鴨跖草の遺言

 210ページにもわたるドイツ語文書の和訳が1日で終わるはずもなく、水瀬は捜査一課に顔を出すのが日課となった。
「また来たのか」
「すみません、時間がかかって」
「全くだよ」
 刑事部でもない水瀬が顔を出すことに難色を示すものも少なからずおり、その筆頭が中谷だ。会うたびに舌打ちに始まり、嫌味の一言が必ず向けられる。水瀬は全く気にした素振りを見せずに笑っているが、これには佐藤が一番腹を立てた。その度に伊達や河野が申し訳なさそうに佐藤を諌めるのが一連の流れとなりつつある。今日も今日とて中谷の嫌味を聞いてしまった佐藤が凄まじい剣幕で中谷を睨みつけて水瀬を定位置へと引っ張っていく。
「はらたつ」
 怒りのあまりか、語彙が低下したような唸り声で佐藤が荒っぽくパイプ椅子に腰掛ける。我慢ならないとばかりに両手で髪を掻き乱し始めたので、伊達は苦笑しながらまぁまぁと佐藤へコーヒーを手渡した。
「こっちからお願いしてるのにあの態度はないでしょう」
「ごもっとも」
 伊達も反論できないというポーズを取って困ったように笑う。しかし当の水瀬は困ったように笑うのみ。中谷の性格をそれなりに把握しているからだ。大方一度外した水瀬に再度翻訳を頼むのが申し訳ないのだろうと水瀬は踏んでいる。本当に邪魔だと思っているのであれば首根っこを掴まれて会議室の外に投げられているだろう。ドイツ語翻訳のため専門家を呼ぶ話も出ていたのだが、手紙の翻訳は優先順位が低い上、徒労になる可能性の方が高い。単語であれば調べれば分かること、また白鳥が簡単な和訳なら可能だったことからも専門家については早い段階で不要という判断に至った。ある程度の訳を白鳥が行い、その後の確認と修正を水瀬が行う。D課業務に差し支えないことを条件に佐原も承諾し正式に水瀬はフラー事件に協力することとなった。前回の続きに早速取り掛かり始めた水瀬は違和のある和訳の訂正のため赤ペンを走らせる。
「白鳥くん、そっちはどうだった?」
「普段通りです」
 白鳥と目暮はもう1人の生き残りである朝田に張り込んでいた。ご自由にと言われた通り、朝田の生活を邪魔しない程度に堂々と張り込みをしているのだが特段不審な点はなし。逆に言えば何も掴めていないという状況だ。大袈裟にお手上げだ、と肩をすくめる白鳥に佐藤もくったりとした笑みで労いの言葉を向けた。張り込みの最中に同時に和訳も進めているため白鳥の疲労は他よりも大きい。
「松田さんは?」
「あっち」
 佐藤の相棒であり、勝手ながら恋敵判定をしている松田の姿が見えないと白鳥が問い掛ければ、佐藤が心底うんざりした声でとある方向を指さす。そこには床に座り込んで何やら議論をしている松田と萩原の姿。白鳥は心得たとばかりにああと頷いた。
「まだやっているんですね、パズル」
 以前水瀬がホワイトボードを見てこぼした言葉に引っかかりを覚えた松田は、以来萩原を巻き込んでこれまで現場に残されてきた単語についてひたすら考察を続けていた。アナグラムに始まり和訳した後の頭文字の並び替え、果てにはローマ字に変換してそこに意味を見出そうとあらゆるパターンで解読を進めている。
「本当に意味あるのかしらあれ」
「あいつら気になったらとことんだからな、ほっとけ」
 慣れたように伊達が笑う。2人の家に世話になっていた伊達は、帰宅してもああでもないこうでもないと唸っている2人に付き合わされていた。時間さえ合えばもう一方が伊達が泊まりに来た家に突撃してくることさえ日常茶飯事だった。
