幌の間隙
潜水中のポーラータング号の中、初めて意識のある状態で乗船したレイルスは興味深そうにして丸い小窓から見える海底を眺めている。ルフィが目覚めたことを聞きつけた女ヶ島の面々が、ハートの海賊団の滞在を許さなかったのだ。ローはある程度それが予想できたからこそ怒りもしなかったが、クルーはプンプンと頬を膨らませて進めていた出航準備を早めて早々に潜水をした。ルフィを治療してくれた、と少なからずハートの海賊団に恩を覚えていた住民もいたようで多少の食料や薬、日用品を譲ってくれたがそれでも半ば追い出すような船出であった。
「お前はまだ寝てろ」
そう言って片付けられたオペ室へと押し込められたレイルスだったが、薄暗く窓もない場所にすぐに根をあげて脱走した。もう寝られないというほど寝てしまっていたのもあるし、穏やかに横になっていられるほど心も落ち着いていない。
目の裏に焼き付いている、エースの笑顔。多くを語ったわけでも為人を知っているわけでもない。あの場で知ったポートガス・D・エースという男は、父親と呼び慕った白ひげへの侮辱を一切許さず、弟の為に命を張って死んでしまった。自分の信念から逸れることが許せない、火がつくように誰かのために怒ることができる。レイルスがあの戦場で直接エースを見て感じたことはそれくらいだ。それでも十分すぎるほど、エースという男の直向きさが伝わってきた。不器用な彼の生き様は、レイルスにとって少し痛かった。名前もわからない小魚の群れが、小窓の外を埋め尽くすように遊泳している。キラキラと光る鱗が反射して、レイルスの顔に光を注ぐ。
魚の群れが通り過ぎた頃、レイルスの顔に影がかかった。
「寝てろと言ったはずだが」
真上を見上げれば、逆光になって恐ろしい形相になったローがレイルスを見下ろしていた。通路に座り込んでいたレイルスと高身長のローではかなり距離ができていたものの、逆さまに見える顔が不快そうに歪んでいるのをみたレイルスはくるりと体を反転させた。
トラファルガー・ローというこの男は気まぐれだと言ってルフィをあの場から連れ出し、治療を行ったらしい。そう話して聞かせてくれたのはしばらくベッド役にさせられていたベポで、自己紹介とともにキャプテン自慢を流れるようにレイルス相手にしていた。もちろんレイリーが離れてからの話である。
「治療ありがとう」
しっかりお礼を伝えていなかったと思い、ローの問いかけを無視する形でレイルスが頭を下げる。遠くで心配そうにその様子を見ていたシャチとペンギンはローの眉が不機嫌に寄るのを見てあわわ、と小さく悲鳴を上げた。
「その治療を無駄にしたくねぇなら安静にしろ」
「……安静にしてるけど」
どうやら安静の意味がお互いの中で違うらしいと両者が思った瞬間である。ローのいう安静はもちろん横になって動くな、という意である。対してレイルスの思う安静は無茶な動きをしない、である。お互い頭がいいが故に相手の言いたいこともわかってしまって、ローは舌打ちを零しレイルスは頬をかいた。
「こんなところに座り込むな、暇だってんならついてこい……お前らはコソコソしてねぇでさっさと仕事しろ」
「バレてら、アイアイ〜」
「すんまっせん〜」
言外にそこは邪魔だと言われて仕舞えばレイルスもここに座っていられずゆっくりと立ち上がる。案の定くらりと視界が揺れたが、壁についていたままの右手に力を込めることでそれに耐えた。シャチとペンギンは冥王と意味深な会話をしているレイルスを見て、ふとシャボンディでのことを思い出して気になって覗いていたのだが、場所を移すのであれば船長室だろうと諦めてさっさと退散した。
「そういやヒューマンショップでも尻撫で回されてたよな」
「今思えばな……あの時は立ってるので精一杯だったっての」
「この前もな……まじで冥王おっかねぇ」
ボソボソと話しながら離れていく2人の会話はレイルスには聞こえなかったもののローの耳には届いていた。そう、あの時妙に冥王が気にかけていた金髪の女。その時の女がレイルスであるということにハートの海賊団は気がついていた。ローの後ろを歩きながらレイルスは随分バランスが取りにくいものだなと片腕を失った体の重心を探すようによたつく。
