21番目のカード


 猫の生死に関する思考実験。およそ30年前にクレタの数学者が出した論文だ。猫と気化性の毒素を密閉した鋼鉄の箱の中に閉じ込めたと仮定した時の考察。1時間あたりに気化する毒物が50%とし、毒を吸って猫が殺される仕掛けにする。1時間経過した時に箱を開け、猫がどうなっているか。猫が毒を吸わずに生きている50%と、毒を吸って死んでしまっている50%、可能性は生死の二つに一つだ。箱を開けるまではその結果はどちらにも転ばない。言い換えれば箱を開けるまで両方の可能性が並列して存在しているとも言える。
 実際の論文内では放射能性物質と原子崩壊、並びに量子力学の……とつらつらと論述されていたが、要はこの学者は猫が死んでいる状態と猫が生きている状態が同時に存在しうるということを思考実験、例え話で論じたのだ。こういったこじつけのような話でも数学分野や物理分野ではかなり重要で、あらゆる事象を数字で捉えようと奮闘する学者達には刺激的な一説だった。
 この学説はそれはもう多くの分野で波乱を呼び、また例えとして猫の生死なんて一般市民でも理解できてしまう内容で書いていたものだからクレタの学者は大層批難を浴びたらしい。
 逆に、それだけ大衆に知られると多くのとんでもない話も出てくる。専門外の学者が、この話を元にとある本を出版した。並列する事象が猫以外にもあり得るのではないかというそんなSFじみた物ではあったがこれが世間に多いにウケた。もしもの世界、かも知れなかった世界、そんな世界にいたかもしれない自分。いつからかそれが“パラレルワールド”と呼称され始めた。
 海賊が栄えていたかもしれない、アメストリスが誕生しなかったかもしれない……まあ他にも色々違う世界。
日が落ちて夜も深くなると、普段賑やかすぎるこの場所でも人が眠れば静かなものだ。木目の天井を暗闇の中で見上げながら徐に起き上がる。絶対安静を言い渡されてはいるものの、少しくらいはいいだろうとレイルスは足を床にそっと下ろした。不細工な鎖ではあるが、少なくともこの船では取らない方が賢明だろうと考えていた。サンジにはああ言ってしまったが、もし「錬金術が存在しなかったかもしれない世界」なんてとんでもないもしもがあったとしたら、使わない方がいいかもしれない。彼らに混乱を与えることはレイルスの望むところでもなかった。
 なるべく音を立てないようにノブを捻り、鎖を引き摺るようにして甲板へと出る。一度出た時は気がつかなかったが、甲板には背の短い芝生が伸びていて随分とユニークだなと感心してしまった。シャワーはまだダメだ、なんてチョッパーに言われて驚いてしまったが随分と設備が整った船なのかもしれない。真水って海上では貴重じゃなかったかな、なんて思いながら、昼間に体を拭いてもらうついでにロビンに借りた上着を手に芝生へと足を下ろした。気を失っていた時に頭部に切り傷はないからとチョッパーが洗面器で頭を洗ってくれていたと聞いた時には申し訳なさで思わず土下座しかけたが、それだけ汚れが酷かったんだろうなと思うとなんとも言えない。実際にはレイルス自身の血で塗れていたのであるがレイルスはそれを知らない。
 船の縁まで進み夜の海を眺める。あいも変わらず恐ろしく広大で、昼間と違って悍ましさすら覚える。柵になっている部分があったため座り込んでその隙間から眺めれば、視覚が制限されて多少はその膨大な景色がマシになった。それでもやはり、すごいなと思わざるを得ない。日が落ちているからか、それとも気温の低い場所にいるのか定かではないが潮風はそれなりに冷たい。緩い風に靡く髪が時折顔にかかって鬱陶しいが、感情が動くほどでもない。なんだったら目の前の景色が新鮮で、口角が上がってすらいた。こんなにも何もない地平線をレイルスは見たことがなかった。
「大人しく寝てられねぇのか」
 低い声が背中にぶつけられて振り返れば、少し離れた位置でこちらを見下ろしている人影。三白眼であろう元々の目をさらに鋭くさせている。しかし残念ながら多少睨まれたくらいで怖がる可愛げはとっくの昔になくしているレイルスは、軽く肩をすくめて微笑んだ上で口を開いた。
「夜の海も見てみたくて」
「何がおもしれぇんだ」
「内陸にいたし、海は初めて見るから」
 何か用があるのだろうと踏んで横に向けていた体を相手に向け、背中を船の柵へと預けて話を聞く姿勢を見せるレイルス。そんな動作にピクリと眉を跳ね上げさせ、大きくため息を吐き出した相手――ゾロもレイルスの前までやってきてどかりとその場に座り込んだ。
「お前一般人じゃねぇだろ」
 一般人。一般人という枠の括りがざっくりとしていて曖昧だが、海賊のいう一般人の指すところといえば同業者以外、で正しいんだろうか。つい考え込みそうになってしまったレイルスだったが、その前に痺れを切らしたのか立て続けに言葉が投げかけられたことで思考に沈む前に止まる。
「エニエス・ロビーにいたってのもあるが、戦えるだろお前。あとなんか気配がざわつく」
「ざわつく」
 なんだその妙な表現は。レイルスは思わず繰り返すもゾロも真剣らしく、険しい顔のままだ。そこがかなり気になりはするが答えられる部分は答えようと思考を切り替えて口を開いた。
「人並みには戦える」
「どっかに属してたのか」
「何年だったかな、4、5年?くらい国の軍にいた」
「軍人か……いた?」
「色々あって逃亡したら指名手配された」
 何やってんだという顔。それ以上詳細を話すつもりはサラサラないのでそういう顔をされるのも致し方ないと受け入れる。ゾロとのやりとりは裏表がない分わかりやすくてやりやすい、レイルスも下手に腹を隠さない方がいいだろうと素直に話した。だいぶ言葉足らずではあるが。実際、レイルスは軍人というよりは研究者という括りだ。有事の際には兵器として戦場には出るが、一般的な軍人ほど鍛錬に時間を割いていたわけでもない。
「お前の国は、んな餓鬼でも徴兵すんのかよ」
「14って子供って歳?」
「……お前いくつだ」
「19」
「はぁ!?」
「失礼極まりない」
 どっちの意味だとしても失礼極まりない。大方下に見られていたのであろうことはレイルスの今までの経験からわかるが、だからといって許容できるかは別問題である。レイルスは素直に腹が立ったので睨み返した。
「同年には見えねぇだろ」
「……老けてんね」
「うるっせぇ!!」
 手のひらを返すようにしてレイルスはゾロを許すことにした。ちなみに彼、ゾロの名前を覚えておらず、翌日本人に「名前なんだっけ」と聞いて刀を抜かれそうになったのは余談である。人のことを言えないくらいレイルスも失礼であった。



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投稿日:2022/0102
  更新日:2022/0102