チェンジング
「降谷さん?」顔色が悪いだろう自覚のあった降谷は、入室早々水瀬が驚いた顔をして立ち上がったのを見てため息を吐き出しそうになった。そしてこれではダメだと意識して背筋を伸ばす。
「体調が?病院へは……」
「いえ、少し寝不足なだけです」
柔らかい言葉遣いと表情。しかし水瀬は明確に線を引かれたのを感じ伸ばしかけていた手を下ろす。相手を押しつぶすような威圧感、水瀬が初めて感じた降谷のGlareだった。過去のカルテを脳内で思い出しながら、降谷はどのような場面でもGlareを無意識に出したことはなかったという記述を引っ張り出す。警察庁でどれだけ相性の悪い相手に当たったとしても、Glareだけは放出しなかったらしい。しかし今はどうだ、肌を圧迫するような存在感と威圧。もちろん降谷がわざと放出しているとは思わない。水瀬は鳥肌の立ちそうな腕を誤魔化すため慌てて白衣の袖を下ろした。
「随分寝られていないんですね、そんな中すみません」
「いえ、ダイナミクスの値も少々不安定でしたので……病院に裏から行くよりはこちらの方が時間も取られずに済みますので」
暗に病院行きにはするなと釘を刺す。にっこりと微笑みながら降谷はベッドへと腰を下ろした。見定めるように水瀬は降谷を正面から見つめる。キャスター付きの椅子を移動させてまで真正面を確保した水瀬に一瞬降谷は驚いた表情を見せた。
「あれ、何か疑っています?」
「いえ」
自覚させるべきだろうか、と水瀬は悩んだ。病院にはかかりたくないとはっきりと明言しているがそんな状況で水瀬が病院行きを示唆するようなことを言って聞き入れるだろうか。ないなと水瀬は即座に判断した。
「今日部署には行かれましたか?」
「え?ええ、書類の整理があったので」
「どなたか、ああいえ誰かは言わなくていいんですが、登庁してから会われました?」
「……部下に会いましたよ」
なんの意味がある質問なのだ、と多少の不機嫌が声に乗った降谷の返しに水瀬はふむと頷く。この様子であれば、その時には指摘されずGlareは出していなかったのだろう。会った相手との相性もあるだろうが、少なくとも威圧する相手ではなかったのかもしれない。うーん、水瀬は降谷の目をじっと覗き込みながら思案顔をした。水瀬だから、ここだから。これまでの降谷のカルテを見るに、瞬間的にダイナミクスが不調をきたすことはなかった。そこまでの事件があったと見るべきか、ストレスが溜まりに溜まって今耐えきれなくなったと見るべきか。服装を見るに、一般人に扮してどこかに行っていたはずだ。誰にも会わずにというのは無理があるだろう。その間指摘されずにこのGlareを垂れ流していたとは考えにくい。水瀬に不快感をもって無意識に漏れていると仮定するには方向性がまったくない、溢れていると表現できるGlareだ。
自意識過剰には考えたくはないのだが、今気が弛んでしまっているから、だとしたら。水瀬は笑顔の降谷にどう言葉を向けるべきか考える。目の前の男が手負いの獣だということだけは念頭に置き、慎重に言葉を選ぶ。いつも通りのケアはどう考えても無理だ。これだけ尖ったGlareが出ている中で相反するバニラのプレイをしたところで余計に降谷のストレスになりかねない。
「最近は寒いですからね、降谷さんはもう冬用の布団出されましたか?」
「数日前にやっと」
「私もやっと出せて、ついでに炬燵も出しました」
「炬燵もあるんですね」
「去年買ったんですけど、暖かくて心地よくて、何もしたくなくなります」
「いいですね」
「太もものあたりから暖かくなって、じわじわ爪先まで温められた血が巡るのがわかるんです」
「女性に冷えは良くないですから」
「男性だってそうですよ、誰だってそうです」
