チェンジング

 1人で立ち上がった水瀬は降谷にかけられた毛布を畳みながら倒れたままの甘田を見下ろした。残念ながら刑事部ではないためD課に手錠などは常備していない。完全に伸びてはいるもののこのまま放置でいいのだろうかと水瀬は脳裏に不安をよぎらせた。
「失礼します」
 降谷と水瀬の間に沈黙が降りてしばらくして、第三者の声が執務室に響く。よく通る声に振り返った水瀬は降谷の後に面談予定だった風見の姿を見てギョッと驚く。
「怪我は」
「平気です」
「……一応見せろ」
 驚いた表情のまま返答をする水瀬に怪訝な顔を向けた風見が水瀬の首元を覗き込む。降谷からの連絡で首を絞められていたことを知っていたからこその行動だった。降谷の予想通り、そこにはしっかりと甘田の手の痕と抵抗の際に付いたのだろう爪の引っかき傷が残っていた。思っていた以上の状態に風見は沈黙する。水瀬を見ても風見がきたことに驚いた顔をしているのみ。逆に言えばそれしか感情が読み取れない。風見にとって水瀬は腹の探り合いをせずに話せる貴重な存在だった。同じ班の同僚や後輩ももちろん大切で、裏なく話す存在ではあるのだが風見にとっては部下や後輩。上に立つものとして隙を見せることはできないという矜持もあり、気が抜けるかと言われれば別だった。だからこそそれが許せる水瀬という存在は貴重であり、風見にとっては有事の際には庇護すべき弱いもの――括りとしては民間人と近い立ち位置に水瀬はいた。そんな存在が害され、しかし平然している。降谷の手前表には出さなかったが風見も相当混乱していた。
「風見、生安課の甘田智巡査部長だ……こいつの上司には体調不良で帰宅させたとでも伝えておけ」
「了解しました」
 風見から受け取った手錠を倒れる甘田にかけ、制服の中から警察手帳を取り出して確認していた降谷は振り返ることもせずに指示を出す。降谷と水瀬が面談の回数を重ねているという情報から仲は良好だと風見は判断していた。降谷から連絡が来て、怪我の状態を見てやれと指示があった違和感がここで強くなる。あの降谷が被害者の女性に近寄らないどころか顔すら見ようとしていない。不仲?誰にでも愛想のいい水瀬が?降谷の知らぬところであるが警視庁公安部の中で水瀬は時折話題に上がる。何せ殆ど全員面談の担当を持ってもらっているのだ、共通の話題として上がることが多いのだ。そもそも降谷の担当を続けられているというだけで快挙なのだ。そんな困惑の中、水瀬がぽつりと声を漏らす。
「風見さんの上司が、降谷さん……?」
「ああ、そうだが……すまないが極秘情報だ、誰にも」
「それは勿論です……あの、少し席を外してもいいでしょうか」
 不自然な会話の流れだが、先ほど男性に襲われた女性が1人を願うのはおかしくない。一度降谷に目を向けた風見は上司が頷くのを見てフロアからは出ないようにと伝えて承諾する。
「降谷さん」
「どうも最初から彼女が狙いだったようだ、わざわざエントランスからここまで階段上がってきて連れ出そうとしていた。公安の鑑識に血液検査もさせろ、薬物反応が出る可能性がある」
「監視カメラの映像もこちらで押さえます」
「念入りに洗え、表じゃ到底知り得ないコマンドを口にしていた」
 ハッと風見が息を呑む。降谷も苦笑したくなるのを耐えてぐしゃりと前髪を握りつぶす。もっと早くに異変に気がつき飛び込むべきだった。間違いなく降谷の足を鈍らせたのは、前回の面談が原因だ。私情を持ち出して水瀬に傷を負わせた。手遅れだったのか間に合ったのか、それすら降谷はわかっていない。だが今水瀬へ問うても間違いなく降谷を気遣う言葉しか出ないだろうことは確信していた。
「あの……」
 心許ない水瀬の呼びかけが入り口からかけられる。振り返ったのは風見のみ。意を決して水瀬は口を開いた。
「お二人にお願いがあります」
「なんでしょう」
「一度、面談室に来ていただけますか……?」
 不安げな様子の水瀬に風見は意図を測りかねる。面談室はその作り上、防音設計となっている。その上執務室以上に狭く密室空間だ。先ほど襲われた被害者が口にするには軽率な発言に風見も降谷も顔を顰める。水瀬は監視カメラの位置からギリギリ映らない場所で、白衣のポケットから機械を取り出す。
「ここでは落ち着かなくて」
 盗聴器の探索器。内密に何かを話したいのだという水瀬に風見は頷く。やっと振り返った降谷も水瀬が手に持つものを見て顔色を変えた。甘田を放置するのは些か不安だったが、回収するにも降谷がいなくなってからではないと叶わない。降谷は手早く甘田を拘束し、簡単に逃走ができないようがっちりと固定する。
 水瀬の提案に従う素振りを見せた2人を水瀬が先導していく。風見や降谷よりずっと低い位置にある水瀬の頭部を眺めた。体も薄く、民間人よりは多少鍛えられているもののそれでも刑事部や公安の刑事よりは華奢だ。普段現場に出るような部署でもないのだから震えて怯えたっておかしくはない。その様子が見られず普段通りに歩く背中がこんなにも不安になるものなのかと、降谷と風見は同じような感想を抱いた。
