チェンジング
エントランスを水瀬の鍵で開け、個室前について扉を1回、2回、1回のリズムでノックする。ごくりと喉を鳴らした風見が扉の正面に立ち、降谷は死角で銃を構える。ベルモットの変装術や、何らかの理由で水瀬が騙されている、もしくは脅されている可能性も捨てなかったための対策だった。公安の2人は今更水瀬自体が悪意を持って風見と降谷をおびき寄せているとは思えなかったため、その警戒はほとんどせずに中にいるであろう人物へと集中をむける。カチャリと鍵が空き、チェーンが外れる音が扉越しに聞こえる。扉が開く様子がないため、風見が一度降谷に視線を向けてからノブに手をかける。淡いオレンジ色の照明、そこに影が伸びている。玄関が開いても外から見えない位置にその男は立っていた。真っ先に目に入る位置にいた風見は目を見開いて、そして一歩部屋へと押し入る。
「……すみません、風見さん」
「…………」
「教えてくれた定食屋行きたくて、死にきれませんでした」
風見と諸伏本人しか知り得ない内容に、グッと風見の顔が歪む。無言のままの風見は諸伏の顔に手を伸ばし、力の限りその頬を引っ張った。ぐい、薄い諸伏の頬が引っ張られ唇がビッと横に伸びた。つり目である諸伏の瞳がへにゃりと力なく垂れ、薄い唇が情けなく震える。
「……変装じゃないれす」
「馬鹿者が……!」
耐えきれないとばかりに風見は諸伏を抱き寄せた。厳格でどちらかというと感情の起伏が乏しい風見のそんな様子に諸伏も目に涙を溜める。厳しくも優しい先輩であることを諸伏が一番よく理解していた。だが、ここまで心配をかけ生きていることを喜ばれるとは思っていなかったのだ。
中の声が聞こえた降谷は、水瀬に促されるままフラフラと扉を開ける。銃口を下げたまま踏み入れた先で、部下に頭をもみくちゃに撫でられて半泣きになっている幼馴染を見て、はくと呼吸がおかしくなる。諸伏の鼻が赤い。泣くとすぐに赤くなる鼻は幼い頃から変わらない。警察になってから一度も見ていなかった特徴を見て、アイスグレーの特徴的な色の目が降谷を捉えて。「悪かった」とだけ口にした諸伏に降谷は部下越しに両手を伸ばした。縋り付くような手のひらだった。諸伏はどれだけこの幼馴染に負担をかけてしまったのかを理解したまらなくなってくしゃりと顔を歪めた。痛みすら感じる程に強く掴まれた腕を、諸伏も応えるように掴み返した。
「ヒロ」
「うん」
「よか……」
涙こそ溢れていなかったが降谷も言葉にならなかったのだろう、ガタガタに震えた声に込められた感情に風見の方が当てられて泣いていた。降谷と諸伏が幼馴染だと知る風見だからこそ、その辛さを表に出さない年下の上司を風見もずっと心配していた。そっと一歩引いて、降谷が右手にしっかりと銃を握りしめているのを見つけた時には流石だなと風見は思わず笑ってしまったが。
玄関先で感動の再会を果たす3人を横目にそっと玄関を閉じた水瀬は静かにその光景を眺めていた。ああよかったと安堵の笑みを浮かべる水瀬に気がついたのは諸伏で、その視線に気がついてたまらなくなってボロ、と耐えていた涙が一粒だけ落ちた。
水瀬は公安刑事3人を眺めながら改めて、結局のところ心の傷をどうにかできるのはその人に寄り添って時間を共にした誰かなんだよな、と思っていた。精神科医として水瀬は優秀だ。しかしそれでも精神科医が誰かを救えるとは本気で思っていない。だからこそ気を許せる存在は大切であるし、ダイナミクスの安定面でも全てを明け渡せるパートナーさえいればケアなど一生関わらないことだって可能だ。マインドコントロールはあくまでそれらを望めない時の代用でしかない。不思議なことに人が心に傷を負うのは他者のせいであるが、癒すのもまた他者であることがほとんどなのだ。そっと玄関の扉に寄りかかって、水瀬が一生かけてもできないだろう治療を眺める。3者全員が水瀬の面談者であるが、やはり水瀬はあんな表情を見たことがなかった。だからこそ、よかったなと思う。水瀬が瞳にたたえるのは羨望に似たなにかだった。
肩を叩きあい、背中を摩りあい、心の底からの安堵の笑顔。できる限り存在を消して眺めていた水瀬にふと降谷の視線が交わる。そっと諸伏から離れた降谷は握りっぱなしだった銃をジャケットの中にしまいながら水瀬へと頭を下げた。
「ありがとう」
堪えるものがあるような苦しげな声だった。水瀬はこうしてこの人は押し込めてしまうんだろうと察しながら静かに声を返す。
「……いえ」
「本当に、ありがとう」
「私からもありがとうございます」
ズビ、と風見から隠しきれない涙の音がした。実際水瀬は何もできなかった。だからそこまで丁寧な態度を取られてしまうと居た堪れない。それも3人揃って歳上、公安のエリートである。とんでもないとばかりに胸の前で手を振る水瀬は降谷の悲しげに細められた瞳に気がつかなかった。
投稿日:2022/0726
更新日:2022/0726