チェンジング
人の機敏に鋭い萩原は、水瀬がどこか疲れてることにすぐ気がついた。「寝不足?」
「いやあ、気がついたら床で寝てて」
「マジで?しんどいねそれ」
「朝起きたら体からおかしな音がなりました」
やってしまいました、と笑う水瀬の言葉にだから動きが鈍いのね、と萩原は納得する。目の下に隈があるわけではなかったので寝不足と問いかけながらも別の理由があるのだろうと考えてはいたが、まさか床で眠ったとは。しっかりしてるようで抜けてるところがあるよなと萩原は笑った。だからこそ、この抜けている後輩に詰め寄る。
「それで?その手はどうしたの?」
ん?と優しい笑みで威圧する。湿布の貼られた場所は右手の親指付近。手の甲から手のひらまでぐるっと白で覆われている。
「昨日ケアの時にちょっと」
水瀬の言葉に萩原はスッと表情を静かにする。水瀬は嘘をつかない。そして水瀬が仕事に関することを本当に一切口にしないということも重々承知していた。だからこそこれを言われてしまうとこれ以上の追及ができないのだ。んぐぅと萩原の喉から妙な音が出た。
「誰かに業務外で怪我させられたんじゃないよね」
水瀬は考える。いや“あれ”は業務だったと水瀬は首を縦に振る。
「違います」
しっかりとした答えに萩原も一応納得の姿勢を見せる。平気ならいいや、と普段の笑みを浮かべる萩原に水瀬も素直に礼を告げた。出会った頃から萩原は隠すことなく心配の色を全面に出して水瀬を気にかけていたが、先日の事件にてその性質に拍車がかかっていた。最近では萩原だけに留まらず、特殊犯の刑事全体でそんな空気が漂っている。無理もない、自分たちの失態で水瀬を危険に晒し怪我をさせたのだから罪悪感が募って仕方がないのだ。水瀬も医者としてその心理を把握しているのか、特殊犯係からのお節介を甘んじて受け入れている。
「誰って聞きたいけど、まあD課の課長さんが対応してるのか」
「誰って聞かれても絶対に言いませんよ」
「本当にこれに関しては口堅いもんね水瀬ちゃん」
徹底的なまでのD課の口の硬さ。捜査令状を持ってこなければ誰も面談時のプライバシーを語らないのだからD課の職員は全員プライドを持って医者として仕事をしている。実際、デリケートな面が多い面談だ。医師免許獲得のためには個人情報保護に関して非常に厳しく教えられ、研修中も他者の耳がある場所で患者の情報を零していないか調査までされる。
「陣平ちゃんとの聴取はどうだった?あいつ聴取ド下手で問題児らしいんだけど」
「松田さん?」
「結構前に聴取したって聞いてたから」
「うーん、そんなに言われるほど何も……」
「ええ本当?威圧感すごくて相手泣かすってよく聞くんだけど」
それは、と水瀬は苦笑する。サングラスをつけていると目元が見えず、背が高くガタイのいい松田に初対面で詰問されるからなのではと水瀬は正解を内心でぼやく。一部で組対顔負けの泣かせ刑事と揶揄されている松田である。
「私は松田さんの性格も知っていますし、質疑応答の形式もわかっているのでスムーズでしたよ」
「ああ、イラつかせなかったからそんなに怖くなかった?」
歯に着せぬ萩原の良い様に水瀬は苦笑する。そうは言っても松田の人格を一番理解しているのも萩原なのだ。周囲に合わせることが苦手ではあるものの、最短距離を全力疾走できる馬力と性能があるのが松田だ。ついてこられない周りが悪い、松田の言い分すら想像できる萩原は多少嗜めるくらいしかできない。萩原も松田ばかりが悪いわけではないと思っている節があるからこそ放置している面もあったし、大の大人になってそこまで口を出すのも違うだろうという理由もあった。それでも手を回せないかと水瀬に愚痴はこぼすのだが。
「水瀬先生が言ったら聞くと思うんだよなぁ」
「何がですか?」
「人相悪いからちょっとは愛想良くしてって」
「いやいやいや」
