チェンジング
甘田と名乗った男に嫌な感覚を覚えたのはすぐだった。組織の裏でよく接することのある類の、会話が困難なタイプの人間特有の抑揚が声にあった。目視し直接対話をしたわけではないのではっきりとは言い難いが、降谷の中に嫌悪が募ったのは確かだ。なぜ、そんな人間が警視庁にいるのか。対応している水瀬の声にも、降谷が記憶している限り初めて苛立ちが感じられたほどでむしろ降谷からすれば水瀬はよく対応し切ったと思ったくらいだ。だからこそ2人が部屋の前から離れてすぐ、音だけでも聞こえるよう個室の扉を開けて様子を伺った。面談を行っている個室から執務室は近い位置にあるため会話程度であれば聞こえるだろうと思ったのだ。案の定、嫌に声の大きいカンダという刑事の声は途切れ途切れであるが聞き取れた。しかし、遅くないか。内線を貸し、ケア係に連絡するだけのはず。降谷も警視庁のケア係が迅速さで有名なのは知っているため、大きな山があったわけでもないケア係が対応できないなんてこと万が一にもないだろうと理解していた。水瀬が頭からかけた毛布を改めて体に巻き付け、顔が見えないように注意しながら廊下へと出る。水瀬の様子を見て降谷の面談を放棄してまでケアに向かうなどあり得ないだろうと思いながらも、チリチリと鳥肌が立つような悪寒が背筋を撫で続けており、降谷の足を急かすように進める。そうだ、これで水瀬も不在ならばそのまま帰ってしまおう。面談を放棄したのは水瀬だ、文句はないはずだ。
「Strip。ほら脱いで、そんでPresentして」
執務室の中に人の気配を感じ、壁に背を預けて中を覗こうとしたときに聞こえてきた言葉に降谷は固まった。一瞬脳が理解することを拒否し、言葉の意味を理解するまでラグが生じる。己の属する組織の内部で聞こえたことを受け入れられなかった。それくらいに衝撃的な言葉だったのだ。
Domが出すコマンドの中に性的なものがあることは降谷も知識で知っていた。何なら組織のバーボンの仕事で何度か出したことがあるくらいだ、一般的なプレイのみで満足するDomよりは詳しい。Strip、文字通り自ら衣服を脱げというコマンド。慣れているSubは見せつけるように、蠱惑的に衣服を脱ぎ散らかしていくが大抵のSubはガタガタと震えながら、時には泣きながら服を脱いでいく。そしてPresent。こちらは流石のバーボンでも使ったことのないコマンドで、一般人にはまず知られていないものだ。性器を自ら見せろ――まず持って警察官が職場で出していいコマンドではない。
専門医である水瀬ならどちらの意味も知っているだろう、そう思うと降谷はブワリと、腹の底から嫌悪と吐き気が混ざったような酷いものを撒き散らしたくなった。甘田はベラベラと欲のへばりついたうっとりとした声で首輪やら泣き顔がいいやらと語っている。まるで嫌悪しか湧いてこない、悍ましい男の欲が煮詰まった声。ねっとりとしたその声がベタベタと降谷の鼓膜を汚していく。そして甘田は言ってはならないことを言った。
「ね、こういうことしたくてケアを仕事にしたんでしょ?」
ブッツン。何かが切れる音が耳元でしたと思ったら、降谷は執務室に乱入し、水瀬への乗り掛かり唇へと舌を伸ばしていた甘田を殴り飛ばしていた。脳を揺さぶるよう、顎を狙ったのがうまく入ったのか一発でのびた男は降谷を視界に捉えることも叶わず派手な音を立てて床へ転がった。
ゼーゼーと水瀬の呼吸音が静かな部屋に響く。服が乱れ、首元を抑えているのを見て降谷はどうしてか声をかけるのをためらった。周囲を確認し、警戒したままの水瀬。ああそうかと降谷は思い至る。水瀬は助けを呼ばなかったのだ。ああしてマウントを取られる前に、逃げられる場面はきっとあったはずだ。すぐ近くには降谷のいる部屋もあった、にも関わらず大声すら上げずに1人でどうにかしようとした。降谷は己にかけられた毛布を取り払い、水瀬へとかける。乱れた服を降谷が見ていたくなかったからだ。迅速に、すぐに降谷の身分を思ってひた隠しにしようとした水瀬の行動こそ、精神科医として誇りを持っての行動だったのだろうと痛感する。慌てたように腕を振り回す水瀬に、咄嗟に動きを止めるために掴んで声をかけたのを後悔した。降谷が声をかけた途端、水瀬の震えが止まったのだ。
「すみません、お手数おかけしました」
「……怪我は」
「大丈夫です、助けていただきありがとうございます」
