チェンジング
爆弾事件に関する水瀬の事情聴取については、水瀬が仕事に復帰してから松田が執り行うこととなっていた。急務とならなかった理由は大きく二つ、水瀬が唯一の怪我人だったこと。もう一つは犯人の人定が済んでいたことだ。もちろん、詳細は後日として水瀬を誘拐した犯人の人相だけは先に確認されたがそれ以降は刑事部内で話を進め、なるべく水瀬へ負荷をかけさせないようにと事が進み、暗号を解きゴンドラに同乗することとなった松田に一任という形に収まった。決定が下った時に萩原は若干松田に文句を言い捨てたがなんのそのと松田はスルーしてみせた。「じゃあ覚えてないんだな」
「写真と顔、カルテを見たんですけどやっぱり記憶にはなくて……カルテ上でも一度だけ、数分だけのやりとりしか記述もなく……当時はコマンド通らないって苦情受けることも少なくなかったですし」
かつての患者が犯人だったと聞いたときの水瀬は、納得したような歯痒いような、複雑な表情を見せた。ケアしきれなかった自身が悪い、それはある。しかしその結果殺される謂れはどこにもないはずだ。精神科医として心の強くなっていた水瀬は犯人の動機らしい出来事を聞いて暗く沈む事なく松田の質問にしっかりと答えた。やっぱり可愛げがない女であると松田は笑う。刑事部の面々からくれぐれも聴取は丁重に優しく執り行えと口を酸っぱくして言われていた松田としては、弱った気配すら見せない水瀬を見てため息を零したいくらいだった。楽でいいが、どれだけ周囲が心配の色を見せても本人がこれではなと聴取の用紙を埋めていく。ゴンドラの中で震えていたのが幻覚に思えるほど水瀬は毅然としていた。
「それ以外での関わりもないな?」
「記憶にある限りは全く」
唸る水瀬に松田はガリガリと頭をかく。
「そういえば、観覧車でのことって」
「お前は最後まで死んだように眠ってた、いいな」
降谷が知っていた通り、どうやら松田はそう報告をしているらしい。いいのだろうかと思いながらももう上申してしまっているだろう内容を覆すこともできず水瀬は神妙に頷いた。そんなことはどうでもいいと松田は空気を払うように手を振る。ふわ、と水瀬の鼻にタバコの匂いがかすった。当然だがゴンドラの中で松田が燻らせていたものと同じ匂いだ。この煙に包まれながら死を覚悟したんだったなと水瀬はぼんやりと回顧する。
「……お前念のため釘刺しとくが、ストーカーされてたって事だからな」
そうかそうなるか。ハッとした顔をした水瀬に松田の米神に血管が浮かぶ。
「少なくとも、お前に警護がつく数ヶ月前に部屋一つ借りてまで監視をしてる」
「週刊誌のパパラッチみたいですね」
「殴られたいか」
水瀬の口がキュッと閉じた。冷めたコーヒーと啜りながら松田は視線で口には気をつけろと睨む。
「常にとは言わねぇが、もう少し周囲に気を配れ」
これだから恐怖に慣れた奴はダメなんだと松田は改めて認識する。水瀬にも少なからず最初の事件に巻き込まれてから警戒心はあったはずだ。そして事情聴取を受けて、自分がまた狙われることも馬鹿ではないから悟ったはずだ。そして4年という月日が流れた結果その恐怖にすっかり慣れた。恐怖心が死んでいるわけではないのは松田が一番よく理解している。そうじゃきゃ、ゴンドラの中であんな風に震えて怯える事すらできなかっただろう。あれは体にぎゅうぎゅうに押し込めて知らないふりをしていた恐怖が漏れ出ただけだ。そして今、水瀬がその恐怖をどこにやったのか。たったあれっぽっちで死の恐怖を乗り越えられてたまるか、普段通りの水瀬に松田は嫌な予感をはっきりと感じていた。不気味な感覚は松田を懐疑的にさせるには十分だった。
「お前の勤務時間教えろ」