弟も、こんな風だったのだろう。片腕も、片足もなくしてしまった弟を自然と思い出していたレイルスの表情は普段通りであり、内心を推し量ることはできない。あまりに思う所が多いのだ。
ペンギン達の予想通り、船長室へと辿り着いたローは机の前に置かれていた椅子に腰掛けて眉間を揉んだ。レイルスはぐるりと部屋を見回して、扉から手を離す。手を離せば自然と閉まる作りとなっていたために、ギイと音を立てて扉はしっかりとしまった。
「さっさと座れ」
そう言ってソファを顎で刺したローはレイルスの様子を観察する。部屋を一瞥して書類の場所や、本棚の位置で視線が長く止まった。指示をすればヨタヨタと体をふらつかせながら皮張りのソファにポスリと軽い音を立てて座り込む。ローはソファが全く沈まないのを見てゲッと顔を顰めそうになる。クルーの誰が座っても軽く沈み込む皮張りのソファがまるで硬いもののように微塵も変動しない。体重を測ったときにも思ってはいたものの、軽すぎである。
「名前は」
「え、ああ……レイルス・エルリック」
そういえばこうしてきちんと名乗ってはいなかったかと口を開く。もう手配書の関係で知られているというのもあったために、レイルスはエルリックの姓を素直に名乗った。
「冥王との会話から推察するが、名前と姓が逆でいいのか」
「そうだね」
「生まれはどこの海だ」
レイルスはおそらく、麦わらの船で本来ならば聞かれるであろう当たり前の問答を今更受けていると気がついて一笑してしまった。そういえば彼らは、そんな普通のことすらも聞かずにレイルスを受け入れていたのだな、と。
生まれを聞くときに、そんなふうに問いかけるということすら初めて知ったレイルスはどう答えるべきか悩む。なるほど、海で大きく分かれているからこそこう聞くのが通常らしい。もしかしたらそれは海を行き来している海賊や海兵に限ったことなのかもしれないが。
「海はなかった」
「どんな答えだそれは、サウスなり、イーストなりあるだろう」
「イーストっちゃイーストだけど……」
煮え切らない回答にローの顔が凶悪になる。レイルスの故郷であるリゼンブールという町は東に位置する田舎町で、多少南寄りではあったものの括りとしてはイーストエリアに区分されていた。長閑な緑の多い羊の町リゼンブール。帰る家が知らぬ間に燃やされ、無くなったあとでもレイルスにとってはやはりあの町が故郷だ。
「生まれはアメストリス」
「もういい」
応える気がないと捉えたのか、ローは首を振った。レイルスはハイデリヒの元で色々と資料を読ませてもらって、ロビンがかなり優秀で、博識であったことを知った。そんな彼女が知らなかったからこそ、本当にこの名前はここでは通じないものだとわかっていた。それでも最後にと、ローに対して確かめるようにアメストリスの名を出してしまったのはなぜなのか。レイルスにも自分の心境がよく理解できず、眉を下げて「そう」と答えるしかできない。そんなレイルスの様子に気が付かずに、ローは手元のカルテを見下ろす。出生不明、血液型S型Rh -。名前と姓が逆転する国。
「わからねぇならそれでもいい」
「?」
「この船には自分の生まれた国を知らない奴もいる、親の顔すら知らないって奴も」
海賊には珍しくねぇよ。そうレイルスの顔すら見ずに静かに続けたローにレイルスは目をパチクリとさせる。どうやら、随分とわかりにくいが慰められているらしい。故郷の場所をよく覚えていないとか、そう認識されたんだろうか。レイルスは少し困った顔で思案した。ローの態度からおそらくその勘違いを正さなければ後からバレたときにブチギレられそうだ、なんて思ってしまったのだ。そしてその予想は正解ではあったが、レイルスはまあいっかで片付けた。実際、場所が分からないのは間違っていないのだし。
「なんの実を喰った」
「……ああ、悪魔の実」
