チェンジング
「松田さんってD課の子とデキてるって本当ですか」「……あ?」
見知らぬ女に突如声をかけられた松田は不機嫌を隠すことなく低い声で唸った。ちょうど佐藤と張り込みから戻ってきてすぐ、警視庁のエレベーターホールで声をかけられたと思ったら不躾にも程がある質問。相手は松田の機嫌の悪さなど気がついていないのだろう、ニコニコとした笑顔で松田の答えを待っている。
「いきなり何?まだ勤務中よね」
隣で聞いていた佐藤の方が我慢できなかったのだろう。制服を着ていることから刑事課ではなさそうだと考えていた松田はお前がキレるのかよと内心でため息をついた。何かと捜査一課でも色恋沙汰で噂されることの多い佐藤は、この手の話題にうんざりしていた。松田が異動し佐藤のバディとなってからは顕著で、問いかけてくる相手をちぎっては投げ、噛み付いては息の根を止めていた。佐藤に松田と付き合っているのかなど問いかけようものなら絶対零度の視線で射抜かれるため、捜査一課ではこの手の話題はタブーに近いものとされつつある。
「え、やっはり佐藤さんと……?」
佐藤が隣にいたことにたった今気がついたという素振りを見せた女は、佐藤の言葉を丸っと無視する形で口を開いた。見るからに年は下。年功序列の厳しい警察組織において致命的なまでの態度だと佐藤は顔を険しくする。同時に年功序列なぞクソ喰らえと言わんばかりの松田に対しての怒りも思い出し、佐藤の声はさらに低くなった。
「勤務中よね」
無視しろよ、と松田は降りてきているエレベーターのフロアランプを眺めながらため息を吐き出す。タバコが吸いたい。未だ代車であることから、佐藤の車を使っての張り込みだったためタバコを取り上げられていた松田のストレスはそれなりに溜まっている。普段であれば一言程度なら返したであろう言葉も、悉く無視している。佐藤の剣幕と松田の纏う険悪な空気にやっと気がついたのか、女はたじろいだ様に沈黙した。
見知らぬ女からの問いかけは、実は初めて問われた内容ではない。ここまではっきりとストレートに、場所も選ばずに聞いてきたのは初めてだが松田に対して何度かぶつけられた質問ではあった。それらの問いかけで捕まり始めたのが例のカーチェイスからだと気がついたのはすぐで伊達から中継放送についての話を聞いていた松田は、その映像を探し念のためと確認を行なった。松田も水瀬もしっかりと映っており、知り合いであれば既視感を覚える程度には人相も明瞭だった。それも問題の映像が水瀬が松田の車から降りている光景、見様によっては松田がエスコートでもするように助手席のそばに立っていると言うものだったためこういった噂が飛び交っているのだ。
魔が悪いことに、水瀬を送っているという情報までどこかからか漏れたらしく、問いかけとともにその事実も確認されることもあった。萩原に関してもそこの土俵は同じはずなのだが、なぜか松田との噂だけが一人歩きしている。これによって松田のタバコの消費量は増え、イライラとした空気を隠せるほどの気力体力を奪っていた。佐藤はそのイライラを間近でぶつけられる謂わば被害者だった、だからこそ佐藤のいるこの場で問いかけをしてきた女は蛮勇とも言えた。
ポーン、とエレベーターが到着する。中から降りてくる人混みを避け、乗り込もうとする直前、佐藤が「あ」と声をあげてその中に水瀬がいることに気がついた。女も気がついたのだろう、ハッとしたように水瀬を凝視している。それらの視線とエレベーターホールに漂う空気に気がついたのか、首を傾げながら歩調を緩めた水瀬がそれでも律儀に全員に向けて会釈をする。なんとも気の抜ける態度に松田は思わず笑った。眉間に深く刻まれていた皺がほんのりとだけ薄くなる。
「珍しいな、こんな時間に昼か?」
「郵便を出しに」
