舞台裏の奔走
水瀬の家を手配した経緯があったため、諸伏は初めて訪れる場所でありながら既視感を覚えるという妙な感覚に囚われていた。程よいセキュリティーと立地、外観からは想像できない広い間取りの部屋。あまりにセキュリティーが高すぎると後から融通が利かなかったり、返って目立ってしまうことが多いため水瀬が選んだこの場所は諸伏としても一押しの物件だった。作りはシンプルで置いてある家具も水瀬の為人を表すように、シンプルだが温かみのあるものが多い。何者かがここを突き止め襲ってくる可能性もまだ皆無ではないが、念には念を重ねて尾行対策をしたこともあり諸伏の緊張も解れつつあった。「あ」
コートを脱ごうとした水瀬が動きを止める。
「部屋着だったの忘れてました」
振り向いた水瀬のコートの中はスエット。それに諸伏は苦笑しながらも温かい気持ちになる。
「諸伏さんご飯……はダメですよね」
公安の刑事の諸事情を考慮した水瀬はすまなそうに謝罪を告げる。そもそも失敗した親子丼くらいしか出せない現状である。水瀬は自分の考えの浅さに項垂れた。ペットボトルのお茶はある、先ほどコンビニで下着や歯ブラシなどは購入したが着替えはない。足りないものが多すぎると脱ごうとしたコートをそのままに諸伏に向き直る。
「私適当に着替え買ってきますので、よかったらお風呂入っていてください」
水瀬の提案に諸伏はギョッとした。
「だめだ」
「でも」
「許可できない、危ない」
水瀬はすぐに諦めた。プロが言うのだ、危ないのだろう。何か世話を焼こうとしてくれている水瀬に諸伏は耐えきれないように顔を歪めて、手招きしてソファーへ誘導する。スン、と鼻を鳴らす。ここは安全地帯だと理解した諸伏の脳は考えることを放棄し始めていた。極度の緊張と疲労にさらされ続けていた数時間が終わったことで朦朧とし始めているのだ。
「ケアして欲しい」
喉に言葉がつっかえるように不自然な音でその言葉は部屋に落ちた。誰かにこんなことを言うのが初めてだった諸伏は視線を頼りなく床に落としたまま。静寂が一瞬部屋を支配する。常時であれば絶対に言わないような言葉を吐き出したという自覚すら諸伏にはなく、ただ只管溺れそうなほどの沈黙が苦しいと顔を歪めた。
そっと、諸伏の首元に巻いていた水瀬のストールを取り払われる。コートを肩から下ろされて眼鏡を丁寧に外される。自然と諸伏の視線が水瀬へと向いた。
「……嫌だったら、私の名前を呼んでください。下の名前わかりますか?」
「……渚?」
「そうです」
正解、と言うように微笑まれ居心地が悪くなるのを諸伏は拳に力を入れることで誤魔化した。やや伸びていた爪が掌に柔く刺さる。水瀬はソファーに座るかと思いきや、ラグのある床に座って正面にクッションを置いた。そんな様子を見下ろしながら諸伏はぼうっと突っ立ったままだ。頭を働かせるといやな思考に飲まれそうになるからこそ、ある種の現実逃避のような状態だった。
「諸伏さん、Come」
よろ、と重心が傾くように前進する。フラつくように足を左右に動かし、水瀬の正面に立った時には諸伏の息は上がっていた。コマンドに対する拒絶はやはりどうあっても残るのだ。青白い顔で水瀬を見下ろす諸伏の目つきはふらふらと焦点があっていない。
「大丈夫ですか」
「たのむ」
震える声は続きを促す。水瀬は終始穏やかな表情のまま、諸伏の手にそっと撫でるように触れる。一瞬嫌がるように諸伏の肩が浮ついたが、それだけだった。
「ここ、座ってください」
トントン、とクッションを叩かれて諸伏はそこへ腰を落とす。正座をしている水瀬に引き換え諸伏は体育座りのように足を伸ばした。その足を、膝を宥めるように水瀬は摩る。
「お疲れ様です諸伏さん」
「……」
「たくさん走ったんですよね、偉いです」
「……」
「あと、頼ってくれてありがとうございます」
「……」
「ものすごく、ものすごく嬉しかったんですよ」
膝をさする場所から、温度が伝わってくる。諸伏は項垂れた。
「ごめんなんて言わないでくださいね」
「……」
「警察になってから、一番嬉しいくらいのことだったんですから」
「……」
「本当は自慢したいですけど、我慢しますね」
そろ、と諸伏の指先が伸びる。気がついていないふりをして一定の速度で諸伏の膝を撫でていた水瀬の指に、諸伏のそれが絡まった。く、と引かれた手が諸伏の頭部へと導かれる。水瀬は慎重に諸伏の頭をそっと撫でつけた。まだ外の空気が残っているのかほんのりと冷たさがある髪は所々絡まっているが、指通りのいいさらりとした毛質だった。
「親子丼、今日は失敗したんですけど今度は絶対成功させますね」
「……」
「失敗しても美味しかったので、諸伏さんはやっぱりすごいですね」
グッと諸伏が体をずらす。硝煙の匂いが水瀬の鼻に届いたが知らないふりをして反対の手も頭に伸ばす。拒絶はされなかったので指先で糸を解くようにすいていく。
「いつも諸伏さんの面談楽しみなんです、忙しいのに時間をくれてありがとうございます」
「……」
両手を使って確かめるように頭を撫でる。恐る恐る頬へと右手を滑らせた水瀬だが、諸伏は反応を示さない。顔が見えないケアはやりにくい。ケアにおいて表情というファクターは重要な指標でもあるのだ。水瀬は本当に続けて大丈夫だろうかと心配になってくる。しかし顔を見られたくないのかもしれないと思うと無理に上げさせるのも躊躇われ、諸伏の好きなようにさせる。そこにためらいを感じたのだろうか、諸伏の手が頬を撫でていた水瀬の手に重なる。擦り付けるように頬を押し付けられたので、少しの安堵を持って手を動かす。指先にざり、と髭の感触がして水瀬はうっすらと笑った。頬を撫でている手が、諸伏の唇に何度も触れる。その度に唇が開閉していることに気がついた水瀬は少しだけ迷って、かなり弱いながらもコマンドを発した。
「……Lick」
ぱく、と親指の付け根付近を咥えられる。躊躇いなく諸伏の口へと招かれた手に驚くもそれを押し殺した水瀬は反対の手で諸伏の頭を撫でながらいい子、いい子と口ずさむ。甘噛みのように時折歯を立てられるも決してびくつかない。動揺を感じさせないように諸伏に接した。唇で食み、歯で骨や肉の厚みを確認するような動き。一瞬だけ舌先が触れるもすぐに離れていくことから抵抗が感じられた水瀬は頭を撫でることに専念する。何度もグッと歯が食い込んでも声すら上げずにじっと耐えた。
そんな状態がしばらく続いたが突如こて、と音がしそうなほど諸伏は軽い音とともに床に転がった。水瀬は慌てて確認するも、どうやら眠ってしまったらしいと気がつきドッと肩から力を抜いた。どうしようかと思うも諸伏の手は水瀬を手首を掴んだまま。緩い力だ、引っかかっているくらいの手だ、それでも水瀬はその手を離すことはせず、ソファの上に放っておいたコートやストールを諸伏にかけた。テーブルの上に置いていたリモコンで部屋の明かりを落とし、できるだけ諸伏から体を離して水瀬も床に寝転がったのだった。
投稿日:2022/0805
更新日:2022/0805