鴨跖草の遺言


 まだ降谷と風見に生存を知らせていない頃。諸伏は水瀬と生活をするうちに、自分のダイナミクス欲求が具体的にどういうものか、なんとなくではあるが自覚するに至った。本来Subとは甘やかされたい、褒められたい、虐げられたいという受け身の欲求が多い。そのためダイナミクス自己診断などの精神鑑定テストでの問答集でも、どういったことを「されたいか」を確認するものとなる。諸伏は高校、大学、警察学校入校時、そして公安所属後にこの診断を受けているのだが毎度回答が異なりその上放置を求める回答に関しては安定して花丸なためウルフタイプなんだと思われていた。
 ウルフタイプとはバニラやレオと異なり、基本的には1人を好む傾向がある。かまわれることを良しとせず、しかし心を許せば尻尾を振る。だがウルフにしては心を許した相手であるはずの降谷とケアの相性が悪く、一度試した後お互いに「もう二度としないでおこう」と鳥肌を立てる結果となった。ウルフではあるがたとえ信頼できる相手であろうが欲求が働かない。だからダイナミクスの欲求など皆無なのだと諸伏は思っていたし公安での評価もかねがね齟齬がなかった。
 決定打となったのは諸伏が恐縮する水瀬を押し切って家事のほとんどを取り仕切り始めてからだ。プライバシーもあるため水瀬の寝室の掃除と水瀬の洗濯物以外は諸伏が担当し水瀬の生活をサポートした。その全てに逐一礼を告げてくる水瀬を見てほっこりとし、ああ和むななんて思っていた諸伏は寝室として間借りしている書室で決定的なものを発見した。
 辞書のように分厚いその本は、英語で書かれており専門用語で多少躓くことはあったものの諸伏でも内容を理解できるものだった。「趣向図鑑」と称されたそれは、まさしく古今東西さまざまな人種のダイナミクスに関する欲求を事細かに記していた。トータル1500人のさまざまな趣向について記されており、一般的に知られる趣向の分類で大まかに分かれていたものの、分類不可の趣向も多く記述がされていた。興味深かったのはそのタイプに分類された人物の実際の生い立ちや性格、また相性がいいとされるパートナーの趣向などもびっしりと書かれていたことだ。暇つぶしにと読んでいたそれを気がつけば脳に焼き付けるようにして読み込んでいた。もっと早くにこの本に出会っていれば潜入捜査もスムーズだったろうなんてことまで考えてしまうほどにいくらでも悪用できる知識が詰め込まれていたため諸伏は精神科医が裏社会に引きずり込まれないことを切に願った。
 そしてそこに記されていたある趣向が、分類不可の「主導を握り、尽くしたいSub」というものだ。まずタイトルからして違和感を覚えた。そもそも主導を握りたいというのは支配されたがるSubの性質に反している。それなのに尽くすとはどういうことかと読み込めばなるほど。このタイプの傾向として、まず自身で思考の上で発言をし、それを「許容される」という点に重きを置いているらしい。そのためあくまで主導権はSub自身にある状態でなければならない。主導権は握らせることを良しとはしないが、尽くしたがりではあるためパートナーとなった場合にはとことん管理を行いパートナーの望む生活を整えるという。行き過ぎると監禁を行なっているケースもあったと最後の行に記されていて諸伏は思わず「わー」と声を出した。最後の行以外はわかるわかると共感しながら読んでいてしまったため、驚きはしたものの納得してしまった諸伏である。
「だからゼロと相性悪かったんだろうなって」
「なぜそれを俺に語った?」
 水瀬が不在時、水瀬の家へと諸伏に秘密裏に会いに来ていた降谷は難しい顔をして滔々と語り出した諸伏に隠すことなく嫌な顔をした。降谷も諸伏の話に納得する部分がないわけではない。だから諸伏は診断結果があんな形になっていたのか、だとか尽くしたいと思う相手がいなかったからこそ欲求も現れてなかったのか、だとか。降谷と相性が悪いというのも頷ける。降谷は相手を甘やかしたいタイプであるし、主導権はもちろん握っていたい。言われてみればほぼ同じようなことを相手に求めているのだから、合わないのも無理はなかったわけだ。ただのマウントの取り合いでしかない。しかし今の話を統合すると、世話になっている水瀬に隠れ、その欲求を解消していると言うことだ。
「手は出すなよ」
「出すもんか」
 心外だとばかりに諸伏は目を見開く。思ってもいないことを言われたとばかりの様子に降谷は目をぐるりと回した。
「お前な……尽くしたい相手であることは間違いないんだろ」
「うーん、というか俺の周りに今まであんなにも無防備に言いなりになってくれる子がいなかったから……よくわからないや。そもそも今は保護対象として一緒にいるだけだし」