降谷は、この会話がまさにぬるま湯だとそう感じている。水瀬との面談は常に腹の底から温められて、気がついたら指先まで温度と神経が通うような心地を覚える。まるで毒だと今なら思う。スッと、笑顔が抜け落ちたのを感じた。水瀬も普段通りの対応では手遅れなんだとその様子を見て再認識した。
「何が言いたいんですか」
湾曲した言い回しはもうダメだ。水瀬は察し、覚悟する。
「……お風呂に入る時でも、眠る時でも、いつでもいいんです。難しいのは理解していますが、たった数十分でもいい。オフにする瞬間は作ってください」
「肩の力を抜けと?」
「今から15分、席を外します」
時計を確認した水瀬の言葉に降谷は怪訝な顔をする。ガタガタと机の中から何かを引き摺り出した水瀬の手には砂時計。大きさから、10分程度で落ち切るものだろうと検討をつけた降谷は差し出されたそれを受け取る。
「砂が落ちるのを、できれば何も考えずに見ていてください……無理なら、何でこんな無為な時間を過ごさせるんだこのヤブ医者はとでも思っていてください」
「……そう思うならそんな無意味なことは」
「今、無理にでもオフになってください……15分後、戻ります」
降谷の手から砂時計を拾い上げ、ひっくり返して簡易ベッドの上へと乗せた水瀬は本当に部屋の外へと出てしまう。深夜3時を過ぎた時間、人払いも済んでいるためこの時間帯にはD課あるこのフロアにエレベーターすら止まらないようになっている。エレベーターでこのフロアに来るには、特定のカードキーが必要だ。それを所持しているのはD課の職員と事情があって人と会うことができない公安刑事のみ。非常階段ではカードキーがなくともくることは不可能ではないのだが、この時間帯にわざわざそこまでして用のないD課にくるものは皆無。秒針の音すらしない部屋。無茶苦茶なことを言い捨てて出て行った水瀬に降谷は純度の高い苛立ちを覚えた。おおよそ初めて水瀬に対して感じた怒りだ。
諸伏と一切、連絡が取れなくなった。
本当に突然のことだった。誰も予想していなかった潜入先での出来事。一斉に回ってきたメールでの報告と指示にはスコッチはNOCであったこと、スコッチを見つけ次第処理することだけが無慈悲に記されていた。今まで生きてきた中で一番ゾッとしたし、恐怖で指先が震えたのも初めてだった。その事件があってからもう数週間。諸伏の安否は未だ不明、死体も上がっていないが組織の構成員から殺して海に捨てたという情報が出てきている。信じられずに何度も諸伏のスマホに連絡を入れたが返答は全くない。スコッチとして所持していた携帯はセーフハウスで発見されたが、諸伏の私用で所持しているスマホは発見できていないまま。メールは受信されている。つまりスマホ自体まだ生きている可能性が高い。
この数週間、まずなぜ諸伏がNOCであることが露見してしまったのか。それをずっと探っていた。諸伏が公安からの捜査員であることまで組織は把握していたが、名前や正確な所属までは掴んでいないようだった。スコッチを殺したという構成員にも無理やり話を聞いたが、それ以上情報を吐かず自ら海に落下したなどと証言していた。組織の動きも活発、緊張状態もあり組まされていたバーボンとライにも監視の目がつけられた。それが外れたのが10日前。そしてやっと公安と連絡を取り、今日が初めての登庁だった。そして判明した最悪の可能性、公安の中に裏切り者がいるという情報を知ったのもつい数時間前だった。
死んでいるなど、あって溜まるか。信じられるか。
馬鹿みたいな理由で、あんなに実直な奴が死ぬなどあっていいはずがない。降谷は登庁できない間、監視がつけられている間もずっと爆発しそうな感情を押し込めていた。バーボンとして裏切り者を自らの手で処罰したいといった建前でスコッチの捜索は許されていたものの、監視がある中下手な動きは当然できない。万が一見つけてしまったらそれこそことだ。本気でスコッチの捜索ができたのは初日の数時間のみ。それ以降、身動きのできない状況下で降谷は激情を殺し続けていた。それができるほどの精神力と忍耐力を持ってしまっていた。
