チェンジング
幼馴染と先輩にもみくちゃにされながらも生きていることにこれでもかと安堵され、喜ばれた諸伏はその直後水瀬の家のリビングで正座させられていた。その正面には降谷と風見。両者はソファに座って諸伏を見下ろしていた。「まず俺に一報入れるべきだったろう」
「あの、それはさっきも言ったけど……」
「入れるべきだったろう」
「公安への連絡がつかなかったというのはわかるが、俺個人の番号なら覚えていただろ諸伏、そっちに連絡を入れる発想がなぜなかった」
「誰が聞いてるかわかんないかなぁと」
刺々しい言葉を風見と降谷に交互にぶつけられて諸伏はしゅんと体を小さくした。一番背の高い諸伏が小さくなっている様は側から見ていると異様であったが水瀬は静かにパソコンデスクの前にあるチェアに腰掛けてる。何度か席を外すか、外出していようかと提案した水瀬だったが即座に却下が降ったため置物のように静かに息をしているのである。
「まあヒロが不信感を抱いた結果の打開策だったというのは理解できた」
ガシガシと乱雑に頭を掻き乱しながら降谷が諦めたようにソファの背もたれに背中を預ける。30分ほど続いた説教がやっと途切れたことに諸伏は心底安堵の表情を見せたがギンと降谷に睨まれたせいで即座に謝罪を述べた。
「いや……だがやはりそうか」
「ホットラインは私も確認していましたが連絡は……」
「おそらくあの日だけ、諸伏の番号からは拒否するような設定になっていたんだろう」
これは聞いていていい話なのだろうかと水瀬はチェアの上で膝を抱えた。聞き慣れない単語や明らかに業務の内容である話を聞くのは落ち着かない。面談室ではないから尚更だった。説教が終わったことを感じ取った諸伏が、胡座の形に足を変える。ゆったりとした動作を良く見せる諸伏は猫のようだと水瀬は良く思っていた。
「水瀬さん」
諸伏に呼ばれた水瀬が跳ねるように顔を持ち上げた。その様子に苦笑した諸伏はこいこい、と手招きして水瀬を呼ぶ。戸惑いながらもチェアから立ち上がった水瀬はそろそろと諸伏へと近寄り、手を引かれたために諸伏の横へと腰を下ろした。諸伏が少し横にズレたため、水瀬の正面は降谷である。
「こっからはもう当事者として聞きたいんだ」
「諸伏それは」
「もう巻き込んでしまいました」
そう、もう十分水瀬も巻き込まれている。水瀬の家の中で諸伏は考えることしかできなかった。水瀬を巻き込まないためにどうしたらいいかと頭を回した。しかしすでに水瀬自身がどうしようもないほど渦中にいるのだ、下手に遠ざけようとして手遅れになるよりは、手綱を握ってやっていた方がいいという結論に至ったのは最近だ。だからこそ水瀬を通じて連絡をとる決断ができた。
「聞きたいんだけど、あの日俺に連絡をくれたのは偶然?」
右手を握られたまま水瀬は諸伏を見上げる。トクトクとか弱く脈打つ手首の血管に諸伏は目を細めて命の恩人を見つめる。その目に咎めようという色は一切ない。純粋な疑問に水瀬は静かに首を横に振った。
「それってここで話せる?」
「……話せません」
「やっぱりか」
ある程度予想のついていた諸伏と違い、降谷と風見は疑問と驚愕の目で水瀬を見やる。諸伏が助けられた経緯を知らない2人にとって諸伏の問いかけは青天の霹靂のようなものだった。疑問を浮かべる2人を見上げて諸伏は心得たとばかりに口を開いた。
「あの日俺面談日で……俺が行かなかったからって初めてメールをくれたんだよ水瀬さん」
「メール?」
潜入捜査官である諸伏へのメール。メールアドレスを交換していたことがまず驚きだった風見は諸伏と水瀬を交互に見やる。諸伏はいやいやと首を振って「そういう関係ではないです」と無言のまま伝えた。水瀬が諸伏のメールアドレスを知ったのは面談室で料理の話題をしていたときだ。珍しく水瀬の方から諸伏に出来栄えをどうしても見てほしいと、写真を送るからと言ってアドレスの交換を頼み込んだ。
「思えばアドレス交換する時も不自然だったもんな、何か知ってた?」
諸伏の問いかけにそれでも水瀬は「答えられません」と静かに告げる。諸伏は確信をつくように口を開いた。
「申請書を出せば、話せる?」
風見と降谷の目が驚きで見開かれた。なるほど、公安の面談を全て担っていると過言してもいい水瀬だ。それだけ接点がある中で不審な空気を感じ取ってもおかしくはない。そしてD課は潔癖なまでに面談時の内容を外部へ他言しない。他言できるのは担当医師へ開示申請書を発行したときのみ。水瀬は静かに、しかし重々しく頷いて顔を下げた。諸伏は握っていた手をさするように反対の手をあてがう。
「ずっと黙ってるの辛かったろ」
