育むデプレッション

 ゆっくりとした造作でグラスをコースターの上に戻した水瀬に松田はため息を吐きそうになる。どう見ても傷害、警視庁で仕事をしていて自分で傷をつけるなんてことまずないだろう位置。被害届が上がるかとしばらく様子を見ていたもののそれらしい様子も噂もなく、水瀬の服が首元を隠さなくなったために松田の我慢が限界を迎えた。水瀬が伊達に要請され捜査協力をしてから事件の裏どり作業と後処理のみとなったため、萩原のみとなっていた水瀬の自宅への警備に松田もまた戻っている。話す機会はいくらでも与えていた。松田は灰皿にとん、とタバコをぶつけた。
「生安から突然1人の警官が消えた」
 じっと松田は水瀬を見据える。声を抑えるため、背もたれから体を離しテーブルに肘をつく。松田に煽られた空気に乗ってタバコの煙が水瀬へと伸びる。
「査問委員会も知らぬ間に完了、懲戒免職になっているらしいが理由は不明」
「……」
「ちょうどあんたとコンビニであった日だ、その日その警官がわざわざ非常階段を使うためにロビーに降りてきてるのを見てる奴がいてな」
 徐に首をかしげた松田が、呆れたと言わんばかりの声色で問いかけた。
「あえてはっきり聞くぞ、誰かに相談したか」
 話の流れが変わったことに気がついた水瀬が瞬きを増やして戸惑う。てっきり詰問を重ねられ、のらりくらりとかわすしかないと思っていた会話が突如かくんと路線を変えた。水瀬の様子を眺めながら松田はウィスキーを口に含んでグラスをコースターの上へ置く。汗をかいたグラスからじわりとコースターへと水が沈む。返答を待たれていると気がついた水瀬は慌てて口を開くが、うまく言葉が出てこなかった。
「あんたの上司でも萩でも伊達でも誰でもいい、したか」
 ゆっくり、水瀬は首を縦に振る。候補として挙げられた中にはないものの、その場で降谷に助けられているため嘘はどこにもない。松田の声が宥めるようなものを含んでいたからこそ自然と返答してしまっていた。
「泣き寝入りも、見逃すのも優しさじゃない……裁けないっつーのは誰のためにもならねぇ」
 ふ、と笑った松田が固まって動かない水瀬の頭へと指を伸ばす。する、と指の腹で髪を避けるようにして撫でられた額にやっと水瀬は体を反応させる。先程までグラスを遊んでいた指から冷たさがほんのりと額に移る。逃げるように体を下げて松田を凝視する水瀬はコクリと喉を鳴らした。そんな水瀬を気にすることなく松田はその手でまたグラスを手に取った。
「精神科医って立場がそうさせるのかは知らねぇがさっさと学べ」
「学べ……?」
「1から全部言って欲しいか?」
 馬鹿にするような笑みを口元に浮かべながら酒を舐める松田を水瀬は呆然と眺める。松田の一挙一動を水瀬は初めて目撃したかのように見つめた。
「そんな馬鹿じゃないだろ」
 表情と言葉が伴っていない松田に水瀬は困惑を顔に乗せた。開閉されるだけの口を見ながら松田は沈黙する。程よく沈むソファが突然窮屈に思えるほど水瀬は松田の沈黙が辛かった。姿勢を正し、キュッと口を閉じる。手の平にじわりと汗をかいているのを水瀬は他人事のように感じていた。
「……いじめてます?」
 第三者の声に水瀬が椅子から浮き上がるほど驚いた。心配そうな顔をしたバーテンダーが小振りな皿を手に首を傾けている。水瀬の様子を見て胡乱げな目を松田へと向けた男は呆れたようにため息を吐き出した。
「やめてくださいね、こんな可愛らしい方泣かせるの」
「泣かねぇから面倒なんだよ」
「うっわ」
 客に向ける声ではない心底ひいた声を落とし、バーテンダーは水瀬へと向き直る。
「サービスです、ご贔屓に」
「おい俺されたことねぇぞ」
「女性にしかサービスしない主義ですので」
 慇懃無礼を絵に描いたような態度に松田はひくりと口角を引き攣らせた。ナッツが盛られた皿は水瀬へと寄せられている。松田など眼中にありませんと言わんばかりの態度である。水瀬にとびきりの笑顔を向けて戻っていくバーテンダーに舌打ちを落とした松田はボス、とソファに身を沈めた。金魚のように動いていた水瀬の口もすっかり大人しく閉じられている。
「なんで」
 BGMの音に紛れるような声、しかし松田は動きを止めて水瀬へと視線を向けた。拾われるとは思っていなかったのか、水瀬が驚いたように目を見開くも、観念したように口を開いた。
「普通泣く方が面倒って言いませんか?」
「そりゃそうだろ」
 メソメソと泣かれて面倒を被ったことのある男の言葉には含蓄がある。学生のころからも勝手に抱いた理想を押し付けられ、やれ優しくない乱暴だなど一方的に女に泣かれ。刑事部になってからは聴取のたびに男女問わず、この程度で泣くなと毎度うんざりさせられていた。
「だが泣かねぇ方が面倒だってのはあんたで痛感した」
 腕を伸ばしてタバコを灰皿に押し付ける松田の声が掠れている。
「なぁ水瀬」
 初めて呼ばれた名前に水瀬は思わず確かめるように松田に視線を向けてしまう。これまで、徹底して松田は水瀬を呼称しなかった。呼ぶことを避けているのだろうと気がついたのもすぐで、松田にとって何か線引きがあるのだろうと水瀬は考えていた。なぜこのタイミングでという疑念が水瀬の表情を強張らせる。それをほぐすかのように松田の声は穏やかだった。
「今、お前にとって俺は患者か」
 水瀬はどうしてかその言葉に柔らかい場所を突き刺されたような錯覚を覚えた。
「警視庁のあの部屋から出て、俺のケアのためにここまでついてきたのか?伊達の誘いを断らないのもあいつのケアのためか?」
 声もなく水瀬は首を振る。違う、そうじゃない。そんなはずはない。
「じゃあ言ってみろ……俺はなんだ」
 低く、少し掠れた松田の声が水瀬をじわじわと追い立てる。断崖が目前に迫っているような、背後にマグマ溜まりが噴き出しているような。精神科医としての水瀬が松田の求める言葉を頭で弾き出す一方、その解を松田自身が求めていないと先手を打たれている。いかに日常から、水瀬が精神科医としての会話ばかりをしていたか。一種職業病のような水瀬にとっての“当たり前”を松田は気に食わないのだと殴りつけている。
「捜査、一課の刑事さん……です」
「それで?」
「……住んでいる場所が近いです」
「あとは?」
「爆弾を前に……市民を優先できる、人」
「……」
「萩原さんと伊達さんの同期で……」
「……」
「せんぱい」
 徐々に苦しげに、喘ぐように話す水瀬に松田は目を細めた。
「どんな先輩だ」
「たよ、れる……」
 水瀬がやっと選んだ、言いにくそうにした普通の言葉に松田はやっと格好を崩した。
「はぁ〜……ついでに可愛くない後輩を可愛がってるとも付け加えとけ」
 水瀬の前にある皿からカシューナッツを摘んだ松田は心底面倒だと言わんばかりの表情でそれを自身の口へと放り込んだ。

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投稿日:2022/0912
  更新日:2022/0912