砂時計が落ちた瞬間に降谷は部屋をでた。まだ水瀬が戻ってくるまで5分あったが無音の室内、それも自身のテリトリーでもない場所でスイッチを切れと言われても土台無理だと判断したためだ。結果、やることがない環境はより諸伏のことを思い出させキリキリと降谷の思考を止めどなく濁流させた。水瀬には適当に警察内部で使用しているメールで謝罪をしておこうと部屋の明かりすら消して進んだ先。てっきりD課の執務室にいるかと思っていた水瀬は降谷の進行方向でぼんやりと壁に寄りかかって立っていた。
「おかえりですか」
「……ええ、やはり体調が悪く」
「精神科医としてどうかと思われる行動を取られてなお、それでも怒れないほどに元気がないんですね」
背を預けていた壁から体を起こし、水瀬は再び真っ直ぐと降谷の正面に立つ。じっとその目を見つめた。
「先ほどからふさげているんですか?」
「この10分考えていたことがその不調の理由です」
「……それを再認識させてどうするんです?」
「穏やかであったはずの時間、全てその思考に囚われていることを自覚してください……身を削って、思考して……答えや結論が出るものであるのであればどうぞ存分に考えてください。でも、ただ自責しているだけなのであれば」
水瀬の目がそっと細められた。
「時間の無駄です、降谷さん」
ブワリ、降谷の纏う空気が一瞬で変わる。ゆらりと一歩踏み出した降谷は俯いていて表情が見えない。背筋が凍りそうなほどの空気、恐怖を殺すために水瀬は爪を手のひらに立てて、それでも引かなかった。
「お前に、何がわかる」
ゾッとするほど低い声。降谷から発せられたとは到底思えないほどの声は、夜の薄暗い廊下の空気を振動させ、リノリウムの床にベシャリと全てのものを叩きつけるような圧があった。水瀬の目の前にたった降谷は、女を見下ろす。怯むことなくまっすぐ降谷を見上げてくる水瀬の目からは何も感じ取れない。ひたすら降谷を見上げている。
「部外者が口を出す範囲を超えている」
「担当医です、業務内容には一切関わっておりません。規定内です」
「業務だなんて誰が言った、俺に踏み込むなと言ったんだ」
一歩間違えれば胸ぐらでも掴みそうなほどの怒りが降谷から迸っている。同時にあたりを押しのけてぐらつかせるような幻覚を覚えそうなほどのGlareも。それら全てに真っ向から立ち向かった水瀬は、それでもはっきりと物申した。
「私の仕事です」
最後にぐらぐらと湯立つほどの熱気を帯びた降谷の目が水瀬を凝視し、話にならないとばかりに顔を逸らされて降谷は水瀬の横を通り過ぎた。一歩進むごとに怒りとGlareが収束していく。ああやはり、と水瀬は少しの安堵を抱きながら振り返った。降谷のダイナミクスコントロールはずば抜けている。それでも専門知識があるわけではない、誰にだって限界はある。専門としている精神科医にだって常時のマインドコントロールは無理なのだ。人によってダイナミクスのコントロール方法は様々だ。安定化の面では推奨されないが、Glareを放出することでストレス値が下がるという研究結果も論文で発表されている。降谷にとってそれが最善なのであれば、緊急ケアとして治療にあたるのが水瀬の役目だ。
取れる方法はもうほとんどなかった。緩めた結果、感情の吐露とともに押さえつけていたGlareが水瀬を突き刺しズタズタにしようとも、降谷が休めない、病院にかかる時間がないというのであればどうしようもない。うまく行って良かったとすら思う水瀬は素直な気持ちのまま笑顔を浮かべた。
「お大事に、またお待ちしております」
「今後は君でないことを祈ります」
にっこりと再び笑顔を貼り付けた降谷が見えなくなるまで水瀬はその場から動かなかった。
投稿日:2022/0707
更新日:2022/0707