盲目な女神

 気を失ってしまったルフィを抱えてジンベエが走り去る。マルコは腕を落としたレイルスも、と声をかけようとして止まる。ジンベエにその義理はないだろう。今この場でその義理があるのは、手枷を外してもらいエースの言葉を聞いていたマルコだけだ。倒れ込むようにしてレイルスがエースへと向かう。隙を見て上空へと飛ぼうと周囲を見ていたマルコは一拍遅れてその行動に気がつき無事な方の腕を掴む。
「動くなよい、死ぬぞ」
「……な」
 何かを呟いたような微かな音が聞こえるも全ては聞き取れない。レイルスはそのままマルコを無視して広げていたジャケットの大量にある内ポケットの中から何かを取り出す。大きく深呼吸をしてから顔を上げたレイルスの視線は、エースへと向いている。穏やかに微笑むエースの顔を見たマルコは血が出るほどに唇を噛みしめる。生きていた時だって、あんな顔をしなかったくせに。眠っているようにすら見えない、エースの寝顔はもっと間抜け面だった。なんてひどい弟なんだとマルコは溢れそうになる涙をグッと押し込めた。
 ずりずりとレイルスがエースへと近づく。腕を無くしてバランスが取りにくいのであろう、右に左に体が揺れる。赤犬は、と顔を上げたマルコは弟の仇を吹き飛ばす父親の姿を見る。血塗れになりながらもその姿はこれまでいくつもの戦を先陣切って戦っていた父親と変わりない。怒りに任せて振われる攻撃が赤犬に直撃した。大きな揺れにレイルスが地面に腕をつく。その腕がエースから溢れた血溜まりに浸り、ベシャリとレイルスの右手を染める。レイルスはぼんやりとそれを見下ろしながら、改めてエースの姿を目に写す。最後のルフィの咆哮を思い出したレイルスは、無表情のままやるせなさを押し殺した。悲しめるほど、悔いることができるほどレイルスはエースを知らない。それは残された遺族の特権だ。
エースの傍に転がっていた自分の左腕を指に引っ掛けて引き寄せる。
「何する気だよい、あんま動くとお前も」
「せめて」
 マルコの静止を咎めるような険しい声。自分の腕を足元へ投げ捨てたレイルスは振り返って凄まじい眼光で髪の隙間からマルコを睨みつけた。それ以上レイルスは語らない、そんな余裕も無かった。あんまりにも鋭い金色の目にマルコは言葉に詰まる。
 瞼から落ちてきた血を乱暴に拭って、レイルスは再びエースへと向き合う。まだ一部無事であったジャケットの錬成陣に血塗れの手をかざし力を込める。砂埃にも、水蒸気にも、戦闘の影にも紛れなかったそれは戦場でとうとう目を集めてしまう。それでもレイルスは別によかった。元から、大人しく隠れて何かをするのは性に合わない。やるなら徹底的にだ。
 エースを中心に、地面に亀裂が走る。複雑な模様を描きながら広がっていくそれは錬成陣で、マルコは異様な光景に目を細める。光が収まった時、エースは大きな円の中心に横たわっていた。これまでレイルスが描いてきた陣の中で一際大きく、そして複雑な円。いっそ模様に見えるほどに細かく彫られた地面に周囲でそれを見ていたものたちの中には、場違いにもそれを美しいと感じたほど。異様な光景に誰もそこに近寄ることができなかった。
 グッと、レイルスが喉を逸らすようにして上を見上げる。白く細い女の首が、無防備に晒される。金色の美しい髪がふわ、と風に遊ばれているせいでレイルスの目元をそっと隠した。鼻腔に届く空気がムッとする、マグマで気化したエースの血が、レイルスの気管にべっとりと張り付くような不快さ。見上げた空が嫌味なくらいに晴れていて、レイルスは音もなく口角を上げる。こうしてみると、やはり世界の前に命は平等だと痛感する。世界は変わらず回っている、上空の澄んだ空の色を見上げてレイルスは感情の渦に飲まれそうな己を押し殺した。今は、考えるな。何も考えるな。一度瞼を下ろしたレイルスが再び目を開いた時、レイルスの表情は静かなものになっていた。
 じわりじわりと、レイルスが地面に刻んだ錬成陣の溝に、エースの血が落ちて行く。ゾッとする光景なのに、辺りには触れてはいけない神聖さが漂う。陣がエースの血でその線を赤くなぞっていく。
