新鮮な空気という侵入者にハッとさせられるかのような気分になった。
身を捩じらせれば大袈裟なくらいに倶利伽羅がガチャリと音を鳴らせた。それに、自分の腕の中に存在しているのだと教えてくれるようで少し安心させられる。
少しだけふらつく体を無視して立ち上がろうとすれば、リナリーさんに名を呼ばれる。手を貸してくれようとしていた医者の体を押しやって自らの力で立ち上がる。
膝がかたりと勝手に動き、まるで立つことを忘れてしまったかのようなそんな鈍さ。
でも、立てる。
大丈夫、立てる、一人で。

ゆっくりと周りを一瞥すれば、様々な表情が自分に向いていた。
なかでもリナリーさんの悲痛そうで何かに耐える様な顔は目に焼き付くようだった。
しかし、なぜこんな所まで連れてこられたのだろうか。そう頭が働いた時、身が固くなるのが分かった。だってここは、多分だが初めてここに来た時にいた場所だ。こんな乗り物に乗っていた覚えはなかったから気が付くのが遅くなってしまった。
しかし、だとしたら牢の中で考えていたことは間違いだったようだ。初めに気を失っている間にどこかしらに運ばれていたということはなかったらしい。
でもだったら、結局ここはどこなのだろうか。


「――、――――螢」


眼鏡の男が、静かに語り掛けてくる。
その声は硬質でどこか抗いようのないともすれば命令のようなものを孕んでいるようだった。きたかと、そんなふうに思う。
どんなに笑いかけられたってわかっていたのだ。“どうせ”とどこかで思っていたからこそ、こんな声をかけられても対して驚くことはしなかった。
睨むように刀を抱いて彼からの視線を正面から受ける。眼鏡の奥の眼は上手くこちらからは伺えないが今はそれでいいと思う。見たくないと、そう思う。
なんの反応もしない私に動いたのはあちらが先で、倶梨伽羅を持ってきてくれたオールバックの人が、落ち着いた声で話しかけてくる。それでもやはり、声は硬度をもって私に向かっていた。


「――、――――――、――――――」


その身振りと言葉で、彼らがなにを求めているのかを察し咄嗟に首を振った。
こちらを指さして、刀を抜く様な造作からなにを求められているかなんて火を見るより明らかだ。
どうしてこんな場所で、誰の為でもなくお前らの好奇心の為にこれを晒さなければならない。前にも一度ヴァチカンの要求でそれをさせられたことがある。見世物の様に遠くからその様を鑑賞し、挙句は危険だと聖水までかけられるところだった。嫌なものを汚いものを見る様なあの目。自分たちで見たいと言って無理やり抜かせたくせになんだそれはと抗議したかった、それでもそんなことすら許されない。

それを今、しろというのか。
眼光を尖らせて否定を示す、そうだ言葉が通じなくとも意思疎通はできるではないか。
羂索を解く分には問題はない、この下に新たに“封”をしているのだから。本物の倶利伽羅よりはランクは下がるものの、これだって立派な魔剣ではある。それを扱ううえでのノウハウは、それこそ血反吐を吐いて学んでいる最中だった。
それにこれを抜く時は、もう私の意志だけで抜くと決めたのだ。


「―――、――――――」


「なっ…!?」


しかし上から落ちてくるかのような声に、ハッとして振り返って見上げる。
淡く眩しく、初めは目が慣れずに細めてしまったがすぐになれて目に飛び込んできた光景に驚くことしか出来なかった。
なんだこの人、なんでこんなに大きいんだ。
一瞬悪魔かと身構えたがしかしそんな雰囲気ではない、確かに妙な感覚は覚えたがそれでも悪魔ではないと断定できたのは自分の“悪魔の部分”がそうではないと訴えてくるのだからきっとそうなのだろう。
女性、だろう。顔も声も柔らかい女性のものだし。

驚きから少しずつ解放され、震える足を一歩後ろに下げる。しかしそれを許さないかのように背後から声がかけられる。当たり前の様に生憎とその言葉は理解できない。
その声に一瞬反応してしまったのがいけなかった、視界がほんのりと明るさを捕えたと思った途端、自分の顔の傍に輝く白い手を見つけた。
悲鳴を上げる暇もなく、それが無数であることに気が付いて空に放られる。
しかし暴れようという気持ちが、全く起きなかった。普通驚愕し、恐怖し、離せと暴れるべきだろう。それなのにそれをしなかった、できなかったのはただ単に触れてくる手が優しかったからだ。
それこそ、ここに来てから触れられた手で一番。
躊躇いを持って、慈しみを持って触れられたと簡単に分かった。こんなにも手というのは雄弁だっただろうかと思わされるほどに感情が伝わるようだった。

だから、体は勝手に動きを止めて委ねてしまった。
それでも刀はギュッと抱いたままではあったが。


「―――、――――――」


そんな記憶など無いのに、揺り籠のようだと思った。
多くの白い腕に持ち上げられた体が空中で漂う、無防備にさせられているにも関わらずこんなにされるがままになっている自分をもし兄が知ったら怒り狂うだろうと想像しながら、それでも抗おうと思えなかった。

だって触れてくるこの腕の方が、なんだか怯えている様にも見えたのだ。
何時だったか、兄が私に怪我をさせたことがあった。
本当に些細な事での喧嘩でただ振りはらうだけの為に体を動かした兄だったが、運悪く私の顔に兄の手が、爪が掠ったのだ。たったそれだけの小さな怪我だったのだがどうにも兄にとっては随分と思うところがある事件だったらしい。
それから暫くは私に近寄ってくることすらしなかったのだ。怖いと言って、またお前に怪我をさせると言って。
私はその時、どうしたのかよくは覚えていない。それでも恐る恐る私に触れてくるようになった兄の、怖がって伸ばされる手だけは覚えていた。
そんなのは私のただの勘違いなのだろう、こんな風に思い出が勝手に重なってしまっているだけなのだろう。
けれど、私を落ち着かせてしまうには十分だったのだ。

白い指が、赤い羂索に絡まる。
しゅるりと結び目がほどけていった。


 - return - 

投稿日:2017/0502
  更新日:2017/0502