どうしたものかな、とレイルスは答えに澱む。こうも真っ直ぐに聞かれてこなかったからこそ答えに困らなかったというのもあるが、どう答えるのがいいのだろうか。レイルスの力は悪魔の実なんてものを食べて発生したものではなく、レイルスの努力によって身についた知識と技術だ。しかしそれを説明してしまってもいいものか。まだ、麦わらの一味の誰にも言っていないのに。そんな声がレイルスの奥から囁かれた。
「わからねぇならそう言え、同じことを言わせるな」
困った顔をしたレイルスに気がついたローが真っ直ぐとレイルスを見る。アンバーの色をした瞳は、もしかしたらレイルスの目の色には一番近い色かもしれない。基本的にこちらを気遣っているローの態度にレイルスもやはり誠実に返したいと、そう思わされる。この世界の海賊は、揃って厄介者ばかりだとレイルスは内心で苦笑した。心根の腐った連中であれば平気で嘘をつけたのに。
「分からない」
嘘ではない、ギリギリ。レイルスは気まずくて視線を下へと落とした。性格的にレイルスは嘘をつくのがどちらかといえば苦手なタイプである。必要な嘘ならつけるだろうが、必要かどうかも分からない現状ではどうもやりにくいとレイルスは挙動が不振になる。
「じゃあ、何ができる」
レイルスの顔が上がる。ローは静かにレイルスを見つめた。気まぐれなんていっても、ローがルフィを助けてくれたことも、レイルスのことを助けてくれたことも事実だ。人相こそ悪いが、クルーからの慕われ方から彼の人格も悪いものでは無いのだろう。
「……最初に話すべき人が、いる」
いえない。そう答えたレイルスにローは咎めることもせずに静寂を保った。マルコ相手にはああ言ってはいたものの、ローはそこまでレイルスの乗船に対してこだわりはない。行く宛がないのであれば面白そうなので乗せてみるのも一興かと思っていただけで、本人にその意思がないのであればそこまで意固地になるものでもない。それも、ほかの船から勧誘を受けていることも判明したのだ。誘うにしては面倒な相手、面白くはないがローはそこまでレイルスに固執する理由もなかった。
不死鳥から引き出せなかった、その辺りの情報を駄賃に乗せてやるつもりであったのだが、これは口を割りそうにないと判断したローは興味本位で問いかけた。
「なら今、何かできるか」
「いいけど」
いいのか。あっさり快諾したレイルスにローは少しこいつ大丈夫かと心配しそうになった。レイルスからすれば話さないのであれば別に、と言ったところで、海軍本部でああも派手に錬成をしていたため、見せる、というハードルはかなり低い。見たってどうせ分からないだろうしという気持ちもあった。命の恩人であるローの頼みをこれ以上断りにくい、という思いもあったが幸いなことにローにはその罪悪感に似たレイルスの気持ちはバレていない。
「あ、吹聴しないなら」
「誰がベラベラ喋るか」
ついでのように条件こそ足されたが、海賊相手だというのに警戒心のかけらもないレイルスにローはヒクリと頬を引き攣らせた。キョロりと改めて部屋を見渡したレイルスはローの足元に木箱を見つける。その中にはビーカーやフラスコの破片が詰め込まれてる。ルフィが暴れた衝撃で、船長室にて保管していたそれらが割れてしまったのだ。ガラス製品でなければ調整ができない薬品などもあるため実はかなりの痛手だったのだが割れてしまったものはしょうがない。散らかしたままにもできないためこうして山にして机の下に押し込んでいた。ちなみにこの場所に置いてあるのはクリオネが回収し忘れたと言うだけである。
「それ、見せて」
足元を指さされたローはその細い指の先を追い、木箱に初めて気がつく。誰だこのやろう、こんな場所にゴミを置いて行ったのは。足でそれを机のしたから押し出したローはその中身を見てまたピクリと米神をひくつかせた。ビーカーやフラスコといった専用器具はしっかりとしたものを買えばそれなりの値段になる。立ち上がろうとするレイルスを睨んでソファに留めたローは能力を行使して箱をレイルスの目の前の机に乗せてやった。代わりに机に乗っていた新聞がローの足元にパサりと落ちる。初めてローの能力を見たレイルスは目を白黒させた。
