鴨跖草の遺言
「おかえり」朝日がカーテンに透け始める時間。聴取を終えてD課執務室で業務を熟した後、日勤のものと入れ替わりで帰宅した水瀬を当たり前のように起きたまま迎えた諸伏は、一見普段通りに見えた。水瀬が警視庁で業務をしている間、諸伏は降谷が行った取調べをまとめ、風見へと報告としてあげていた。私情を切り離した事実のみの調書。淡々とした中身はわかりやすくまとめられていたが、読み終えた風見はその心情を思うと頭を抱えざるを得なかった。だから、らしくもなく水瀬へ「彼奴をよろしくお願いします」とメールを入れてしまった。警視庁のPCで風見からそんな連絡を受けていた水瀬は、観察する目で諸伏を眺める。呼吸のリズム、肩の強張り、口角や目尻に引き攣りがないか。
「ん?どうした?」
しかし潜入捜査官すら務めていた公安職員だ、水瀬の視線に気が付いたのだろう不思議そうに首を傾げられてしまう。元から面談の時でもヒリヒリと警戒を見せていたような諸伏だ。本気を出されてしまえば水瀬など太刀打ちなどとてもできない。聴取中に通話から聞こえてきた諸伏の声が険しかったこと、そして風見からのメールがなければ水瀬も流してしまっていただろう。カバンを置いて、上着をハンガーにかけて諸伏に向き直る。今目の前にいる諸伏にはなんの違和感もなかった。だが、あえて言葉にする。
「私にまで気を張らなくていいですよ」
「……」
「風見さんが心配していました」
風見の名前は予想外だったのか、諸伏は目をパチクリと瞬かせる。しかし、その動揺もすぐに苦笑の奥に隠れてしまった。
「風見さんは俺もだけど水瀬さんのことも心配したんだと思うよ」
思わぬ返しに水瀬は「え」と間抜けに声を上げてしまう。ラックのそばに立ったままだった水瀬にもう一度笑い、諸伏は立ち上がって水瀬へ近寄る。見下ろす位置で止まった諸伏は体を前傾させて水瀬と視線を合わせた。小さい子供に対するような姿勢だが、水瀬は自然と受け入れて目を水平に保つ。
「水瀬さんってケアはどうしてるの?」
「へ?」
「もしかして病院に行ってるときにケアしてるとか?」
「いえそれは研究や勉強のためで……」
「じゃあケアしてないってことだよね」
いらないので、と口の中で転がすように言う水瀬はどうしてか諸伏から目を逸らしたくなっていた。真っ直ぐに心配したという言葉を向けられたのが久しぶりだったと言うことも原因の一つだ。これまで多くの行動や態度で水瀬はそれを受けていた。事件に巻き込まれたと言うのもあるが、一警察官が受けるには過剰なほどの保護を受けているのを自覚している。たかが内勤の医者だ。危険な現場に出るわけでもない。それこそ諸伏のような命を脅かされるような場所に常にいたわけでもない。参考人としてという面が強いのもわかってはいるが、それが全てではないことも理解している。特殊犯をはじめ松田や萩原、降谷に風見。そして目の前にいる諸伏もずっと水瀬に心を砕いてくれてた。
「部屋にいる間に色々と読ませてもらったけど、精神科医が大変だってことは十分理解したよ」
体を起こして書斎の扉へ目を向けた諸伏が呆れたように目を細める。ダイナミクス精神科医は何時いかなる場合でも患者へ心を向け、己の優先順位を下へと下げて欲求と疎遠となる。不安定な相手と常に対面しなければならないというのはそれだけでも負荷がかかるものだ。患者の抱える思い、ストレス、環境。それらを受け止めて寄り添うために削れていく何かがあるはずだと諸伏は思ってしまう。
「水瀬さんこそ俺にまで気を張らないでよ」
水瀬の家に踏み込んで、プライベートを奪っている自覚が諸伏にはある。文句を言えと伝えても諸伏の体調を慮るようなセリフを吐くような後輩。仕事の立場的にも、水瀬の性格的にも難しいのかもしれないが諸伏はこれ以上水瀬の負荷を増やしたくないのだ。
「荷物を下ろせないにしても、整えるくらいはしてやりたいだろ」
水瀬の目がまんまるに開かれる。正しく水瀬が諸伏に言った言葉だ。諸伏がその言葉を覚えていたことも衝撃だったが、その言葉を向けられるとも思わなかった水瀬は目を見開いている。キュウと瞳孔が小さくなるのを諸伏はじっと眺めてくたりと眉を下げた。
「確かに俺たち、側から見たら結構悲惨だよな」
水瀬の手をそっと拾い上げ、ゆっくり慎重に諸伏は引く。呆然としている水瀬は混乱のままされるがままに諸伏についていく。
「俺もまさか先輩がしょうがなく前線を退いて、それまでの実績を横取りしてたとは思わなかったし……まあだからってこっちの危険度外視でちょっかいかけるのはどうかと思うけど」
促されるままにソファに腰を下ろした水瀬は思わず諸伏の言葉を否定しようと口を開く。事実ではないが、間違いではない。諸伏の選んだ単語には諸伏自身に向けた棘があった。水瀬の足元にあぐらをかいて座った諸伏は水瀬を咎めるように首を振る。自然に見えるように振舞ったからか、話の内容に気を取られているのか水瀬は諸伏が足元に座ったことにリアクションをしない。
