二輪のアイリス


「出発は待ったほうがいいよ、もうすぐ海軍本部で戦争が起こるだろうから」
 その言葉を聞かされたのは、もういっそ傍聴に引き込んでしまえとハイデリヒが開き直って傍聴室にレイルスを引き摺り込んで他のコードの解析まで図々しくもお願いしてから数日経った頃。レイルスもハイデリヒの顔でお願いされては弱く、一も二もなく目の前の暗号たちを読み解いて、その作業がひと段落したタイミング。ハイデリヒは言わなかったが、レイルスの怪我の経過もあまりよろしくなく、数日はしっかり養生した方がいいと本音を隠すための言い訳でもあったのだが第一声についても大きな理由だったりする。
「戦争?そういえば帰還する軍艦がやたら多かったね」
「うん、白ひげ海賊団の隊長、火拳のエースの公開処刑があるから……白ひげと海軍の全面戦争になるよ」
 この島も危ないだろうから場所を移せと本部から突かれているハイデリヒだが、だからこそ傍聴するべきだろうと全く引くつもりがないせいで少し本部とギスギスしていたりする。
「なんて言った今」
「え?全面戦争?」
「違う!処刑!!誰の!?!」
 ハイデリヒの前ではほとんど初めてと言っていい、レイルスが声を荒げる姿を見せる。レイルスが目覚めた時のハイデリヒがそうであったように、今やレイルスも袖をインクで汚し、なんなら頬にまでインクを纏わせている様な状態ではあったが机に齧り付いているだけがレイルスの本質ではない。そう思わされる気迫にハイデリヒは驚いて唾を飲み込んだ。
「火拳だよ、火拳のエース……白ひげ海賊団二番隊隊長だ」
 そう言ってハイデリヒは束になった資料からある一枚を取り出す。それは手配書で、レイルスは初めて見るその顔をじっと眺める。黒い髪にそばかすの散った頬。派手なテンガロンハットの下で不敵に笑う顔。似て、いなくはない。
「処刑はいつ?」
「明日……」
「ここから海軍本部へは何日?」
「半日もあれば……って、まさかいくの!?なんで」
 訝しげに顔を顰めていたハイデリヒも会話からそうと読み取って声を荒げる。慌てた拍子にメモの束を押し倒してしまったせいで傍聴室の中に紙が舞う。ほとんどレイルスが走り書いたメモは、レイルスだけがわかる書き方がされているせいでハイデリヒにとってはなんの意味を持っているかすらもわからないものだ。それでも捨てる気にならないのは、レイルスがここ数日ハイデリヒのわがままに真剣に向き合ってくれていたというのがわかっているからだ。
「ルフィのお兄さんなの、このひと」
 レイルスはスリラーバーグでナミがくまに伝えていた言葉を正確に覚えていた。その後くまが続けていた言葉も。なるほど確かにこれは大変なことだ。レイルスはルフィがエースのビブルカードを持っていて、かつそれが酷く小さくなって燃え尽きようとしていた場面を唯一見ていない。その後ルフィがエースを助けに行かない、とクルーに伝えていたこともレイルスは気絶していたために知らなかった。知らないからこそルフィならエースを助けにいくだろうと素直にそう考えてしまった。他の一味も、ルフィのあの言葉を聞いていなければおそらく同じ様に考えただろう。しかし彼らは「エースにはエースの冒険がある」と困ったように笑っていたルフィを見ていた。だからこそ、その意思を曲げて助けに行こうとしているルフィの考えを結果として当てたレイルスの目と鼻の先に目的地があるというのは、運命言っても差し支えないほど幸運だった。
「危ないよ」
「そうだね」
「だって戦争だ、人がたくさん死ぬ」
「知ってる」
「……なんで君が行かなきゃいけなんだ?」
「私が行きたいからいく」
 行って欲しくない、その言葉が喉元まで迫り上がる。ハイデリヒはそれをごくりと飲み込んで胃のずっと奥まで落ちるまで口を開かなかった。いつだってハイデリヒは見送る立場だ。革命軍の仲間も、くまも、誰とも知らない傍聴先で話す海兵も、レイルスも。ハイデリヒは生まれつき体が強くなかった。体を鍛えようと革命軍本部で幼い頃から鍛錬だって行ったが、周りの誰よりも細いまま、すぐに熱に倒れ全く役に立てない。そんな中でも頭だけは良かったから、こうして少しでも役に立とうと1人孤独にこの場所で篭っている。
 自惚れるな、引き止められるほど、僕は何かを持っていない。何度も何度も己へと言い聞かせてきた呪いのような言葉をハイデリヒは頭の中で繰り返す。
「ア……ハイデ」
「……」
「そんな顔しないでよ」
「どんな顔だよ」
「我慢できる子の顔」
 なんだそれ。そうして顔を上げた先でレイルスが嬉しそうに笑っているものだからハイデリヒも知らずに力が抜ける。レイルスは知っている。待つことができるというのはとても勇気がいることだ、優しい彼なら余計にその苦悩は尽きないだろう。だからこそあえていう。
「ハイデが待ってるから、くまだってここに何度も来れたんでしょう」
 それは大きな助けになる。きっとハイデリヒが思っているよりもずっと力のあるものだ。実際くまがここに訪れるというのはかなりリスキーなもの、それにもかかわらず来訪があったのは、くまがそれを望んだからに他ならない。ヘラっと笑ってレイルスがハイデの頬に手を伸ばした。
「……いはい」
「辛気臭いツラ似合わないなぁ〜」
 嘘だと反射のようにハイデリヒは思った。1人でいるときにふと鏡を見ると、いつも鬱蒼とした青白い顔と目が合うのだ。くっきりとした隈に、落ち窪んだ瞳。亡霊のような自分の顔は嫌というほど毎朝見る。それでも頬に触れる温かい温度と痛みに、知らずにじわりと涙腺が緩む。レイルスがいうと本当にそうなのかもしれないなんて思ってしまう。そんな力がレイルスにはあるように思えた。自分も彼女のように、明るい場所が似合う人間なのかもしれないなんて希望のような甘い言葉にハイデリヒは縋りたいような心地に陥った。
「私は聞いてやらなけど、たまには行かないでくらいの我儘仲間に言ってみたら?」
「……聞いてくれないの?」
「聞いてやらない」
 ふふん、と笑うレイルスの髪がカーテンの隙間から伸びる太陽の光に反射する。グッと目を細めたハイデリヒは諦めたようにふにゃりと笑った。
「そうだね、優しい仲間に頼んでみる」
 最後にその笑顔を刻みつけるようにして見上げたレイルスは、徐に頬を引っ張っていた手をハイデリヒの背中へと回す。両腕でぎゅうとハイデリヒを抱きしめて、温度を自分の身体に移すように隙間を埋めて満足したレイルスは、最後にとびきりの笑顔をハイデリヒに向けてから地下から飛び出していったのだった。腰が抜けたようにその場に崩れ落ちたハイデリヒは、資料の山を崩しながら暗い地下室の中で顔を真っ赤に染め上げていた。
 最後の最後に、軽々と2人の間にあった溝を飛び越えてきたレイルスに、ぎゅうとハイデリヒは下唇を噛み締めた。

