鴨跖草の遺言

 水瀬が面談を終わらせて執務室へ戻ると、デスクで松田が突っ伏していた。
「……あの」
 課長に何事かと問い掛ければ肩をすくめられてしまう。
「例のドイツ語関係だよ、また証拠がありそうだから水瀬くんに手伝って欲しいって」
 もう少しで終わるって伝えたらこれ。そう言って眠っている松田を指差して笑う課長に水瀬もなんだか力が抜けた。D課の課長である佐原は、刑事部にいたこともあるベテランの警官だ。D課が発足してからは面談の運用やケア課との業務切り分け、またケア課への指導などの調整なども含めて整えた凄腕だ。水瀬が来てからはこれまで警察病院に任せっきりであった公安刑事の面談方法も検討、調整を行い僅か数週間で運用まで持っていった。佐原自身は医者では無いため面談を行うことはないが時間さえあれば論文を読み、部下に頼んでダイナミクスに関する話を聞いていたりするのでよくできた人だと水瀬は思っている。
 流石に公安も直属の上司へまで情報を規制しなかったため水瀬が襲われた事件について佐原は真実を知る事となった。元々夜間に1人のみを残して行くことをよしとしていなかった佐原はこれを期に2人体制へと変更をしようとしたが、公安刑事の面談に警察官ではない外部の医師がその場に残ることに公安上層部が難色を示した。だったらとヤケを起こした佐原自身が残ると豪語したのだが、佐原自身は妻帯者。水瀬が嫌がってなるべく帰ってくれと訴えた結果ケア課の人員を同じフロアに置くことで話はまとまった。公安刑事となるとデリケートに扱わなければならない刑事も多くいるため、面談時は接触が起こらないよう徹底している。万が一がある場合には水瀬が所持している端末をワンプッシュすれば、待機要員及び公安部へエマージェンシーコールが流れる手筈となった。公安部にその運用を通した佐原は一体何者なのかと一時水瀬を含め派遣で来ている精神科医の中でもざわつきがあったのだが、佐原自身はケロッとした顔で「昔の伝手」と言い切った。ちなみに甘田の事件については派遣医師には他部署が取り押さえている容疑者の脱走対策とだけ伝えられている。
 背中から水瀬の膝掛けをかけられてすっかり寝息を立てている松田に水瀬はそっと近寄る。椅子の背もたれにいつも引っ掛けているものを勝手に使用した松田は誰に咎められることもなく水瀬のデスクを占拠している。サングラスがキーボードの上に雑に置かれている。顔は全く見えないが寝息の深さから相当疲れているのだろうと察し水瀬は佐原へ問いかけた。
「どれくらい経ちました?」
「20分弱かな、でも急いでたんだと思うから起こしてあげてね」
 うぐ、と顔を顰める水瀬を見て佐原は笑う。精神科医という職業柄か、水瀬は同年代と比べてもいささか成熟している。まだ大学を出て一年目、佐原から見れば子供なのだがそう見せない思わせない態度を水瀬はとる。他の部下である年配の精神科医とすら遜色なく目に映るのだ。もちろん水瀬の態度が偉そうというわけではなくむしろそれは年相応、年配者を敬う態度をしっかりと取っている。それを差し引いても水瀬は達観し、大人びていた。
 しかし案外、刑事部に振り回されるのはいい傾向なのかもしれないとブラックリスト入りをしている松田や萩原と関わる時の水瀬を見ていて感じていた。爆弾事件以降、本当は佐原が水瀬を送迎しようと思っていたのだ。しかし佐原が水瀬へとそれを提案する前に、刑事部の2人から頭を下げられ帰宅だけでも面倒を見させてくれと頼まれた。もちろん刑事部なため、急な仕事が舞い込むことも多々ある。毎日と約束はできないがそれでもまた犯人に狙われる可能性のある水瀬を放置はできない、警護をしていてまんまとやられた自分たちにどうかもう一度チャンスをくれと。佐原からすれば他部署とは言っても古巣、皆可愛い後輩に見える。毎日だと水瀬の性格上嫌がるだろうから、できる頻度で構わないと許可を出し、それでも嫌がる水瀬を言いくるめてやった。今では松田も萩原もすっかりD課執務室に馴染んだ、こうして部屋へと入り水瀬を待つことを許すくらいには。佐原もまさか寝るとは思っていなかったが。一度松田を担当した精神科医の中では専ら松田は凶暴な野良猫扱いされており、それを手懐けた水瀬は一時マタタビなんて呼ばれていたほどである。
「松田さーん」
 近寄って声だけかける水瀬は、カルテの挟まったボードを胸に抱え込んでいるのもあって珍獣に挑む子供のようにも見える。ふ、と笑った佐原に水瀬は一瞬目を向けるも急ぎという言葉を真摯に受け止めたのだろう、松田の肩を弱く揺する。
「松田さん、面談終わりましたよ」
 むずかるような掠れた呻き声をあげて松田の腕が上がる。腕時計を確認しようとしたのだろうが、目が霞んだのか凝視して諦めて眉間を指先で揉んだ。
「……何時だ」
「17時過ぎです」
「この後翻訳頼んでいいか……」
「はい、空いているので大丈夫です」
 ぐぐ、と体を器用に伸ばした松田がのっそりと起き上がる。形のいい眉をグッと寄せ眩しげに目を細め、水瀬を見上げた。体格のいい松田だが、寝起きの挙動も相待ってどうも幼なげに見える。
「お前もうちょいキャンキャンした声で起こせ……」
「独特な注文ですね」
 ブフ、と吹き出した佐原は早くいけとばかりに2人に手を振ってニヤけた顔を隠したのだった。


 - return - 

投稿日:2022/1021
  更新日:2022/1021