白衣を着たままだったので違うと思いながらも問いかけた松田に、水瀬は胸に抱えていたA4サイズの薄めの段ボール箱を見せる。隣のビル、警察庁の一階フロアに郵便局が入っているのでそこまで散歩がてら行くのだという。聞いたくせにふーんなんてどうでも良さそうに返す松田の態度に佐藤は呆れて絶句した。
佐藤も例の爆弾事件時、爆弾と共にゴンドラに乗せられていた水瀬のことについては認知している。その際松田に「目の前の人命を見捨てるのか」と問われたことを切っ掛けに、一方的に気まずく思っていた。そんなつもりなど毛頭なかったとしても、佐藤はあの時確かに人質という存在が頭から抜け、松田の命を選んでいた。誰に責められることなく、強いていうならば松田に一度指摘されただけ。それでも佐藤にとっては恥ずべきことで猛省することでもあった。
改めて佐藤から見た水瀬は華奢で、落ち着いた雰囲気を放つ警官らしくない人物に見えた。それは女もそうだったのだろう、ジロジロと水瀬を見ている。しかし佐藤が何度も言っていたように勤務時間中、立ち止まって歓談をする場所でもない。水瀬は「では」と笑顔を見せて外へと向かっていく。エレベーターに乗り込んだ3名は自然と無言になった。女ってなんでこうも面倒なのだろうかと松田は佐藤、そして名もしれない女の内心をうっすらと察してしまい舌打ちをこぼす。刑事課は緊急で外に出ることがあるため下側のフロアにあり、佐藤と松田が先に降りる。何か言いたげなまま松田を見送る女の目を見た佐藤は、最後にため息をこぼしてなぜこんな柄の悪いサングラス男がモテるのだろうと松田を一瞥する。
「あいつ、察庁でも仕事あるんだな」
「え?」
「見えなかったのか、持ってた段ボール」
水瀬の持っていた段ボールは封がされていなかった。大きさはちょうど仕事時に使用しているバインダーが入る程度。宛名なども記載されておらず、送付状も貼られていなかったと松田は指摘する。松田の推察は半分当たっており、水瀬は警察庁側から正式に依頼されて公安刑事のバインダーに挟んでカルテを持ち出し、届けにいくところであった。松田は面談まで足を運んで行っていると思っていたが、水瀬が警察庁の人間で担当しているのは降谷のみで、足を運んでいるのは降谷の方だ。当たらずも遠からず、もう少し情報さえあれば松田は全て正しく推理してみせただろう。
「郵便局に行ってから封をして、宛名を書くのかもよ?」
「D課のフロアに品管部あんだろ、送状なんてすぐ手に入る」
考えられなくはないが、だからってイコール察庁に仕事となるだろうか。佐藤は首を傾げる。
「そもそも今この時間に出しに行っても集荷は明日だろうが、それに捜一への事情聴取に来るときにも脱いでた白衣をあえて着て外に出てるんだ、精神科医として行ったんだろ」
「なるほどね」
同期の宮本からも水瀬の話を聞いていた佐藤は、警察庁へ呼ばれるほどに優秀なのだろうと素直に感嘆する。宮本にも水瀬の精神科医としての腕の良さは聞いていたが、歳下の後輩、そして被害者というフィルターがかかっていた佐藤はその認識に新たに優秀という言葉を貼り直す。
佐藤は松田を眺めた。そして噂もバカにできないのかもと安直に思う。松田の推理力や観察眼がいいというのもあるが、それにしたって水瀬のことをよく見ていると感じたのだ。松田の人間性は嫌というほど痛感している佐藤である、この男が他部署の人間の顔と名前を一致させていることだけでも奇跡なのだ。そのうえ、業務内容以外で呼び止めてまで話すなど。佐藤が知っている中では萩原ぐらいだ。まだ相棒となって日は短いが、松田の沸点は心得ている佐藤はそれら口にはしなかったが、無意識かしらと少しだけ心配になった。
投稿日:2022/0718
更新日:2022/0718