 松田と萩原が座り込んだ場所には大量の紙が並べられており、時折そこにガリガリと書き込む様子が見られる。萩原の傍にはドイツ語の資料や暗号に関する文書などが積まれており、会議室の隅とはいえそれなりの場所を占領していた。前回水瀬が詰所に来た時にはテーブルで作業していたのだがついに追い出され結果として床で作業を進めている。
「お疲れっす」
「矢島くん、おつかれ」
 萩原の相棒である矢島も、萩原に巻き込まれる形でフラー事件の捜査に関わっていた。萩原に頼まれて改めて過去の事件の資料を読み込んでいたのだが、その作業も終わり休憩とばかりにのっぺりとテーブルに上半身を預ける。機動隊上がりの松田と萩原の体力は底なしのため、佐藤が根を上げることは多々あるのだがSITであった矢島ですらあの2人には置いていかれることがあるので、佐藤はあの2人が規格外であることをやっと知った。
「お前も大変だなぁ」
「俺爆弾知識くらいしかねぇのにひどいっすよね」
 化学系の話にめっぽう強い若手である矢島は特殊犯に配属された当初それはもうもてはやされていたのだが、相棒が萩原となった途端哀れにも先輩である萩原に振り回されっぱなしとなった。それだけ萩原の頭の回転が速く、優秀だというのもあるのだが新人につける人物ではないだろうというのが矢島の見解だ。天狗になる暇もなく矢島は齷齪と萩原について走り回っている。
「おかげで彼女に振られました」
「それは……まあ……」
 なんとも言えない空気が漂う。宮本主催の合コンでゲットした彼女だったが生活リズムがあまりにも合わず、フラー事件が始まってしばらくしてから三行半を叩きつけられてしまっていた。ぽん、白鳥と河野が矢島の肩を慰めるように叩いた。スンスンと矢島がわざとらしく泣き真似をしているのを佐藤が面倒そうに見つめた。忙しいのなんて分かっているのにそんな理由で別れるなど、何故付き合ったのかと言わんばかりの視線だ。
「水瀬さんもすごいっすよね、普段の業務の合間にも来てるって聞きましたよ」
「頭が上がらないよ、和訳が終わったら捜査一課からD課に賄賂でも送らないと」
「いや……ほとんど白鳥さんがやってくださってますし」
「そういえば水瀬さんってドイツ語の他にもわかるの?」
 ひと段落したのだろう、水瀬がペンを置いたタイミングでもあったので佐藤が問いかけた。
「英語とドイツ語……フランス語は日常会話程度なら」
「すごい」
「東都大でしたっけ」
「米花医大ですよ」
 フランス語に関しては大学で選考していた程度なので、専門用語まではと謙遜する水瀬だが佐藤がキラキラとした目を水瀬へと向けた。
「でも聞いたわよ、警察学校だと座学でずっとトップだったって。理系の大学を出てるのに法律まで完璧ってことでしょ……努力したのね」
 いったいどこからその情報を佐藤は得たのだろう。水瀬は恥ずかしそうに眉を下げた。佐藤の飾らない言葉はまっすぐすぎる。白鳥が小声で「僕はフランス語完璧ですよ」とアピールしたが佐藤には届かず隣にいた矢島が「すげぇすね」と純粋に褒めた。
「私からすれば、女性だってことで下に見られることもなく皆さんに認められて第一線で戦ってる佐藤さんの方がすごいと思いますけどね」
 ね、と水瀬は周囲に同意を求める。こういう時に素直な伊達と顔の皮が分厚い河野がうんうんと頷き、白鳥と矢島は照れたのかはっきりとしない言葉をモゴモゴと口の中で転がした。一拍キョトンとした佐藤は我に返ってもう!と水瀬の肩を軽く叩き席を立つ。いつまで経っても詰所のコーヒーメーカーが吐き出すコーヒーは不味いので、かわいい後輩のために自販機まで息抜きがてら向かおうと思ったのだ。ここぞとばかりにその後ろを白鳥がついていったのを伊達がどうしようもないなと言わんばかりの目で見送った。目暮が疲れているだろう白鳥を慮って一時張り込みから外して警視庁に戻してやったというのに休まずに佐藤を追っているのだ、伊達がため息をつくのも仕方がなかった。