「女の腕だけど、勘弁して」
 そう言いながら無造作に自分の腕を拾い上げてまとわりついていた布の切れ端を捨て去ったレイルスは、それをエースの胸にぽっかりとあいた穴へ差し込む。
「何を」
 ついマルコの口から疑問が溢れる。女の腕は細く、エースに開いてしまった穴を塞ぐには足りない。遠く、赤犬を吹き飛ばした白ひげもその光景を見つめる。バチバチと女がかざした手のひらから小さな閃光が幾重にも走り、やがてその音と光が大きくなっていく。レイルスの髪がブワリとしたから吹き上がった風に巻き上がる。白ひげはその光の中で一切閉じられることのないレイルスの目を眩しそうに眺めた。とうとう、錬成陣が光り出す。
 理論だけは嫌というほど頭に入っていた。人体の構造も、構成も、分解も再構築も。空で言えるほどに詳しいのは「考えたことがある」からだ。バカな弟たちがしでかした過ちを聞いて、彼らを取り戻すためにと、考えないはずがなかった。本来の旅の目的のためにも、考えないはずがなかったのだ。ギリギリ禁忌に触れない程度、自分の腕の分解と再構築。それでもレイルスはなぜかフラッシュバックのようにチカチカと何かを錬成の合間に見た。真っ白い空間、大きな扉、無数もの黒い腕。
 歯を食いしばってそれを振り切ったレイルスは、全身全霊、持ちうる気力全てを使い切ってその錬成を成し遂げた。光が収まった時、その光景を見た全員が息を呑んだ。エースの胸にぽっかりと開いていた穴が、塞がっていたのだ。白ひげのマークこそ無くなって、エースの肌の色よりも若干白い肌が、そこに出来上がっていた。
「おま、え……おい!」
 ぐら、と横に倒れるレイルスをギリギリでキャッチしたマルコはゼーゼーと肩で呼吸をするレイルスの顔が恐ろしいほど白くなっていることに気がつく。その目つきは未だ何かを睨みつけるように鋭いものの、焦点が合わないのだろう瞬きが多くなり瞳孔が不規則に開閉している。まずいと不死鳥の炎を傷口に当てるも、失った血が多すぎたのだろうことが簡単に予測できて歯噛みする。この能力では失ったものは戻せない。不意にレイルスの右腕がマルコの胸元に押し付けられる。血に濡れた手が何か小さな袋を掴んでいて咄嗟にマルコはそれを手ごと拾い上げる。ギョッとするほど細く小さな手から力が抜けて、レイルスが掠れる声で囁く。
「かい、ろせき」
 それでもしっかりとマルコの耳に届いた言葉にハッとして袋を握りしめれば砕けたのだろうというくらい小さなカケラがいくつも入っているのを感じる。布越しだから特に力が抜けるなんてことはないが、大将から逃げるにはもってこいの武器だ。
「マルコ」
 不意にかけられた父親からの声にマルコはバッと顔を上げる。いつも、船で呼びかけられるようなそんな静かで穏やかな声だったからかも知れない。がくりと完全にレイルスの体から力が抜けた。
「そいつ、死なすんじゃねぇぞ」
 エースの「誇り」を守ってくれた。背中のマーク、丁度白ひげのマークがあったど真ん中に空いていた穴。いかにエースがそれを大切にしていたかを知っていたマルコは、白ひげの声にグッと息を呑んで頷く。弔うときに、きっとまたエースの背中に親父のマークを残す。エースも連れて行きたかったが、無理だと判断したマルコは最後のエースの言葉を思い出す。どうやったのか、何の能力なのか余計にわからなくなったが間違いなくレイルスのおかげでエースの体のデカイ傷跡は消えた。おそらくレイルスは、マルコがエースを連れて逃げられるようにと海楼石を託した。マルコはレイルスが助けてもらうつもりが毛頭ないのだろうことをわかっていたし、それは遠目に見ていた白ひげにも伝わっていた。だからこその船長の言葉。そんな白ひげをマルコは敬意と愛情を持って見つめ、グッと涙を耐えたのだった。


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投稿日:2022/0226
  更新日:2022/0226