 初めてハイデリヒの家から外へと飛び出したレイルスはしっかりとここに来たときに纏っていた服に着替え直し、サングラスを掛けゾロのバンダナを頭に巻いて髪を隠していた。ハイデリヒと話していた時に黒電伝虫――盗聴用の種類らしい――が拾っていた通信で、この島に一隻軍艦を寄せると言っていた。どうもここを拠点としている海兵を拾って、逆に海軍の家族が住んでいるというマリンフォードの住人の一部をここへ下ろすようだ。どこもかしこも白く、青い屋根の統一感のある美しい街並みの中をレイルスは海へ向かってかけていく。元々島民の少ない小さな島なのか、それともハイデリヒの家のある場所が閑散としてたのか、細い道を駆け抜けるレイルスを見て驚く人は少数だ。
 ルフィ自身から彼の家族のことを聞いたことはない。ルフィに限らず麦わらの一味は過去の冒険の話はしても、あまり一味に関係のない話は自主的にしない。レイルスはその空気を悪くないと感じていたし、レイルス自身詮索されても楽しい話はひとつもないのでありがたくも思っていた。聞いたのはナミの島の話くらいだ。それだって断片的で魚人に支配されていたというものだけ。彼女がそこで何を思いどう過ごしたのか、どんな人と関わってきたのかは何も知らないし、知る機会もきっとないだろうと思う。それでも今の彼らを知っているからそれで満足だし、それ以上を知りたいとも不思議と思わせないほどに彼らはただ直向きにまっすぐ前だけを向いている。
だからきっと、一緒に進む未来が想像つかなかったんだな。
 自嘲が漏れる。情けないことにレイルスの過去に誇れるものは何ひとつない。直向きではあった、自分の意思で決めたことばかりで後悔だってそこにはない。けれどそれが誇れるかといえばまた別で、たくさんのものを犠牲にして進んできた道だということだってレイルスは自覚をしていたし、痛いくらいに思い知っている。前を見ているようで、過去を引きずりながら進んでいる。レイルスはそういう人間だ。
 レイルスは自分の荒い呼吸と風が耳を叩く音を聞きながらグッと足に力を込めて地面を蹴り上げる。海軍が船をつける港はこの先だ。前方に海が見えてきたが、同時に高台に着いてしまったことを知る。道が途切れてその先の建物が幾分遠く小さく見えるのは高低差によるものだろう。目測で距離を測ったレイルスは躊躇いも一切なく片手を目の前の白いレンガについて、身を空中へと躍らせる。目下を確認して青い屋根にきれいに着地をしたレイルスはまた足を前へと踏み出す。屋根が途切れたのでそこから飛び降りて地面に着地する。着地の衝撃を緩和するために転がった路地の先、建物の影に打ち捨てられていた樽と割れたグラスが目に入ったレイルスは、一瞬足を止めて息を整えながら思案する。一歩、樽へと脚を進める。
「なんだ、何か音が……」
 酒屋の裏だったようで、近くにあった扉が開く。しかしその時にはもうレイルスは走りを再開しており、残されたのは妙な形でのびたガラス瓶と、樽の金具が欠けたゴミの山。元から廃材を置いていたので店主はそれらの変化にすら全く気が付かず、走り去るレイルスの背中を見送って扉を閉めた。
 レイルスが港に着いた時、ちょうど軍艦が錨を下ろし始めた時だった。かなり大きな軍艦で、なるほど一般人を乗せているのであればそうなるものかとレイルスは荒れる息を整えながらそれを建物の影から見つめる。おそらく多くの荷物も一緒に乗せているのだ。現に港には大きな桟橋が用意されており、船を繋ぐのだろうそれの横には荷台も多く止められている。さて、どうやって潜り込むか。港で待機している海兵数名を発見してレイルスは大きく息を吐き出した。
 日はまだ高い、果たして処刑の時刻に間に合うかどうかとレイルスは嫌味なほどに快晴の空を見上げて目を細めた。


 - return - 

投稿日:2022/0218
  更新日:2022/0218