彼の者の探求
話はもうおしまいだとばかりに深くため息をついて瞳を閉じてしまった彼にどうしようかと少しだけ考える。イノセンス、という言葉はたしか彼に渡された資料の中にも書かれていた単語であったが私はそれがなにを意味しているのかますます分からなくなっていた。無邪気な、という意味だったはずだがどうして持っているかという聞かれ方をしたのだろう。他に意味があったかと考えてみて「無罪」だったり「潔白」という意味は思い出せたが持っているかと言われるような使い方はいずれもしそうになかった。あの資料でも頻繁に書かれてはいたが文脈は分からなかったのでそれがなにを意味しているのか見当もつかない。少しだけ暖かさに解れてきた指先が不安のためか強張る。言葉が通じるのに、会話にならない。それは船の中でも思っていたことだが分かりやすいほどにこの人は私に無関心だ。船の中での話も結局は詳しく教えてはもらえなかったし、なにより聞くことを許さない空気が放たれていた。今もその時と相変わらず、関わるなと言わんばかりのそれがヒシヒシと伝わってきたので結局は閉口する。
イノセンス、イノセンス…。なにか悪魔関連の言葉にそれはあっただろうか。そう今一度考えなおしてみるも何度考えてみてもやはりその言葉にそれ以上の意味を見いだせない。あぁ、それにAKUMAとローマ字で表記されていたことも気になる。戦争の事に関しても全く持って理解が出来ていないことに加えここがどういう組織なのかも分からなくなってきている。どこかの支部だという考えもあったのだがその線は相当薄いものだといい加減私も理解できているのだ。私を、落胤を知らないだなんてどう考えたって不自然であるし妙だ。だから祓魔師であることも疑ってはいたのだが悪魔という言葉は出てくるし、なにより私を見て目の前の彼は一番最初に「悪魔か」と言ってきたことはやはり頭の隅に置いておくべきであろう。
そんなことを徒然と考えていた時に店員がトレーに乗せた二人分の食事を運んできた。笑顔と共にテーブルに置かれたそれらは温かそうなスープにサラダ、パン、グラタンといったありきたりなものであった。スープはトマトをペーストにしているのか赤く、野菜や肉をよく煮込んでいるのが見ただけで分かるものでそれなりに凝っているのか煮込んだものがどろりと形を失って溶けていて、原型が分からないものも多々ある。それらを前にしても食欲がわかなかったがその横にぽいと置かれている袋が自分の呑む薬だと分かり、少しでもお腹に物を入れなければだめだとボンヤリする頭で思う。
二言三言何かを言って伝票を置いて行った店員すら無視してスプーンを手にした彼に少し呆れつつも付けたままだったマフラーと手袋を外す。申し訳ないがコートはそのままでいさせてもらう。マフラーと手袋を肘掛け部分に置き、小さく頂きますと手を合わせてスプーンを手に取る。手っ取り早く体があたたまりそうな湯気の立つそれにそっと燻らせて掬ったスープを口へ運ぶ。余りにも湯気が上がっているそれに少しだけ気後れし、ふう、と弱く息を吹きかけて口へ流し込んだ。
「(あ、れ…なんか…)」
しかし、本来は持つはずである感想は浮かんでこなかった。おいしいとは、私の舌が感じなかったのだ。
苦い。渋いというよりは完全に苦みが口の中に広がり思わず眉を寄せる。しかし覚えのある味だったためそれを思い出すべく、スープを軽く混ぜて具をよく確認する。トマトの皮、ニンジン、茄子、ズッキーニ、カブ、ピーマン…ピーマンでは、ないな。こんな苦みはない筈だったしそんなに頻繁に口にしている味ではない。残りは形の残っていない物ばかりで何か分からない。舌に残るその味は薄らとしたものになっていたが調味料では隠しきれないほどの味でどうにも気になる。いつだったか、この味を口にしたのは。
いつ、そう考えた時に頭に過ったそれにぎょっとして咄嗟に口を覆った。普段は口にしない苦み、けれども確かに覚えるある苦み。私が候補生だった時、ヴァチカンで。そうだ、あの時に。少しずつハッキリと思い出してきたそれにこの味がその時のもので、そして明らかに許容範囲を超えた用量であると確信する。そして、どう考えても同じものを出されている目の前の彼がスプーンでスープを掬ったのを目の端で捕えて、慌ててそれを止めようと手を伸ばす。その手は届きはしなかったが異変は感じ取ってくれたのだろう。食事の手は止まった。黙ったままこちらを睨んでいるのであろう彼に驚きで震える口を何とか動かした。
この時はとにかく、伝えなければとただただ必死で、それ以上はなにも考えられなかったのだ。過去の自分がフラッシュバックしてしまった時点で、こんなものを口にする人を目の前で見るのが本当に耐えられなかった。だからこそ、深くは考えることなどせずに事実を告げていた。
「烏羽玉…ペヨーテ」
「…は?」
「このお店の人、シャーマンという訳ではないですよね」
「…どう見ても違うだろ」
「これ、に…幻覚…作用のある植物が混じって、」
それ以上の言葉はいらなかったらしい。目をカッと見開いて手に持っていたスプーンをテーブルに叩きつけるようにして立ち上がった彼は明らかに悪態と思われる言葉を叫びながら刀をひっつかんでカウンターの奥で顔を青くしている店主に向かっていった。
投稿日:2017/0502
更新日:2017/0502