手帳を取り出した松田はため息をこぼしながらボールペンをノックする。
「へ?」
「刑事部もいつまでもお前の警護してられねぇんだ、上も次の犯行は少なくとも1年後までないだろうと判断してる」
それまでずっと水瀬に護衛をつけるわけには行かない。当たり前のことだ。たとえ刑事部の失態で水瀬が怪我を負ったという事実があっても。特殊犯の刑事はそれはもう罪悪感に殺されそうな顔をしながらその決断に頷いたのだという。萩原は個人的に気にかけることに決めたらしい、だからこそ先日の飲み会だろうと松田もわかっていた。まさか新居があんなに近いとは思ってもいなかったが都合がいいと言えばいいため、松田も水瀬の家の場所をしっかり記憶した。
「今月のが……」
スマホを差し出され、そこにぎっしりと詰まった予定に松田は顔を顰めた。
「んでこんなバカみたいに詰まってんだ」
「ええ?」
警視庁での勤務以外、特に病院への出勤が週末嫌に多い。水瀬も松田に言われる前からそろそろ護衛が外れることは別の刑事によって申告されていた。送迎されることに申し訳なさを感じていたときだったので、その時家まで送ってくれていた刑事には謝意をしっかりと伝えている。だからこそ控えていた病院への顔出しも元の予定に戻していたのだが、まだ早かっただろうかと水瀬は首を傾げる。メモを諦めた松田はその画面をスマホで撮影した、書いてられるかというほどにびっしりなのだ。松田は水瀬のスケジュールを見て初めてD課の仕事が夜勤を含むことを知った。大きな山を抱えているときの捜査一課並に不規則で出鱈目、そしてびっしりと警視庁への登庁予定が詰まっている。
「病院で研究もしてるので」
「いつ休んでんだお前」
「休んでますよ?」
だめだこいつ。松田はここまで公私を混ぜ合わせた後輩を初めてみた。来月捜査一課に異動してくる伊達に相談しようか。俺じゃ面倒見切れんと松田は頭を抱えた。爆発物処理班でもどちらかというと手を抜くのが上手い後輩ばかりだったのでこの手の新人を見たことがなかったのだ。調書用のファイルを閉じて松田は眉間を指先で揉んだ。先日別件の殺人事件があったせいで徹夜だった。
「そういや精神科医の教本みたいなの、お前もってねぇの」
「教本ですか?」
「マインドコントロールの」
「それで習得できてしまったら私が6年間医大で過ごした日々が無為になるんですが……」
「別に読んだだけで習得できるなんざ思っちゃいねぇよ、考え方を知りたいだけだ」
疲れた目をする松田の様子を見て、確かにまた少しピリピリしているようだと察する。爆弾事件の後の居酒屋で会った時は穏やかだったと思ったのだが、萩原の効果だろうかと水瀬は推察した。しかし、松田の言い分も分からなくはない。合理的主義のきらいがあるのも接しているうちに感じていた水瀬は頷く。
「市販のものもございますが」
「啓発本は読まねぇ」
バッサリである。確かに市販のものだと胡散臭いものも混じっているが、大学教授が出しているものについてはエビデンスのしっかりしたものがほとんどだ。
「私の教本となると、ちょっと入り口がよくないので……英語ですし……知り合いの教授が出している本であればお貸しできますよ」
英語くらい読めるわと噛みつきそうになるも、入り口が、などと言われて仕舞えば松田もそれでいいと頷くほかない。松田自身、ダイナミクスを安定させたいという思いはもちろんある。しかし水瀬の観覧車での言動を見て、あまりに自己に対する俯瞰が強すぎると感じた。世捨て人とまでは行かないが、ある種達観しすぎていたのだ。直感でよくないものを感じた松田が、水瀬がどういった研修を受けていたのか気になるのも仕方のないことだった。
投稿日:2022/0702
更新日:2022/0702