「……萩原さんもっすけど、人タラシっすよね」
 矢島が伊達と河野に耳打ちをするようにして作業を再開した水瀬を指差しながら呟く。伊達は「萩原ほどタチ悪くないだろ」と笑う。
「何、萩原ってそういう感じ?チャラい見た目はしてるけど」
「その気になって泣かされてる女子、俺がどれだけ見たと思います河野さん」
「萩原のこと嫌いになりそうだから知りたくないな」
 河野壮琉(こうのたける)、32歳。独身彼女なしである。朝ドラの俳優に似ているとかでざわつかれる爽やかな容姿をしているが、あまり愛想が良いわけではないのと、仕事に一途で他が疎かになる典型的な男なため浮いた話がない男だ。優秀ではあるためこの歳にして既に警部補、警部に上がる話も出ているほどだ。
「伊達は彼女大丈夫なのか?もうずっと会ってないだろ」
「毎晩電話してるんで」
「伊達さんマメっすね〜」
 見た目によらずと副音声が聞こえそうなほどあからさまに矢島が感心した声を出した。もう長い付き合いになる伊達の交際相手であるナタリーには、当たり前だが事件の詳細を言えるはずもない。ただどうしても大きな事件を追っていて会うのが難しいとだけ伝えている。伊達なりの聞かないでくれ、を正しく読み取って深く聞いてこないナタリーに甘えているのが現状だ。松田と萩原の自宅に交互に邪魔しながら、たまに自宅に寄って掃除をする程度。ナタリーに合鍵も預けているが早々に自宅にメモを置いてあまり出入りしないように伝えている。ここまでわがままを通しているため毎晩の通話など伊達に取っては苦痛でもなんでもなく、ナタリーを繋ぎ止めるための手段でしかなかった。振られてもしょうがないほどの対応をしている自覚が伊達にはあった。そしておそらくそこが忙しいからといって振られてしまう男と伊達の違いだろう。合わせてナタリーが賢かったのも幸いして、伊達が何か事件に巻き込まれているのを察して時折心配そうにすらしているものだから伊達としては申し訳が立たない気持ちでいっぱいだった。
「水瀬」
 ガサガサに掠れた声がテーブルに落ちる。呼ばれた水瀬はハッとしたように顔を上げて振り返った。振り返った先にはジャケットを脱いだ松田がおり、サングラスの代わりに耳にペンを乗せていた。眠たいのだろうか、普段はぱっちりとしている瞳も半分落ちている。
「手空いたらこっち手伝え」
「水瀬さんの手はあかないだろ」
 河野が呆れた声で咎めるも松田は顎で萩原が座ったままの床を指す。目を向けた先で萩原が満面の笑みで水瀬に手を振っていたため水瀬は困った顔で河野を見上げた。こういう時は年長者に指示を仰ぐべきだろう。最優先は手紙の和訳、おおよそ7割ほど終わっているがまだ完遂には程遠い。河野が腕時計を確認する。水瀬が来てまだ30分、だが日中に合間を縫って水瀬が和訳を進めていたこともあり実は本日ノルマは完了している。水瀬には悪いが河野も松田がこうと決めたら折れない性格であることをわかってきているため溜息とともに松田へ許可の頷きを返した。河野も前回のSub女性連続暴行殺人事件の際水瀬の意見と考えで事件が急展開を迎えたことを伊達に聞いていたため、松田の考えが多少なりとも読めたのも要因の一つだった。
「ただし普段通り、8時前には帰宅させろよ」
「わーってます」
 座ったままの水瀬の腕をとり立ち上がらせて引き摺るように拉致していった松田を3人は呆れた目で見送った。


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投稿日:2022/1105
  更新日:2022/1105