鴨跖草の遺言
聴取が終わって諸伏との通話が切れた直後、水瀬は降谷に向けて頭を下げた。「前回は助けていただきありがとうございました……不躾なことを言ってしまい本当に申し訳ございませんでした」
膝と額がくっついてしまうのではと言うくらいに深く頭をさげた水瀬に降谷は呼吸を止める。そして慌てて水瀬を起こそうと手を伸ばす。触れる前に止まった腕を降谷はぎゅうと握りしめておろす。
「やめてくれ、あれは俺が悪かった……それに助けるのも遅くなった」
降谷の言い回しに水瀬は確信する。水瀬の態度の理由を降谷が察してしまったのだ。半ば強制的に水瀬へと不満をぶつけさせる乱暴なやり方は、その裏を対象に気取られてはならない。今だからこそわかるが、降谷が調子を崩していたのは諸伏の件があったからだろうと水瀬も鈍くはないので理解している。それが解決した今降谷が事実にたどり着くのも、水瀬へ対して罪悪感を抱く可能性が高いことも予想はできていた。顔を上げた先で降谷の眉が困ったように下がっているのを見て水瀬は本当に失敗したと顔を顰めた。本来バニラの気質が強い降谷が、正反対の対応を取らざるを得ない状況に追い込んだ。反射でストレスが上がる可能性ももちろんあったが、それは水瀬の行動の裏を知られない前提。知られて仕舞えば間違いなくストレス値は上がる。事実諸伏の生存以降、最低数値からは改善したが以前の数値よりは格段に悪いままだった。
「降谷さんが来てくださったからあの程度で済みました」
「……まずあの男の処遇について伝えておく」
水瀬を襲った甘田という男はすでに送検されている。水瀬が予想した通りドラッグを所持しており、ダイナミクス値が大きく上振れていた。Subとは反対に、Domはダイナミクス数値が自身の許容範囲を大幅に上振れてしまうと極度の興奮状態に陥る。ドーピングにより跳ね上げたDom性で業務にも支障をきたしていたため裏を取るのは容易だった。暴行も水瀬に対してが初犯ではなく、叩けば埃がポロポロと出て来たほどであった。
「君が言っていた通り警察庁でそれを握りつぶしていた者がいた」
「そちらも?」
「まだ余罪がありそうだから上の判断で泳がせている、甘田が捕まったせいで慎重になってるのか尻尾を出さないようで手を焼いてるようだが時期捕まる」
甘田には警察を辞職の上で逮捕となった。そのため現役警察官の汚職という面倒なゴシップを報道機関にばら撒かれることはない。水瀬にあらかじめ伝えていた通り、あの日の暴行については表では裁けない。これが最善だった、降谷はそこに疑念は持っていないため水瀬に謝罪を伝えることはしなかった。水瀬も理解していると言わんばかりにコクリと頷く。
「ありがとうございます」
しかしお礼を言われるものではない。受け取れないとばかりに降谷は首を振った。
「騒ぎになっていたら、夜間の仕事ができなくなっていたと思います」
実際、報告を上げた際寺尾などは水瀬の夜間面談を削るか検討していた。待ったをかけたのは降谷で、諸伏の件――本日聴取を行いその内容を吟味した上で再検討をと嘆願した。降谷の読み通り、水瀬の能力は目を見張るもので水瀬が面談時に得ていた情報によって諸伏の命は救われていた。そして無意識の鼠もこれで確保ができる。これ以上ないほどの成果だ、この結果を持ってして公安刑事の面談を取りやめるなんて事態にはならないだろう。ただ、今後は必要に応じて水瀬が自主的に報告をあげられる先とその導線を確保する必要はあるだろうが。そこまで降谷が口を出したところで実現できるかどうかは不明だが、寺尾は聞き入れてくれるだろうという確信もある。
「礼を言うのはこちらの方だ」
自然に降谷の口が開く。
「君のおかげで俺はヒロ――幼馴染を見殺しにせずに済んだ」
降谷の言葉に水瀬はハッとする。見殺し、その言葉を選んだことで降谷と諸伏が同じ場所に潜入しているのだろうことに気がついてしまったのだ。降谷もあえて試すように言葉を選んだが見事に反応した水瀬に苦笑する。嫌になるほど優秀だ。時には嫌われ役も買ってでる度胸もある。何度か思ったが公安に向いているだろう。そして最初に頭を下げてきた水瀬を見て、担当を降りる気がないのだと言うことを降谷は察した。どうしようもない、こんな面倒な患者など棄ておけばいいものをと苦笑してしまう。そっと、ためらいがちに手を伸ばす。触れない距離、水瀬が手を伸ばさなければ届かない場所で止める。警戒を抱かせないよう、手のひらを上にむけ自然な形で開かれた状態。
「まだ、俺を担当してくれるかい?」
ぎゅ、と降谷の手が握られる。なんの躊躇いもなく伸ばされた手に降谷の方が驚いた。白い水瀬の両手が降谷の大きな手を必死に掴んでいる。縋るような様子の手に降谷は徐々に肩から力を抜いていく。見上げた水瀬の顔は安堵に塗れていた。
「……甘い子だな」
「そんなことないです」
「許すんだろ、やっぱり公安には向かないかも」
どうして公安?とばかりに首を傾げる水瀬を見て降谷は思わず笑みを浮かべる。自然な表情に水瀬も内心でそっと安堵した。弱々しい力で降谷も手に力を込める。これ以上の謝罪を水瀬が求めていないこともわかっていたが、どうしても自身を許せない。個人的感情で荒ぶり、こんなにも頼りない身体の女性に苛立ちをぶつけた。警察として、年上として、人として男として降谷の矜持がどうしても痛むのだ。
「うん、そうだな」
そもそも降谷は公安だ。表立って動かない、密かに日本のために動くのが仕事だ。1人納得して頷く降谷に首を傾げる水瀬も、影ながら支えて見せよう。本人がどう思おうがその命が続きさえすればいいのだ。そして公安としてそれを良しとしてもいいという根拠と理由を己の上官は持っている。まずはそれを引き摺り出して、影からでも真っ先に動ける立ち位置を手に入れよう。諸伏を救ってくれたこの手を、降谷の精神のために握らせてしまったナイフによって傷ついただろう手のひらを。勝手に償わせてもらおうと決めた降谷は幾ばくかすっきりとした顔で水瀬の手をゆるりと上下させた。
投稿日:2022/1009
更新日:2022/1009