香炉のなかに忍ばせて


リナリーさんが扉の向こうにいた時は驚いた。以前と変わらずに綺麗な髪を二つに結い上げてさらりとそれを流す肩が細い。ニコニコと笑顔のリナリーさんが支度をするようにと身振り手振りで言われ、鞄の中にすべて詰め込む。あまり鞄からものを出していなかった為もあり支度をすぐに終えあれよあれよと言う間に隣町の駅まで来ていた。どうやらこちらの町は先ほどまでいた港町よりも都会なのか人も多い。そんな中でルイーズさんがその場に立ったままだったのでもしやお別れなのか、とおそばせながら察しありがとうとだけ拙い英語で伝えた。二人だけだった間、彼が私をすごく気にかけていてくれたのは分かっていたし、それ以前からお世話になっていたのだから当然と言えたが、そういった私に酷く驚いた顔をした彼が汽車に乗った今でも妙に頭から離れなかった。通じなかったという訳ではないと思うけれど。言葉の壁があるとはいっても端的な単語であるし流れからしても可笑しくない言葉だったはずだ。あまり時間が無かったのでそのままお別れしてしまったがもし次に会えたのならばその時にまた改めて言葉を。そう思うくらいにはルイーズさんの人の好さに触れていた私はすっかりと絆されていたと言ってもいい。できればその時には少しでも言葉の壁が無くなればいいな、なんて。
そして今、そんな言葉の壁に私とリナリーさんは思い切りぶつかっていた。


「―――、―――」


すっかりと頭を抱えて唸っているリナリーさんだが、それもこれも私が言葉ではなく単純に意味を理解できていないことを察してくれたことに原因があるように思う。分かる単語は多かったのだ、AKUMAやイノセンス、エクソシストなどそれに準する単語も聞き取れた。けれどそこから理解はしていないし分かってもいないというのが首を傾げ続ける私から分かったのか「聞いていない?」とゆっくりとした英語で問われ頷くことで肯定を示した。


「神田――、―――?」


「かんだ…?」


極め付けがこれである。遂に絶句とばかりに顔を覆ってしまったリナリーさんに日本人らしい名前とつい先日まで一緒に居た男の人を結びつけるまで少し時間がかかった。どうやらあの人はかんださんというらしかった。本当に今更である。リナリーさんの立場を思えば確かにこれはないと思う。まさか自己紹介もせずにしばらく一緒に行動していたとは誰も思うまい。それもここに来てあの人からしか母国語を聞いていないという事は、この現状の説明もあの人からしてもらうべきだったのではないだろうかとやっと考えが至って今度は私も頭を抱えた。
そこでなんとか伝えられた言葉だけはリナリーさんに教えようと頑張ったのだがこれが非常に難しかった。言葉の壁の高さを知った瞬間である。悪魔をイノセンスで倒すのは聞いて、それがこれ(羅索)らしいというのは聞いたのだとそれだけを伝えるだけでなんと2時間を要した。汽車を乗り換えてリナリーさんの買ってくれたサンドイッチ食べながら自分の語彙力の少なさに呆れた。これで詠唱師なのだから笑いものである。経典の暗唱なら任せろなのだが。残念ながら英語の暗唱は出来ない。他にできる祓魔師が多いからと、日本語とマントラとラテン語での暗唱は可能だしそれなりに読み書きもできるのだが、英語は出来ない。勿論悪魔の専門用語であればそれなりに英語でも分かるのだが日常会話となれば別だった。英語はどうせこれから嫌でも学ぶことになるしだったら後でもいいかと後ろに回したせいでこの様である。
ここが過去であると分かった時から、少しだけ疑うことを辞めた。ここが過去である、それだけで随分と心に余裕が出来たのだ。それならば祓魔師と名乗っているのに悪魔の知識が乏しいこと、鍵での移動がないこと、私を知らないことだって当然である。私を本当に知らず、そして私の事を知るすべがないというのは大きなことだ、いつヴァチカンに収容されるのかとびくついていた私としては本当に大きな問題だったのだがそれがなくなり、且つ正十字騎士団とは別の組織だという仮説まで立てられた。それだけでもう十分すぎるほどの情報だ。だからこそ、そこまで神経質に“こちらが知らないという情報”まで与えない様に気を配る必要が無くなった。寧ろ気にかかっていたことを知って現状を把握することを求めているくらいには状況が変わったのだ。
できれば、あのかんださんがいる間にそのことに気が付けていればあの人から色々と聞けたのだがそれはもう過ぎてしまった事。現状把握を素直に受け入れられる心的状態になったという変化とあの人の不在は全く関係のない所にあるものであるし言ってしまえばしょうがないことだ。


「AKUMA――、―――」


「?ましーん…」


先は随分と、長いようだけれど。




 - return - 

投稿日:2019/0126
  更新日:2019/0126