舞台裏の奔走

 帰宅した水瀬の顔色がゾッとするほど悪かったため、諸伏は一瞬動きを止めて水瀬を凝視する羽目になった。元から色が白い水瀬ではあるが、化粧で誤魔化されないほどに血の気がない。普段よりもチークを濃い目に塗って血色よく見せようとする努力はあるが、諸伏の目は誤魔化されなかった。
「どうした?何かあったか?」
 何があろうと、それこそ爆弾と心中しかけようとすぐに仕事に復帰した水瀬を知っているからこその異常事態に諸伏はギョッとして水瀬へと駆け寄る。手に持っていた郵便物を奪い、肩にかけていた通勤のカバンもそっと降ろさせた。いや、もしかしたら事件直後はこんな様子だったのかもしれないがと諸伏は内心で慌ただしく考える。
「貧血ですかね」
 水瀬の家に居候する形に収まっている諸伏は、1日の夜勤明けだけで水瀬がこんなにも体調を崩すのを見たことがなかった。貧血というが、“その”タイミングでもないことを諸伏は気まずいながら察してしまっていたし即座に嘘であると気がつく。
「今日は刑事部のやつに送ってもらわなかったのか?」
「今日は1人です」
 このタイミングの悪さ、カバンを手にした時に外気の冷たさを感じていた諸伏は舌打ちしたい気分だったがそれを抑えて水瀬を居間へと誘導する。水瀬は夜勤から帰ってくると基本的にすぐにシャワーを浴びて眠ってしまう。水瀬がD課に配属となってから緊急の出動要請はなかったものの、何事にも時間をかけないのは警察学校を出てすぐの新人らしさが見える。だが、今日ばかりはしっかりと湯船に浸かったほうがいいだろうと諸伏はそう説得する。
「風呂はこれから入れるから……飯はいつ食べた?」
「夜に」
「何時ごろ?」
「8時、ですけど」
 すっかり時計が一周している。もしや今までもそうしてきていたのかと諸伏は頭を抱えそうになった。夜食くらい食べてくれと項垂れる、通りで細いわけだ。最初の面談時にカロリーを取りたいとこぼしていた理由をこんな場面で諸伏は知った。
「無理でも良いから何か腹に入れてくれ、何なら食べられる?」
「食欲あまりなくて……大丈夫ですよ?ちょっと眠たいだけで」
「俺が世話焼きたいんだ、ダメか」
 こういえば水瀬が抵抗できないことを共同生活の中で諸伏はよくよく理解していた。諸伏のダイナミクスの趣向として、誰かに尽くしたいという欲求があるからこそのわがままだ。その欲求に関しても水瀬の家に転がり込んで初めて自覚したのだが。現在諸伏が水瀬の家から全く外に出られていない状況を、少なからず水瀬は申し訳なく思っている。同時にどれだけ諸伏にストレスを与えているのだろうと苦慮しているのを諸伏は感じていた。むしろ迷惑をかけているのは諸伏の方だというのにどこまで人がいいのだろうと絶句したのはいい思い出だが、負荷にならない程度にケアと称して世話を焼くことができる言い訳ができたのは僥倖だった。
「お願いします」
 ほとんど迷う素振りすら見せず頷いてくれる水瀬に、家でも精神科医をやらせてしまっている諸伏は苦笑して水瀬の頭をポンと一つ撫でた。寝ていてもいいからと伝え、すでに洗ってある風呂のスイッチを入れてキッチンに戻る。ケトルに入れていたお湯で煎茶を入れて水瀬に出してやればぼーっとしていた水瀬から感謝の言葉が溢れた。どれだけ体調が悪かろうが、しっかりと諸伏の目を見て感謝の言葉を告げる水瀬の根性に笑うしかない。
 すでに朝食を済ませていた諸伏はついでに自分の昼の用意もしてしまおうと土鍋を用意する。現段階で諸伏名義の口座を使用することはできていないが、風見にアドバイスされ誰にも感知されない名義で作っておけと言われていた口座がここで非常に役立っていた。公安にも届けていない口座にはそれなりに金を入れており、そこから出金した金で諸伏は色々と水瀬の家のキッチンを充実させていた。家賃に関しても払うと言ったのだがそこは水瀬が折れず、食費に関しては諸伏が折れなかった。表に戻る際に絶対に光熱費、家賃も支払おうと画策している諸伏はこっそりと水瀬の家にかかっている家賃諸々を記帳している。無断で物が増えていくキッチンに最初は水瀬も戸惑っていたが、趣味だと言い切ればそこからは苦言ひとつこぼさなくなった。水瀬は本当に諸伏に対して気を遣いすぎである。
 ゆったりとした動きで水瀬がお茶に口をつけているのを見て卵粥でいいかとテキパキと準備を始める。自分が食べるときには具を追加して雑炊にしようと決めた諸伏は炊飯器から米を土鍋に移していく。