 諸伏はここぞという時には非常に頑固な男ではあるが、基本的には荒波を立てずに相手に合わせる度量がある。欲求が薄いのも相まって主張してこなかった結果、いい歳になってダイナミクス欲求を「よくわかんない」で片付けてしまう残念な幼馴染に降谷は若干の目眩を覚えた。言い分はわからなくはない、主導権を渡すDomなど相当希少だろう。降谷など想像しただけで鳥肌がたった。ダイナミクス欲求解消の難しい点は、たとえ趣向が合致してもDom同士ないしSub同士でプレイしてもなんの意味もない事だ。そのため諸伏が大半のSubには受け入れられるタイプの欲求を持っていたとしてもプレイしたところで欲求不満は解消されないのだ。SwitchだとしてもSubに寄っていなければ主導権まで渡すことを良しとする者は滅多にいないだろう。ふと降谷の脳裏に水瀬はDomの状態でそれを許容しているのかという疑問がよぎったがひとまずは幼馴染を諌めることに注力することとした。
「ヒロがいいなら別にいいが……迷惑はかけるなよ」
「え?俺の欲求で迷惑かけることある?」
 水瀬の生活を整え支えているだけで欲求が解消され元気に成るのだ。これ以上ないほど無害だろうと諸伏は胸を張る。行きすぎるケースのことは忘れたとばかりの諸伏だが、降谷は聞いたことはそうやすやすと忘れないタイプだ。ギョッとする内容だったからこそ余計に、忘れたくても忘れられないだろう。「俺度がすぎると仕舞っちゃうおじさんになるらしい」なんて言われたら誰だって脳裏に焼き付くほどのインパクトだ。そして諸伏が執着の結果監禁に走る様をうっかり想像できてしまった降谷は1人でダメージを負った。嬉々として報告してくる諸伏が脳裏に浮かんでしまったのだ。やりかねん、あんまりにも想像の諸伏がリアルで降谷は慌てて考えを振り払った。拘ると異様な執着を見せる諸伏を知っている降谷だからこそあまり笑えない情報だった。
「その道のプロなんだから水瀬さんそれも把握した上で好きにさせてくれてると思うし平気だって」
 諸伏は思い出すように空に目を向けて「そもそもこの本も水瀬さんのだよ」と降谷に見せていた本を指さす。今思えば諸伏からレシピを教えてもらえるように誘導したり、同居が始まってからは多少申し訳なさそうにはするものの家事を任せてくれたり。その上で褒めてまでくれるのだから水瀬が諸伏のダイナミクス趣向を把握していないとは言い難い。お陰で諸伏は今までにないくらい好調だった。開き直って水瀬に対しては我を通した方がよっぽどいいと考え直したともいう。
「むしろゼロこそ迷惑かけてるんじゃないか?なんだかぎこちないし、気を遣いすぎると水瀬さんも気にするぞ」
 降谷の微々たる変化を察していた諸伏はちょうどいいとばかりに問いかける。水瀬を前にしているときの降谷はどこか丁寧すぎるのだ。喧嘩をした後降谷に非がある比率が高いとき、諸伏の機嫌を伺うように殊更萎縮して様子を伺ってくるのを知っている。最後にこの降谷を見たのは大学の時だったが、変わっていないようだと諸伏は頬杖をつきながら笑う。
「謝ったの?」
「……謝らせてしまった」
 多少踏ん切りがついていたとはいえ、言い当てられてしまった降谷は観念したように盛大に項垂れて諸伏に泣きつくように言葉を落とした。調子がいいときの諸伏は降谷がいやになるほど優秀だ。
「謝ってきたってことは水瀬さんもゼロに悪いことしたって思ったってことだろ」
「いや……全面的に俺が悪い」
「そうかも知れないけど、水瀬さんがどう思うかだ」
 思わず降谷は諸伏を睨む。降谷とてわかっている、もう謝罪の応酬を終わらせてしまった以上、降谷の中だけの問題なのだ。だからってそんなに投げやりにしなくてもいいだろうと降谷は幼馴染の雑な返答にむくれた。
「ゼロがそうやってジメジメしてたら水瀬さんも気がつくだろうし、下手したら精神科医として落ち込むかも」
「……言いたいことはわかるんだが、精神科医のメンタルを気にする余裕があると思うのか」
「実際気にしてるじゃん今」
 図星を刺された降谷は閉口した。
「そんな余裕ないんだから、大人しく水瀬さんを甘やかしてケアさせてもらったほうがいいし水瀬さんも休まるんじゃない?」
 ほらウィンウィン、なんて言ってピースして見せた諸伏は自分が水瀬と共同生活をする上でどこまでも悩みいかに負荷にならないようにするか悩んでいたことを棚上げして無責任に笑う。潜入捜査をしている片手間で、ケアを含めての面談のために定期的に会う水瀬に対して気を遣って余計に自身の負担になるのは本末転倒だ。降谷も諸伏もそれはよくよく理解していた。
「因みに何したか聞いてもいい?」
「断る」
「だよな」
 ケラケラと笑った諸伏は「時間いいのか?」と降谷を待っているだろう風見のために幼馴染を追い出す方向へと会話をシフトさせたが「まだ大丈夫だ」とへそを曲げた降谷は、結局水瀬が帰宅するまで居座ったのだった。

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投稿日:2022/1107
  更新日:2022/1107