舞台裏の奔走
何が起こったのか、理解が追いつかない状況ではあったものの諸伏は必死に痕跡を消す作業を完遂し、夜の街の中を逃げ惑っていた。どこから漏れたのか、NOCであるということが組織の人間に露見したのだ。唯一残した連絡手段であるスマホで、何度か古巣に連絡はとっているもののコールすらしない。ずっと走り続けているのに背筋だけがゾッとするほど冷えている。風見は今日別件に駆り出されている、直接連絡は取れない。降谷はスコッチを始末するバーボンという状況で追ってきているだろうが周囲に他の組織の人間がいる可能性もあって同様に連絡は不可。肌に刺さるような冷たさを孕んだ空気を吸い込むたびに肺が軋むように悲鳴を上げた。そもそも、風見がいないからといってホットラインに一切連絡がつかないという状況があり得ないのだ。この時ばかりは出来のいい自分の頭が諸伏は嫌になった。
誰にも助けを頼めない。切り捨てられたのだと判断した諸伏はセーフハウスから拳銃を持ってこなかったことを後悔した。組織から支給されていたもののため古巣との関連もつかないものだったのに、失敗したと悪態をつく。なんとかスマホだけでも始末しなければ。どうあっても復元不可能なほどに破壊しなければ、連絡先だけ入れている家族や同僚、友人に危険が及ぶ。もう何年も連絡を取り合うこともしていなかったが、組織のやり方は諸伏が痛いほどよく知っていた。連絡先にある全員殺されてしまう。それだけは必ず避ける。潜入捜査員の身元が割れるということがどういうことか、耳が痛くなるほど言い聞かされてきた。どうしようもない時の対処も、取るべき行動も頭の中でぐるぐると回っている。
その時、スマホがバイブする。慌てて確認すればメールを受信しており、そこには担当の面談医の名前。
『大丈夫でしょうか。次回はいつ頃だとご都合よろしいでしょう』
そうだ、今日は面談の日だったと日付を見て気がつく。もう予約の時間から2時間以上経過していた。もしやこの時間まで待ってくれていたのだろうかと思うとぎゅっと喉元が苦しくなるのを諸伏は感じた。下ろせない荷物を整えたい、味方であると当たり前のように言い切った水瀬。松田と共に死にかけても、民間人を守るためならと一切泣き言を言わなかった警察官。震える指先が迷うように画面に触れる。「大丈夫でしょうか」という文字が嫌に目について諸伏は瞬きを増やした。どうする、どうすればいい。迷う諸伏を嘲笑うかのように気配が背後から迫り身を潜めながら必死に足を進める。人混みに紛れながらもそろそろ限界がある。民間人を巻き込めない、ここから離れ人のいない場所に行くべきだった。またスマホが震える。写真付きのメールの送り主はまた水瀬だ。
『この前教えてくださったレシピで作った夕飯です、失敗しました』
写真に添付されているのは親子丼だろう、火を通し過ぎたのだろう卵が少し硬そうな色で映っていた。簡単な作り方があると伝えたのは少し前だ。それをこうして本当に実践してくれている。水瀬の言葉の中に嘘はないのだと思い知る。失敗しましたの文字に諸伏は笑い、そして気がつけばスマホを操作していた。ほとんど無意識にも近い行動だった。
『あれ!?はい!』
いつも通りの、けれど少し緊張した声。諸伏は途端に情けない気持ちでいっぱいになる。ああ俺は、この人のこともこのままでは殺してしまう。早くスマホを、自分を。そう思うのに呼吸と共に泣き言が漏れる。コール直後に返答されたことにじわじわと諸伏の中で何かが崩れた。冬の空気がツンと諸伏の鼻孔を刺激した。
「ごめんなさい、水瀬さんごめんなさい」
『どうかされました?何か……』
「巻き込みます、ごめんなさい」
『どちらですか迎えに行きます』
通話の向こう側でガタガタと音がする。本当に急いで出かける準備をしているのだろうと音から伝わる。情けない、声が震える。
「ごめんな、ごめん……」
『諸伏さん』
水瀬の声がやや尖った。
『何をすればいいですか、教えてください』
気がつけば震える唇から、今いる場所を吐き出していた。