同僚が犯罪を犯しているかもしれない。そんな何かを聞いてしまって、けれど精神科医として他者へそれを相談することができない。水瀬の今日までの葛藤とそして医者としての矜持を守り切った気概に風見は呼吸を忘れかけた。簡単に推測できる、水瀬は諸伏を陥れる何かを知ってしまい1人で抱えていた。誰にも相談できずに必死に足掻いて、その結果諸伏の命を救うに至った。あまりの事実に風見は頭を抱えた。どちらが正しいのか、判断するまでの情報もないままにそれでも諸伏に手を伸ばした。警視庁で簡単に治療した首元を思い出して、風見は余計に息苦しくなる。うっかりすると歳下の後輩の懸命さに涙が出そうだった。
降谷も、水瀬が人知れず公安の不祥事に巻き込まれていたことに絶句する。それでも弱音ひとつこぼすことなく、諸伏を命懸けで助けて匿った。改めて、自分の足元に座り込む水瀬を見下ろして降谷は震えた。させたことがないKneelに近い座り方。降谷の方を見ない項垂れた頭部を見てはっきりと降谷は後悔した。水瀬に対して、しでかしてしまったことを思い出して血の気が引いていく。震える唇を噛み締めて、降谷は声を出した。
「風見、至急申請書の手配を」
「……わかりました」
「ヒロ、お前はこの後こっちで用意する部屋に移動だ、最速で用意を」
「あ、それなんだけど」
ひょいと手を挙げた諸伏が降谷の言葉を遮る。
「これから水瀬さんって多分狙われるだろ?でも公安で守るにも誰が信用できないかわからない」
「……お前まさか」
流れが読めた降谷の顔が険しくなる。
「嫌じゃなければ俺がこのまま居残りってのが一番かなと」
どう?を首を傾げて水瀬へと問いかけてくる諸伏を見て水瀬はキョトンとしてしまう。面談時、そして水瀬の家へと匿ってからの不安定な状態の諸伏しか知らなかった水瀬は普段はこんな雰囲気なのかとマジマジと諸伏を眺めてしまう。
「嫌?」
答えがなかった水瀬に諸伏は一瞬でまずいと顔を顰めた。
「大丈夫です、けど……窮屈じゃありませんか?諸伏さんがストレスになるようなら」
「それはない、ないから大丈夫」
何より水瀬の食育を中途半端で終わらせたくない、なんて冗談まじりで笑う諸伏に降谷の眼光が突き刺さる。降谷も諸伏の言い分はわかる。諸伏1人を別のところへ移動させたとしても、公安で人員を割けない保護対象者が2箇所に分かれるだけだ。それであれば腕も立つ諸伏が水瀬を護衛という形でまだ割れていない水瀬の場所に匿っておくというのも手ではある。水瀬の住むマンションのセキュリティも申し分なく、何よりこのマンションの住人に水瀬以外に警察関係者がいない。管理人のみ公安の息がかかっているがその管理人はここには住んでおらず、管理会社を経由してしか住人と関わることがない。
「何か連絡とか、水瀬さんが運ぶの難しいものがあるなら松田と萩原にうまく頼めばどうにかなるだろうし」
「……おいなんでその2人が出てくる」
「俺がここにいることは知られてないからな!ただあの2人、例の爆弾事件から水瀬さんのこと帰り送ってきてるんだよ。お陰で襲われる可能性減らせたから助かったけど」
水瀬は諸伏に伝えていない刑事の名前が出てギョッとする。諸伏は爆弾事件の影の功労者として松田と萩原からは認知されているため、諸伏に送られてきていたメールの中で水瀬を警護しているのだという内容があったために承知していたのだ。何なら萩原は隠し撮りらしい水瀬が助手席に座っているアングルの写真を送りつけてきたこともある。爆弾事件以降刑事部の者に継続して警護されていることだけは伝えていた水瀬はまさか知り合いのように諸伏と降谷が2人を語るため、絶句して口を閉じている。
「俺もゼロのカバーとか、事務仕事とか回してくれたらやりたいし……そのためには機材とかいるだろ?水瀬さんが運ぶのはちょい目立つけど、関係のない刑事部のあいつらならうまく誤魔化せるだろうし」
「あの2人にお前がここにいることを言うのはリスクがあるだろ」
「言わないよ、あくまで水瀬さんの荷物持ちさせればいいじゃんって話」
それはどうなんだ、と水瀬は顔を顰めそうになった。ただでさえ送ってもらっているだけでも心労が祟っている水瀬である。
「最悪伝えてもいいとは思うけどね、あいつらが鼠って可能性はないんだから公安の誰かに情報与えずに頼むよりよっぽど安パイだろ」
「……考えておく」
じっくり考える時間があった諸伏と、先ほど諸伏が生きていることを知った降谷では結論までには至らない。降谷も下手に報告をできない中身なためどこまで誰に伝えるべきかを再考する必要があった。しかし諸伏は降谷が提案を全て受け入れるだろうことをほとんど確信していた。熟考したときの諸伏の案を降谷が覆したことは過去一度もなかった。
投稿日:2022/0728
更新日:2022/0728