二輪のアイリス

「どうしてみんな、私のこと置いていくの」
 恨みがましい、水っぽい声は少女の腕の中に吸い込まれていく。世界から自分を守ろうと言わんばかりに腕で檻を作り、そこに篭ろうと体を縮めている。小さな檻の中は苦しいのだろう、ヒクリと体を引き攣らせる反動でずるりと爪先が床を滑った。
 鉄と薬品の匂い。少女にとっての生家はそんな匂いが染み付いている。そこにあったはずの両親の名残はすでに見当たらず、少女にとっての家族といえる幼馴染の痕跡も、ほとんどと言っていいほど見当たらない。ずず、と鼻を啜ってみっともないほどに掠れて水気の多い声で、少女は不安を吐き出した。誰もそうしないから、代わりのように口をひらく。願いと言うには容易くて、我儘というにも思い遣りを混ぜ込められたそれは、約束という形に収束していく。少女にはこれが、精一杯の事だった。
「わかってるわよ、わかってる。でも、せめて……黙って夜に出て行かないで」






 尋常ではない体の痛みと体を襲う寒気に目を覚ましたレイルスは重たい瞼をのっそりと持ち上げる。目を開ければどうやら石造の天井。目線を横へと滑らせたレイルスの視界に、カーテンで覆われた窓が映る。天井も壁も一切が白い。カーテンや家具の色味が多少あるくらいでなんとも息が詰まりそうな場所で起き上がったレイルスは、体が治療されていることに気がついて動きを止めた。肩に巻き直された包帯は神経質さが窺えるほどしっかりと巻かれており、チョッパーの巻き方ではないとすぐさま判断したレイルスはかけられていた毛布を肩に乗せて立ち上がる。ぺたりと音を立てて床についた裸足の足が、白い床に温度を途端に奪われる。神経にズキリと痛みが走りそうなほどに冷たい床。目の前には小さめだが薪のストーブがあり、上には湯気の上がる薬缶が乗せられている。カカカカ、と妙な音と立てるストーブをレイルスはじっと見つめた。
「まだ起きない方がいいよ」
 振り返ったレイルスはその視界に男を捉える。顔は丁度光の差し込む加減で薄暗い位置にあって伺えない。歳の若そうな男の声は穏やかで、レイルスを気遣った温度を含んでいた。一歩、男がレイルスへと近寄る。ずっと高い位置にあるだろう男の頭の位置にレイルスは警戒を強める。
「大丈夫……あの人がここに寄越したんだから僕もあなたに危害を加えるつもりはない」
 湯気の立ち上がるマグカップを持った男の顔が、レイルスの目に映る。途端、レイルスの目が驚愕に見開かれた。
ずっと疎遠で、いくら嫌われていようとも。たとえ、彼の身体が成長した姿を「誰も」知る由がないとしても。姉である彼女だからこそ、こうなるであろう姿を容易に想像できたせいで生まれた驚愕であった。レイルスの唇が、僅かに開いてふるふると震える。
「ア、ル……?」
 震える唇の隙間からこぼれた音は大層頼りなく空気に溶けた。レイルスの弟と瓜二つの男が、そこににこりと笑って立っていた。腰が抜けたようにその場にへたり込んだレイルスにあわてて男が駆け寄る。冷たい地面に身体が触れるが全く気にした素振りを見せずに自分を凝視するレイルスに男も怪訝に思ったのだろう、声をかけながらもどこかレイルスを伺うようにして見ている。男の腕がレイルスに触れて、初めてレイルスの視線がしっかりと合う。あるはずのない「温度」に触れて、レイルスが弾かれるようにしてその腕を払った。男の手がそのまま空に浮く。反射に近い拒絶だった。
「誰」
「警戒しないで、と言っても難しいかな……」
 心底困ったように眉を下げる姿にますますレイルスの顔に困惑が浮かぶ。まさか男も自分の姿そのものに驚かれているなど思ってもおらず、静かに手を下ろして苦い笑顔で口を開く。
「ええっと、七武海バーソロミュー・くまにあって、目が覚めたらここにいたって状況は把握してる?」
 のそりと、レイルスにしてはひどく散漫な動きで首が縦に動く。
「彼は革命軍幹部――世界政府と敵対する組織に身を置いているんだ」
「革命軍……」
 初めて聞く組織の名前にレイルスはやっと男の言葉がまともに届いたようで、グッと眉間に皺を寄せた。くまの行動や周りの言動から、どうやらくまが大将から麦わらの一味を逃がそうとしてくれていうらしいと予想を立てていたレイルスだったが、希望的観測で終わらなかったらしい。七武海は海軍が命令を出せる海賊。そして海軍は世界政府に属している。潜入というには大きすぎる名前を背負っていたようだが、くまは革命軍として七武海に身を置いていたらしい。
「名前を聞いてもいいかな」
 幾分か落ち着いた様子を見せたレイルスに男が膝をついて目線を合わせる。男の目は蝋燭の光で淡く暖色に染まって入るものの、見事な碧眼だ。その顔にあるには見慣れない色にようやくレイルスの肩の力が抜ける。ああ違う。それだけでこんなにも安堵を覚えるなどなんという皮肉だろう。レイルスは舌先に苦味を感じながら己の名前を押し出した。
「……レイルス」
「僕はハイデリヒ。アルフォード・ハイデリヒ」
 よろしく。そう言ってにっこりと笑って手を差し出してくるハイデリヒは恐ろしいほどにレイルスの弟に瓜二つだった。


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投稿日:2022/0213
  更新日:2022/0213