裏切りもののヘレル
「お願い兄さん、私がずっと見てるから、お願い」結局分かったことはイノセンスだったというあの赤い紐の適合者が螢だったという事実だけで、なんだかもやもやと霧をかけられたような気分だった。曖昧なままその事実だけで物事を進めていくことにしたらしい兄は、ヘブラスカの言ったもう一つのイノセンスのようなものの気配というものを後回しにするらしかった。私もそれでいいと思った、それで彼女をヴァチカンから守れる手段を増やせるならばそうしてほしいとすら思う。
そして今、困った様に螢と私を見ている兄にもう一度お願いする。
検査が終わったのだから武器となりうる剣を回収しようと、そう思うのは当然なのだろうと私も分かる。けれどあんな表情や声を聞いてしまえばそれは無理だった。あんなに安堵して泣きそうなほど声を震わせて表情を見せてくれた螢から、それを奪うことをしたくなかった。
後回しにするというのなら、いいじゃないか。イノセンスと分かっている赤いそれはこちらで回収してしまったのだからいいではないか。それに抜いてくれと頼んでも武器を抜かなかった彼女が、私たちにそれを向けるとは思わなかったのだ。
だからどうか、監視がいるのなら私がするからお願いだ。
今だってあんな風に大切なものを抱きこむようにしている螢から、あれを奪ってはいけないと、誰だってわかっているはずだ。
「……わかったよ」
その言葉にパァっと笑顔が零れる、しかしそんな私を咎める様にして少し厳しい声で何かあったらすぐに対処するんだよという兄さん。
大丈夫だ、そんなことはない、絶対に。それがわかっているから兄の心配そうな声も気にせずありがとうと伝えれば今度こそ苦笑されてしまった。ほら、兄さんだって私と同じような考えのくせに。
これからは螢も仲間なのだ、分からないことだらけなのだから、私が教えてあげなければ。まずはどうしようか、そうだゆっくりでもいいからここのことを説明しないと。言葉は通じないけれど少しずつ、丁寧に教えれば伝わるのではないだろうかと頭の端で考える。
「そうだドクター、もう螢お風呂は大丈夫?」
やろうと思っていたことの一つを思い出しそれを尋ねる。
そういえばドクターとは相当付き合いが長いが久しぶりに話した気がする。そして私はこの人の名前を知らないと呼びかけて思ったが教団の中で何人かいる医者でもドクターといえばこの人なのだからそれでいいのだろうとその考えを押しやる。私の事をエクシストとしか呼ばないような人がいる様なものだろう。
「うーん、短い時間であれば問題はないだろうけど多分一人で入れてあげた方がいいよ」
その返答に苦笑して頷く。
大丈夫、少しずつゆっくりと距離を縮めていこうと、そうじゃなければだめだと私も分かっているから兄さんもリーバー班長もそんな顔をしないで。
でもそうか、だったら大浴場じゃなくて私の部屋の狭いシャワーの方がいいだろう。その考えが分かったのかなにも言わずとも兄さんに連れてってあげてと言われてしまったので笑顔で螢の後ろに立つ。
ずっと黙ったまま手元に戻ってきた刀を見つめていた螢が私の接近に少しだけ顔を上げてくれる。にこりと笑っていきましょうと言っても反応は返ってこない。ちくりと胸が痛んだがそんなものなかったことにして私は車椅子の背を押した。
それじゃあ後でと言ったドクターに、入浴後に医務室に行けばいいのかと頷きながらすれ違う。
そうだ、着替えをどうしようか。私のでは少しサイズが大きいが我慢してもらうしかないか、いやまて昔の服を引っ張り出せばあるかもしれないと少しだけ、不謹慎かもしれないがわくわくしながら歩く。
「ごめんね、吃驚したでしょう?」
急にちゃんとした説明もなくあんな風に連れていって、きっと初めてヘブラスカのような存在を見ただろうに。
なるべく人通りの少ない道を選んでからからと車椅子を押す。なんて軽いんだろうと、行でも思ったことをまた思う。この車椅子で依然足を怪我をしたファインダーを押したことがあるのだが、比べる対象があるせいか殆ど体重を感じない押し車に不安さえ感じそうだ。消えちゃいそうだ、そんな風に思ってしまう。
「これから、私の部屋でお風呂に入りましょう、きっと気分も少しは良くなるわ」
一人でずっと話し続ける。
ご飯おいしいでしょう、ジェリーもきっと螢のこと知ったら会いたがるわ、日本人は味覚に厳しいから挑戦し甲斐があるっていつも言っているし。あ、ジェリーっていうのは食堂でコックをしているのよ、きっと初めてあったらびっくりするかもしれないけどとてもいい人だから話してみてね。日本人といえば神田ね、螢も覚えてるかしら、初めにちょっと乱暴なことをした人。あなたと同じ日本人でエクソシストよ、イノセンスも同じ形だから分からないことがあったら彼に聞くのが良いかもしれない。大丈夫、聞きにくかったら私に言ってね、一緒に聞きに行くわ。顔は怖いけれどなんだかんだあの人もいい人だからどうか次にあった時は許してあげて。
許してあげて、そう口にして思わずそのあとの言葉に詰まってしまった。
いったいどの口が言うのだろうか、許してあげてなんて。あんなことをされたのに私たちを責めない螢に対してこんなに甘えてはいけない。伝える言葉がないからと言って彼女が傷ついていないとは、絶対に言えない。
あんなことをしたのにごめんなさいとしか言えない私たちを、どうやって許せというのだろう。そんなの勝手だ、謝ったからと言って全てが許される訳ではないと私は知っている、分かっている。だからどうかこれ以上彼女につらいことが訪れないように、それを願うことくらいしかできない自分が非力で無力で泣きたい。
でも泣きたいのも螢で、そんな螢が泣かないのに私が泣いていいはずがないと下唇を噛む。
きっと私は許されたいのだ、どんな風に思っていたってゆっくりと行動でしか螢との関係をよくはできないのに謝りたくて堪らない。そしてどうか許されたいのだ。なんて、狡いんだろう、勝手なんだろう。謝って許されるだなんてそんなことではないのに。
私は、螢と仲良くなりたいのだ。
どうかはやく笑ってほしい、せめて仲間として彼女の辛さを少しでも分かってあげたい。
それなのにそれは今、全く叶わない、それどころかこんなに遠くて手が届かない。
こんなに自分が身勝手でまるで成長していないと思い知ったのはいつ以来だろうか、情けなくて情けなくて堪らない。
いつの間にか言葉だけではなく足まで止まっていたらしく、ちらりと螢がこちらに振り返る。
それが堪らなく嬉しくってでも悲しい。ごめんなさいと結局は口は謝罪を紡いでいてまた一つ自分が嫌いになる。
なんでもないの、そういって無理やりにでも頬を持ち上げて、私は惨めでかっこわるい自分を隠してまた足を進めた。
投稿日:2017/0502
更新日:2017/0502