「俺はそう思ってなかったけど、向こうにとってはそうだった。それだけだ」
そう言われてしまうと、水瀬も言葉が出ない。今度は間違いもなく事実だったからだ。公安の上層部がどういった理由で件の刑事をバックアップからも外したのかは不明だ。だが、事実そのまま風見や諸伏の補佐としてうごがれていたら諸伏の身元が露見するのはもっと早かっただろうし、下手をすれば降谷の身も危なかっただろう。不幸中の幸い、諸伏が社会的に死亡となる事で一件は収まってしまった。最初は諸伏の潜入もうまく行っていたはずだ。だが先人である男が、その後も組織とコンタクトを取り続けたことによって入れ替わりが露見。しかし組織側はスコッチがどこの人間かまではわかっていなかった、場合によっては利用価値のある裏の組織の可能性もあったからこそすぐに殺されることもなかったのだ。それが、警察手帳を見られるという致命的なミスを先人が起こしたせいで全てが組織に割れた。分かれば馬鹿馬鹿しいほどあっけない話だ。まだ自分のミスであったのなら納得もできただろう、それもできない諸伏のやるせなさは凄まじいものだった。
「なんのためにあんな仕事してたんだろうな俺」
最初から泳がされていた。試すように多く仕事を振られていたのだと今ならわかる。掴んでいた情報も役に立たないものばかりだろうことは明白だ。早めに名前をつけられたのも結局は実力ではなかった。なんの罪もない一般人の命すら刈り取りスコープ越しに赤が弾けるのを何度も見た。なんのために、一度そう思ってしまうとズルズルと思考が沈む。しかしそれを踏みとどめている存在が目の前にいる。命を救ってもらった、匿ってもらって風見や降谷とのコンタクトも取ってくれて、会わせてくれた。終いには真実まで明らかにしてくれた。死ぬことすら覚悟した冬の路地裏にいた時とは比較できないほどに諸伏は救われている。あのまま死を選んでいれば間違いなく無駄死にだったろう。
少なくない時間水瀬と過ごした諸伏だからこそ察することのできた水瀬の機敏。「なんのため」という言葉に水瀬が息を止めた。
恩を返したい、何より懸命に向き合ってくれた水瀬の誠実さに報いたい。例えそれが職務のためだったとしても、ここまで水瀬が清廉で居続けていたことに敬意を表したい。そしてもし今の立ち位置が息苦しいのであれば引き上げてやりたい。あの寒さから守るようにストールを巻き付けて、コートを羽織らせてくれた後輩を諸伏は放っては置けない。諸伏は警察官らしい思いとエゴで、自分を律し沈むことを良しとしなかった。逆に言えば水瀬という後輩が自分と同じくらいには哀れに思えてならなかったのだ。
「水瀬さん、君は責められたい?」
握ったままの手の輪郭を確かめるように諸伏はなぞる。
「残念だけど、誰も君を責めないよ」
諸伏の命の危機を察していた。そしてその犯人と思われる警官のしでかしたことも、わかっていて面談を行いケアを行っていた。どれほどの苦行だろうと、諸伏は思わず笑ってしまう。本当に、なんのための仕事だとは水瀬の言葉だ。諸伏も水瀬も捜査官として医者として正しいとされる行動を取った。例えそれで何かを踏みにじっても、損なおうとも罰せられることもない。
「水瀬さんのことも、俺のことも誰も責めちゃくれないんだ」
きついな。そう言って力なく笑う諸伏の顔に繕う雰囲気は一切ない。水瀬は細くなっていた呼吸を思い出したように再開し、ゼーゼーと肩で呼吸をする。苦しさのあまり水瀬が体を折ると、諸伏が水瀬の肩を慰めるようにトントンと叩く。諸伏の手で包み込めるほどにその肩は小さく頼りなかったのが、諸伏にはどうにも苦しかった。
水瀬にとってどんな理由があれ、患者の情報を話すということは想像以上のストレスとなっていた。面談のたびに話される情報が、ぐるぐると水瀬の首を締め警察官としての水瀬の在り方を常に凶弾していた。そして諸伏と会うたびにまだ生きている、良かったと心から安堵し、黙っている自身は諸伏を追い詰める人間と何が違うのかと葛藤した。そしてその良心にしたがい諸伏は助けられた、しかし同時に水瀬はもう1人の患者を切り捨てた。どちらも誠心誠意向き合っていた水瀬の担当患者であり、日本のために前だけを見据えていた先輩警官だった。少なくとも水瀬の目には2人に大きな差異は無かったのだ。諸伏がもしかしたら死んでしまうかもしれないとなってやっと行動を起こした、逆に言えばそれまでずっと水瀬は諸伏を地獄へ突き落とす共犯だった。そして最後にはその地獄へともう1人の患者を叩き落として今尚のうのうと警察官のままでいる。
けれど諸伏のいう通り、誰も責めてくれない。
「諸伏さんは?」
「ん?」
「責めてくれないんですか?」
顔を上げふざけたような水瀬のぼろぼろな声に諸伏はへらっと笑う。
「好みじゃないかな」
思わぬ返答に水瀬も笑う。涙の気配すらない水瀬の目元を見て諸伏は満足そうに、痛そうに微笑んだ。お互い満身創痍だ、それを確認し合えただけでも収穫としては十分だった。
投稿日:2022/1013
更新日:2022/1013