 ああも顔色が悪くなるような出来事が水瀬に起こったのだろうか。本当に体調が悪いのであれば横になっていてもおかしくないのだが、水瀬はソファにしっかりと座っている。むしろ眠気もないような顔だ。過去、病院での水瀬の経歴を洗うと同時に水瀬自身の病歴なども確認していた諸伏は水瀬がここ数年健康体だったことを知っている。病院にかかった経歴もなく、ケア専門施設に訪れたこともない。もしや病院内でそっと診察されているのかと疑ったが、水瀬以外の研修生がケアを受けていた場合はきちんとカルテが残っていた。それすら規制がかけられ隠匿されているのであれば知りようがないが、諸伏が知る限り水瀬はケアを必要としないほどダイナミクスを安定させている。その筈だが、今の様子を見るにダイナミクスが不安定になっての不調のように思えてならない諸伏は卵を割りながら眉間に皺を寄せた。殻に引っかかって敗れた黄身がドロリと耐熱性ガラスの容器の中で広がるのを見ながら、踏み込むべき領域ではないと思考に区切りをつける。つけっぱなしにしていたニュースが朝の8時をお知らせしている音声が耳に届いて諸伏は作業をしながらテレビに目を向けた。
「捕まったんだなその事件の犯人」
「え……?」
「あれ、テレビ見てなかったか?連続で空き巣してた窃盗団」
「ああ……二課の刑事さんがあげてました」
「二課?三課じゃなく?」
 二課は知能犯、詐欺や横領などの事件の担当だ。
「どうも電子マネーでの詐欺罪があったみたいで、それをカモフラージュするのに下っ端に窃盗をさせてたようです。あと宗教関連で何かあったって言ってたかな……」
 諸伏が聞けば水瀬は警視庁で知ることができる基本的な事件の概要を教えてくれる。それはおそらく登庁したくでもできない諸伏を想ってのことだろう。水瀬の家のパソコンから警視庁のデータサーバーへアクセスする権限はないため、こればかりはどうしようもないが諸伏は公安で提供されていたノートパソコンが恋しくなっていた。もうとっくに公安に回収されてしまっただろうな。そこで、とあることを思い出す。
 ハッキングをして調べた水瀬のことを放置してしまっていた。
 上官に指示されていた別の職員や精神科医の診断結果のハッキング行為は、片手で足りる程度しか実施できていない。回収されたパソコンにその形跡を残してはいないが、まずったなと土鍋を覗き込みながら諸伏は顔を顰める。降谷もそれどころではないだろうが、この件を知っているのは降谷と諸伏のみ。警視正のどちらかが諸伏の状況を知り別の刑事に指示を出しているとも考えにくい。ただでさえ広めたくないだろう案件をこれ以上広めないためにも、おそらく放置されたままにされているだろうと予測した諸伏は、上目に水瀬の様子を伺う。
 降谷と話していた時の印象と同じく、水瀬はやはりSwitchとしか思えない。あったとしても弱いDom。だが、降谷の反応からして水瀬はSubにしか見えなかったんだろうということも理解していた。念のためと降谷と一度地下駐車場で話をしたときに面談日を確認したが、降谷の次の日に諸伏が面談だった日があった。降谷は相当強いDomだ、いくらSwitchといえど降谷のDomに合わせられる程度のSubになった翌日、Subである諸伏に違和感を抱かせることなくケアができるとは到底思えない。少しだけ魔がさして水瀬の部屋を調べてみようと想ったこともある。だが、命を救われこうしてリスクを冒して匿ってくれている水瀬に対して流石にそこまで善性を捨てられなかった諸伏は、未だ水瀬の寝室へは一度も足を踏み入れていない。水瀬自身は用があればどうぞ入ってくださいといったスタンスなため頭を抱えたくらいだ。
 諸伏には水瀬が書斎として使用していた部屋を与えられていた。そこに多く積まれている文献を見るだけでも諸伏にとっては非常に勉強になっていたし、水瀬が思うほど退屈もしていない。何せどれをとっても専門的すぎて読み応えがありすぎるのだ。理解に至るまで相当時間をかけて一冊を読み込んでいる諸伏は、ここにある文献から何か知ることはできないかと期待していた。
「夜何食いたい?」
「今から夕食ですか?」
「寝起きだとガッツリはきついか」
「そうですね、油物はちょっと」
「でも水瀬さんの摂取カロリー足りないんだよなぁ」
 何気ない会話の中で、諸伏は何度も水瀬に直接問いかけるか自問自答を繰り返している。結局それでも聞けないのは自身のせいで水瀬へ危険を負わせているにも関わらず、未だ諸伏の居場所を公安が掴んでいないという事実があるからだ。水瀬は真っ直ぐ、誠実すぎるほど諸伏に接してくれている。それを痛感しているからこそ、自分の探究心だけで嫌な思いをさせたくないと思えるほどには諸伏も水瀬に誠実でありたかった。

 - return - 

投稿日:2022/0811
  更新日:2022/0811