人の間を縫い、建物で何度も視界を遮り時には店の中へと入り別の出口を使って諸伏は追っての目を欺いた。途中ライらしき人物に見つかりそうになったものの、すぐに本来諸伏が向かおうとしていた廃ビル群のある方向へと足を進めていったため、その観察眼と推理力に諸伏は苦いものを噛んだように顔を顰めることとなった。間違いなく諸伏の行動は読まれていたのだ。そしてそちらの方向に他の幹部、ネームレスの構成員も集まっているだろう。厄介なのは顔を知らない末端の構成員だ。試しに完全に死角になる場所で身を潜めて何者かが覗き込んで来ないか待ち構えたが、どうやら上手く巻けたのかそれらしい人影も諸伏に向けられる視線もない。諸伏がいる場所は通過点であり、すでに廃ビル群の方へ集まるよう指令が出ているのだろう。良くも悪くも現時点では諸伏が留まった場所まで捜索の手は広がっていないことは確からしいと確信する。時間が経過して幹部の誰かがネームレスを統率し始めるといよいよまずい。現時点ではネームレスたちの中でも争うようにしてスコッチを確保しようと動いており、まともな連携が取れていないだろうと諸伏は予想していた。時間の問題ではあるが、あのまま進んでいれば確実に手遅れだったのだと思うとまだ心が休まった。
水瀬は諸伏の指定した場所にすぐさま現れた。12月だというのに汗すらかいて、息を荒げて諸伏の前に膝をつく水瀬は可哀想なほど苦しげだ。
「おま……たせ……ゲホ」
「ご、ごめ」
「本当にごめんね高木くん!!」
諸伏が声をかける前に水瀬が声を張る。両手を合わせてさらにごめんと募り、解けかかったストールを外して諸伏の首にぐるぐると巻き付けはじめた。耳慣れない名前に諸伏は口をすぐに閉じる。
「待ち合わせ、時間間違えちゃって!1時間も遅れるなん、ほん……ごめんね!」
寒かったよね!と今度は腕にかけていた大きめのコートまで肩にかけられ諸伏はやっと頭を回転させる。水瀬は色々と察した上で全力で動いてくれているのだ。うる、と涙腺が緩みそうになるもなけなしのプライドで諸伏は耐えた。本当に泣きたくなるほど、巻かれたストールも一瞬触れた手も暖かくて諸伏は歯を食いしばる他なかった。
「平気、走らせてごめん」
「ううん!それより私の家でいい?」
「……うん」
じゃあ行こう、そう言って腕を引かれる。ピッタリと隣に並び、俯く諸伏を誘導し始めた。小声で「タクシーはまずいですか」と聞かれまだまずいだろうと答える。合流前に追手を巻いており水瀬が上着を貸してくれたことで完全に見失ってくれただろうが、近辺のタクシーや車両は見張られている可能性が高い。
「伊達メガネ持ってきたんですけど、かけますか」
「……貸してもらえるとありがたい」
カバンの中から取り出したケースから眼鏡を渡される。薄く色のついたガラスは悪目立ちすることなく印象を変えることに一役買ってくれそうだった。水瀬の指先が震えていることに気がついて諸伏は誤魔化すようにその肩を抱いた。小さく細い、頼りない肩だったが諸伏は縋るように水瀬の肩を抱き込んだ。
「少し歩こう、買い物してもいいし」
「……ウニクロ行きます?」
チラ、と諸伏を見上げてくる水瀬の目がまだ緊張している。宥めるように抱いた方をさする。汗が張り付いた前髪を見てそっと整えてやった諸伏は「それは今度」と口元をストールに埋めて伝える。
「……マネキンと並んでるところは、ちょっと見たいかもです」
「それも今度」
「何センチ切ることになるのかも確かめてくださいね」
「うん」
何気ない会話が諸伏にとってはありがたかった。ギリギリ、細い糸の上を綱渡りするように歩かされている心地から、やっと地に足がついた気がした。
緊張を孕みながらもなんとか警戒網から十分に離れ、すぐにタクシーを拾う。そのタクシーの行き先も水瀬の家ではなく、まずは近くのコンビニまでとしそこで適当にものを買って、追手がいないことを確認しながら徒歩で水瀬の家に向かった。水瀬が鍵を開け、諸伏を招き入れる。扉を閉めて鍵をかけ、チェーンまでしっかりとかけた扉に背中を預けた水瀬はズルズルとそのまま床に座り込んだ。はぁ、とやり切ったような息を吐き出した水瀬に諸伏は視線を合わせるようにしゃがみ込む。まだ安心はできなかったが、諸伏も水瀬の様子を見るとなんだかホッとしてしまった。
「改めてごめん」
「いいえ、むしろ大根でしたよねごめんなさい」
「いや、連絡をするべきじゃなかった、ましてや家にまで……確実に巻き込むことになる」
「ふふ」
水瀬は諸伏が顔を下げているのを見て徐に笑う。楽しげな声に諸伏も言葉をとめた。眉を下げ、苦しそうな諸伏に水瀬はやっぱり笑った。
「へへ、諸伏さんのこと助けられました?」
「……助かったよ……本当に」
「なら、私が警察になって初めて助けられた人が諸伏さんです」
嬉しいなぁと目を細める水瀬を見て諸伏は一瞬、叫びたくなるような激情の濁流に飲まれそうになった。
投稿日:2022/0801
更新日:2022/0801