襲われた直後とは思えない、穏やかな声。降谷に助けられた安堵ではないというのを降谷が一番わかっていた。水瀬にとって今、弱みを見せられない相手なのだ。前回の苛立ちを掻き立てられた面談後の数値改善、そして初回の面談時の会話。多くを思い出しながら降谷は痛ましく思ってしまった。ここまで繕える水瀬が、前回ああ言った対応を取らざるを得なかったのだと、今だからこそわかる。あれを言わせてしまったのは、降谷だった。そして今気丈な態度を取らせているのも降谷がいるからだ。
――別に私が支えたいとか、ケアできたらとかそんなことは思わなかったんですけど……事件や事故に関わることが当たり前の警察の日常って、民間人からすれば非日常でしかないのが、こう……ダイナミクスがおかしくなるなんて当たり前というか、それが前提なのが嫌だった……うーん、改めて言葉にすると難しいですね
降谷は激情を飲み下すように喉を上下させる、胃液が逆流し食道を焼き切るような猛烈な不快感を穏やかな呼吸で押すことに一時神経を費やすほど、その激情は降谷の内から這い出ようとするものだった。何度か面談をして水瀬が健気な、実直すぎるほどの警官だと知っていたつもりだった。こんな場面になっても、警察の日常を守りたいのだと朗らかに言っていた後輩一人慰められない己の無力さを、降谷は痛感していた。爆弾事件の時でもそうだ、水瀬は結局一言も降谷に泣き言ひとつ言わなかった。水瀬にとって降谷がよりかかる相手ではないからだ。弱音でも、八つ当たりでも。それをぶつける相手になれたらと水瀬は語っていた。まさに降谷のしたことは八つ当たりだ。誰にもぶつけることのできなかった怒りや悲しみ、憎悪をぶちまけたのを降谷はここで初めて自覚した。水瀬はどこまでも頑なに精神科医だった。ただそれを今もなお貫いている。
「……大切な面談時間を、すみません……生安課に連絡して、対応してもらいます」
「いや、うちで処理する……悪いが、内々で」
「……それはいいですけど」
「部下を1人呼ぶ、いいか」
さまざまな感情を押し込んで降谷はスマホを操作する。水瀬の反応を待たず、風見へとメールを入れる。実際警察内部での強姦未遂事件となると、外聞が悪いのもあるが、このまま表沙汰になればD課の夜間面談自体なくなる可能性が非常に高い。自分が襲われたせいで面談ができなくなったと、間違いなく水瀬なら考える。攫われなければよかったと悔しそうにこぼしていた水瀬を知っているからこそ、降谷はそう判断できた。そうなった時の水瀬を思えば公安で秘密裏に処理をした方がいいと思えたのだ。この報告を聞いた警察庁の上層がどういう対応を取るのかは不明だが、警視庁の公安としても水瀬が夜間面談ができないとなると相当の痛手だろう。近場のデスクに体を寄せながらよろりと立ち上がった水瀬が毛布を寄せながら降谷へ声を書ける。
「あの、甘田さんが警察庁にいる友人にこの件を揉み消してもらうと」
「そんなこと言っていたのか」
「はい」
「他には?」
「特には……ただ、もしかしたら薬の乱用が原因での興奮状態だったのかも、と」
警察庁の名称が出て降谷も顔を顰めた。そんなことが許されるはずも、罷り通るはずもないのだが水瀬は気にかかっていた。万が一にも圧力がかかったとして降谷に迷惑がかかるのは避けたい。そのため公安で案件を預かってもらえるのであれば監視カメラの証拠についてもうまく扱えるだろうと水瀬は考えていた。しかし、公安にまで圧力をかけられるような人物だとしたら。水瀬は降谷にかけられた毛布の中で衣服を整えながら顔を暗くする。
降谷は水瀬の口から漏れた薬の乱用という言葉で、面談室で感じた嫌悪感を再び思い出していた。なるほど組織の中でも薬物中毒者と話すときの感覚に似ていたのだと記憶と合致させる。精神興奮剤の一種だろうか、その類の薬の種類は多様だ。もし水瀬の予想があっていたとしたら甘田は強姦未遂に留まらず罪状を連ねることとなるだろう。警察としてあるまじきことだ。
床に座りっぱなしの水瀬に「立てるか」と問いかけながら手を差し伸べられない距離を降谷は呪った。この距離を取らせたのは降谷だ。どうしようもないと割り切るには、これまでケアの際に信頼を寄せてくれていた水瀬を思い出してしまって難しい。潜入先の犯罪者でも、民間の一般人でもない。水瀬は間違いなく降谷を思いやり必要のない罵倒さえ受け止めた後輩なのだ。
投稿日:2022/0723
更新日:2022/0723