「……悪魔の実?」
「さあな」
素直に驚くレイルスの反応にすこしだけ気を良くしたローが肩をすくめて言葉を濁す。レイルスは確かにここであれこれレイルスが聞くのはフェアではないと大人しく引き下がった。なんならベポがそれっぽいことを言っていた気がすると思い出していたので、悪魔の実で間違いないだろうとレイルスは判断した。レイリーのいた余韻でベポの口がうまく回っていなかったせいで聞き取りにくかったことが幸いしていた。「おぴぇおぴぇのい」とほぼ原型のない実の名前ではレイルスも判断出来そうもない。レイルスはそれが実の名前だとも分からなかった。
「借りるよ」
机の上に転がっていた鉛筆を握る。書くものがないな、と一瞬迷ったが結局木箱の表面にガリガリと勝手に陣を書き込み始めた。見えない位置で何やら始めたレイルスに顔を顰めたローはため息を吐き出しながら立ち上がってレイルスの横へと移動する。
「ビーカー?」
「フラスコもだ」
「三角、ああ丸底もあったんだ。ビーカーは小さめのばかりみたいだけど」
「ここに置いてたのが100のサイズだけだった」
「コニカルもあった?」
「なかったが……やけに詳しいな、お前」
壁に寄りかかってレイルスの手元を眺めて返答していたローがレイルスの口から出てくる単語に疑問を飛ばす。フラスコと言われて一般人が思いつくのは丸底のいかにも、な形のものが多いだろうがあれは加熱や冷却を行う際により広い面で中身に熱を伝えるための形状であって、より使用されているのは三角フラスコの方だ。コニカルビーカーとは口が狭くなっているもので、通常のものよりも安定性が高い。フラスコよりも口も広いため薬剤を複数、ある程度の量を混合させなけばいけない時などに使用する。割れて仕舞えばどれもただのガラス片、しかしそれを見てある程度正解を言い当てて、判断のつきにくい種類のものと区別をしようとしたレイルスにローはまさかこいつも医者とは言わないとな、と少しだけ警戒した。
「ちなみに何が何個あったかはわかる?」
「……三角フラスコが5、丸底が3……ビーカーが13だ」
自分の部屋にあるものはきっちり数を把握しているのは、よく能力でサークルを展開するからだ。空間の中に内容されたものの位置や数、大きさなどを把握できる能力でもあるので、自然と長い時間を過ごす自分の部屋のものの位置やものの数は覚えていた。
鉛筆を置いたレイルスの視線の先には相変わらずガラスの山。木箱には綺麗な正円に五角形を描いた簡易な模様。ローはジッとその絵とも言えない何かを見つめた。レイルスの右手が陣に触れる。バチバチという音と光、ローは突然の閃光に思わず身構えるも、それが電伝虫からの映像で写っていたものと同じであることに気がついて食い入る様に見つめ直す。光の狭間、より強い光を発する木箱の中身。ガラスの山が蠢いている。徐々に平らになっていったその山が、光に反射して鋭い断面を煌めかせる。しかし、その断面が次第に溶けるように少なくなっていることに気がついたローは思わず壁に寄せていた体を、乗り出すようにして前傾させた。集中して一箇所を見つめると、バチバチという音と光と共に、ガラスが解けるようにして形を変えてまた新たに整形されていく。よくよく見れば多くの縦線が入り、まるで長いレンガを敷き詰めているかのようにそれらが伸びて、割れ目が閉じていく。
「……んし」
光が収まった先で、ローは信じ難いものを見た。三角フラスコ5、丸底フラスコ3、100サイズのビーカー13。それらがきっちりと整列させられて、一つのヒビもなく新品さながらに木箱の中に収まっていたのだ。乗り出していた体をさらに乗り出して、レイルスの体を半ば押しのけるようにして木箱に手を伸ばしたローはその一つに触れて、本当にそれらが治ったことを知る。
「……ジャーン?」
ローの剣幕に少しだけ尻込みしていたレイルスが、ローの驚いた顔の真横でマジシャンのように手を広げた。
投稿日:2022/0308
更新日:2022/0308