舞台裏の奔走
組織に潜入している間、任務のために一定期間他人と寝泊まりを余儀なくされることはあったがこうも長く共同生活を送ることになり、それに対しストレスをほとんど感じていないことに諸伏は驚いていた。それも異性の同僚である。公安の刑事としては届出をした上で同棲をしなければならないので、罪悪感に近いものはあるがそれでも微々たるもの。それだけ水瀬が諸伏に気を使っているのだということもわかってはいるが、潜入中には決してなかった穏やかでなんの裏もない何気ない会話が他人との共同生活という負荷よりもずっとプラスに働いていた。「水瀬さん将棋指せるの?」
あるものは好きに使っていいと言われていた諸伏は、何があるかだけでも把握しておくかと捜索を行い発見していた将棋盤に目を向けて水瀬に問いかけた。初期に見つけてはいたものの、諸伏の方からこういった話題を出せるほどに余裕がなかったためこの時やっと問いかけたのだ。
「医大の時に知り合った方に熱烈にプッシュされまして、多少ですけどね」
真ん中で折れるタイプの将棋盤を取り出して広げる。駒の入った箱もすぐ横にあり、手にとればじゃらりと中で駒が弾ける音がした。あまり使っていないのだろう、新品に見えるほどに綺麗な盤。水瀬の手から盤を受け取ってくるくると裏返しては検分するように見始めた諸伏は貰い物なんだろうと推察した。
「一局どう?」
「……お手柔らかにお願いしますね?」
「俺だってそんなに強くないよ」
嘘だ。水瀬の目が諸伏を胡乱げに見つめた。カパ、と箱の蓋を開けて駒を盤の上に広げる。指し方を知らなかった頃は崩し将棋くらいしかできなかったなそういえば、と幼馴染と音が鳴らないように息まで止めて真剣にやり合ったことを思い出して小さく笑う。あの頃降谷は不器用そのものだったため、諸伏の勝ち越しのまま崩し将棋は終わった。その後指せるようになってからは負けっぱなしだったが。悔しくて兄である高明に泣きつき教えてもらったものいい思い出だ。ちなみに兄も容赦がないのでボロボロに負かされた。降谷と高明なら高明のほうが強いだろうと思ってたが、実際に2人が対局したことはない。そもそも会わせたのも片手で数えられる程度だ。
ぱちぱちと歩を並べる水瀬の指先を見て女の子とこうやって将棋盤を挟むのは初めてだなと諸伏は気がつく。
「……飛車ってどちら側でしたっけ」
「右側だよ」
可愛らしい質問にふふ、と笑ってしまう。慣れない子供のような手付きだが、知識はあるのだろう。一度質問があっただけで後は綺麗に正しく並べられていた。予備である歩の駒を5枚渡されて諸伏は感心する。先手と後手の決め方も知っているらしい。よっぽど熱心なプレゼンだったんだろう。諸伏が振った歩は3枚が表。
「先手どうぞ」
水瀬が恭しく頭を下げてきたため噴き出しながら、駒を動かす。パチン、パチンと静かな音が室内に鳴る。
「そういえば誰かに同居のこと聞かれた?」
「へ?」
珍しく水瀬が裏返ったような声を上げた。
「いや……買い物とか量も頻度も増えたろ?1人分では無理があるから、聞かれたかなって」
戸惑う水瀬の手が駒を動かす。ちゃっかりと角の道を作ってきたため声色は動揺していても脳はしっかり働いている。聞かれるとすれば、水瀬を家まで送っているという萩原か松田だろうかと諸伏は懸念していた。水瀬から直接刑事の名前を聞いてはいないものの、メールで一方的に近況を語ってくる萩原からの連絡で警護が続けられていることを把握している。萩原などめざといのですぐに気がつきそうだと諸伏は億劫になる。ちなみに水瀬は買い物がある場合素直にスーパーまで送られている。スーパーと自宅も近く、人通りもあるため買い物がある場合には松田も萩原もそこで別れていた。水瀬が固辞したからである。
「同居」
困惑しきった水瀬の声に諸伏は顔をあげて首を傾げた。水瀬は焦ったように頭をふりぽそりとつぶやいた。
「そうですよね……いま同居してるんですもんね」
確認するような水瀬の言葉に今度は諸伏が固まる。改めて水瀬の口から言われるとどうにも悪いことをしているような感覚に陥った諸伏はうろ、と目を盤上に落とした。水瀬の感覚では諸伏を保護しているという感覚が強かった。万が一にでも諸伏をここから出して仕舞えば殺してしまうというほどの思いもあり、どちらかというと軟禁に近いとすら考えている。だが、確かに同居だ。2人分の食材を買い、諸伏が困らないよう生活用品や必要なものを買い揃え、なるべく早くに帰宅している。諸伏は家事のほとんどを執り行い、帰宅時には食事を用意して待ってくれている。バチン、とそれなりに大きな音を立てて水瀬は桂馬の駒を動かした。動揺が音に出過ぎである。感化された諸伏も次の手を止めた。
「深い意味ではなくて」
何がだ。諸伏は自分を殴りたくなった。
「大丈夫です!」
水瀬も己の発言の勢いと意味不明さに項垂れた。
「今のところそういった問い合わせは来ておりません」
取引先にでも対応するかのような水瀬の言葉はブルブル震えており、諸伏は心からどうしてこの話題を振ってしまったのかと後悔した。だが、年頃の水瀬に男の影があるなんて噂がたったりでもしたら申し訳が立たない。何より水瀬が職場に申請を出してない以上、万が一にも話題になってしまったらそれこそ問題だ。少なくとも部屋の様子から連れ込むような男の影はなかったわけだから、とそこまで考えてしまって諸伏はまた撃沈した。洗面台に並ぶ2つの歯ブラシに髭剃り用品。浴室には2種類のシャンプーが並んでいるし、片方はメンズとしっかり記載がある。諸伏が押しかけたせいで男の影がある部屋になっている現状を思い出してしまって居た堪れなくなったのだ。
「万が一聞かれるようなら、親戚とでも言ってくれていいから……」
「そ、そうさせてもらいます」
ぺチ。弱々しい音で駒が移動させられた。
投稿日:2022/0820
更新日:2022/0820