そもそもそこまで人相が悪いだろうかと水瀬は首を捻る。全てはサングラスのせいだろうと水瀬は思っていた。愛想は確かに良いとは言えないだろうが。本人が必要としていない以上、周りが言っても雑音にしかならないだろう。もちろんそれで人間関係が悪くなる様であれば松田の上司が苦言を呈すだろうし、水瀬が口を挟んで面談に影響が出る方が問題だ。そこまで考えた水瀬は「無理ですよ」と首を振った。
「え〜」
「萩原さんがわかってくれてるからこそ、松田さんもそんなに気にしていないんじゃないですか?」
「俺?」
「松田さん、確かに誤解はされやすそうですけど……わかってくれてる人がいれば良いってタイプな気が……ってごめんなさい、私が話すことではないですね」
萩原の面談と沿う中身ではなかったと水瀬は言葉を切る。たとえ萩原本人から提供された話題だとしても、あまりここにいない他者の内面を分析するような言葉を精神科医を名乗る水瀬が口にするべきではなかった。よくないと水瀬は苦笑しながら萩原に謝罪する。
「そんなもんかね」
じっと水瀬を見ながら萩原はぼやいた。松田は確かに水瀬がいうようなタイプだ。誤解している馬鹿なぞ放っておけというくらいに他者からの評価を気にしない。数字で見える結果にはとことん負けず嫌いの性格が出てくるが人間性などといった曖昧な、人によって揺れ動く不確かなものはどうでもいいと思っている。まだそこまで付き合いの長くない水瀬にこうも看過されているというのが、嬉しいような悔しいような。松田にとっては間違いなく喜ばしいことだろう。だがそれは水瀬にとって特別なことではない。誰にだって平等で、誰にだって心の底から全力な水瀬だからこそなのだ。萩原は大きくため息を吐き出した。
「ほーんと、勘違いするバカが増えそうでお兄さん心配よ」
「うん?何か自己完結しましたね?」
「水瀬ちゃんは罪な女だよねって話」
キョトンと水瀬は目を瞬く。長い睫毛が上下して大きく開いた目が萩原を真っ直ぐと捉えた。誰にでも無防備で、誰にでも一定距離。精神科医としての水瀬は非常に優秀なのだろうと萩原は痛いほどよく知っている。水瀬が悪いわけではないのだ、勘違いさせるような距離をとることもない。水瀬という人たらしを一番長く見てきたのは刑事の中で萩原だと自負している。しかし、人によって水瀬の精神科医としての接し方を勘違いする輩もいるわけだ。事実、すでに噂ではそれなりの人数に目をつけられている水瀬である。そして萩原はその中でもとびきりの厄介者が混じっているのをわかっていた、松田である。
人間関係の構築がそれなりにうまい萩原と、そうではない松田とでは水瀬に対して抱く感想も全く違うものとなるだろうというのも萩原はよくわかっていた。なんなら警察学校で最初にできた友人すら殴り合いから発展するような不器用な男が松田である。そんな松田が、プライベートの飲み会で水瀬の名前を出しても現れたというだけで相当なことだというのを、松田本人がまだ自覚していない。頭を抱えたい気持ちでいっぱいである。それがどんな感情なのかはまだ不明だが、幼少期を知り、それなりに松田に振り回されてきた萩原としてはこれからが不安でたまらない。萩原自身もその分松田を振り回し迷惑をかけてやる意地の悪さがあったからこそここまで長く付き合えているため、松田から言わせればどの口が言うんだといったところだが。
それが、この純真無垢なか弱い女の子が相手。少なくとも小学校から付き合いのある萩原は松田が女の子の友人すらまともにできたことがないことをよく知っていたため、こじれないと良いなと心から思っていた。流石の松田もいきなり殴りかかる様なことはしないだろうが、良い歳してあの不器用さは問題だ。全部手先に持ってかれたんだろうと萩原は本気で思っていた。
「あのグラサンが怖かったらいつでも言ってね、俺が殴ってあげるから」
「物騒ですね、大丈夫だと思いますけど万が一の時はよろしくお願いします」
この子は真っ当に真剣に仕事してるだけなんだもんなぁ、と萩原は抑えきれなくなって苦笑を漏らしてしまった。
投稿日:2022/0706
更新日:2022/0706