 面談室に入った水瀬はすかさず探索器を起動させる。険しい顔をして風見や降谷の周辺をくまなく確認する水瀬に風見と降谷の疑問が増えていく。一通り確認を終えた水瀬はやっと肩の力を抜いて、2人を簡易ベッドに座るよう勧めた。降谷も風見も、自分と水瀬以外がこの空間にいることにひどく違和感を覚えたが勧められるままに腰を下ろす。甘田についての処理を早く勧めたい気持ちがあったが、それ以上に精神状態が危ういであろう水瀬を無視することをしたくなかったのだ。
「突然申し訳ありません、どうしても耳がない場所じゃないとダメで」
「いやいいんだが……先に治療を」
「大丈夫です、後で消毒します」
「だめだ、風見」
 いつの間に執務室から持ってきたのか、降谷は救急セットを風見へと渡し水瀬に椅子に座るよう指示する。一度口を開いた水瀬だが、降谷の様子を一瞥して大人しく椅子へと座り首元が見えるよう髪や服を避けた。無防備に首を晒してくる後輩にさっき襲われたんだよなと風見は若干呆れを覚えながらも消毒液を手にする。脱脂綿に染み込ませた消毒液の匂いと水瀬の着ている白衣によって、一瞬降谷は過去がフラッシュバックするような感覚を覚えたが振り払うように頭を振った。
「首を絞められた以外に何かされたか」
「いえ」
 間髪入れずに否定の言葉をいう水瀬に風見は目を細めた。わかりやすい嘘だ。元々水瀬という女は嘘がそこまで上手いわけではない。本当のことを言わない、もしくは正直にいえないとまっすぐ言葉を選ぶことの方が多い。
「髪が乱れている、引っ張られたか上から押さえ込まれただろう」
 降谷が低い声で指摘した。
「あとはGlareをぶつけられ、コマンドもぶつけられていた」
 水瀬は観念したように「はい」と小さくつぶやいた。
「でも怪我をしたのは首だけで、他は本当に何もありません」
「Glareをぶつけられたっていうのは何にもないとは言わないだろう」
 ガーゼを首に貼り付けながら風見が水瀬を睨んだ。聞く限りでは間違いなく犯罪の域に達していただろう甘田の行動、それを受けてなんともないと言い切る水瀬のメンタルはやはり普通ではない。そうでなければ曲者ばかりの公安刑事をまとめて担当など到底不可能だ。精神科医とは皆こうなのだろうかと風見は咎めるように水瀬の首を見つめる。時間が経過するごとに浅黒い痣がくっきりと浮かび上がってきていた。
「ケアは受けなくて平気なのか」
「平気ですよ、数値測りますか?」
 淡々と変えされてしまって風見も思わず閉口してしまった。何せ本当に普段通り、普通なのだ。ぐるりと首を回すように包帯をゆるく巻いていきながらこれだけ近寄っても怖がる素振りを微塵も見せないことに安堵するべきなのに、風見も降谷もやはり顔を顰めそうになる。風見の手の甲の時折くすぐるように髪が触れる。巻き込まないよう避けながら風見はテープで包帯の端を止めた。
「ありがとうございます、風見さん器用ですね」
 綺麗に巻かれた首の包帯をするりと撫でながら水瀬が頭を下げる。ハサミや包帯などを仕舞い込みながら風見は「それで?」と話を振った。
「甘田が警察庁と繋がりがあるという件か」
 降谷の発言に風見がギョッとする。しかし水瀬はふるふると首を振った。
「最初は、風見さんにだけ今日お話しするつもりだったんです、けど」
 風見に話。そこで先ほど水瀬が風見の上司が降谷であるのかという問いを思い出し、なるほど急遽降谷にも話を通したいことがあったのかと納得する。しかしわざわざ公安の2人、それも風見を名指しでとはどういう案件なのかと降谷の目が鋭くなる。仕事に対するスイッチが入ったのだ。
 水瀬が下唇を一度噛んだ。緊張を見せる水瀬に風見もごくりとのどを鳴らす。ぎゅっと手を握りしめた水瀬が重たい口をやっと開いた。
「公安の……この方を保護しています」
 そう言ってスマホの画面を2人へ向ける。新規メール画面、一文だけの簡易なもの。宛先もブランクのためメモのように一時的に使用したのだろう。口にすら出さない用心深さに降谷はすかさず画面に目を走らせた。そして驚愕に目を見開く。
――諸伏景光刑事
 ずっと降谷の、そして風見の心に張り付いていた名前。何度もその名前を見た、連絡が取れなくなって足取りを探すべく様々な方法で探していた男の名前。水瀬はなんと言った。
「保護……?」
「はい」
「あいつを?」
「……はい」
 風見の呆然とした声が部屋に落ちる。亡霊でも目撃したかのように生気の抜けた顔は、まだ言葉を飲み込めていないのだろうことがありありとうかがえて水瀬は言葉を止める。
「生きて」
 震え始めていた降谷の唇の隙間から音が漏れた。
「生きているのか」
 信じられない、信じたい。希望と絶望が混在した声に水瀬は喉に熱いものを流し込まれたような感覚を覚えた。
「はい」
 はっきり、降谷の目を見て頷く。風見が顔を覆って項垂れた。肩が震えている。呼吸に嗚咽が混ざり始めたのを見て、水瀬は諸伏が風見ならば生存を伝えても大丈夫だと信じた理由を理解した。こんな表情をさせる関係性を築いていた2人をこのまま放置するのは精神科医としても見過ごせなかった水瀬は口を開く。
「できれば……この後お二人に家まで送っていただきたいんです。もし私が信じられないようであれば、なんでもします。拘束してもいいです、なのでどうか」
 会ってあげてください。

 - return - 

投稿日:2022/0725
  更新日:2022/0725