鴨跖草の遺言
「ゼロってドイツ語行けたっけ」「目下勉強中」
降谷のハイスペックぶりに引きながらも、淀みなく単語を和訳するのを横で見てどこが勉強中なのだろうと諸伏はげっそりとした。降谷の中の「いける」ラインのハードルがあまりにも高いせいで勘違いされがちだが、この雰囲気は現地に放り込まれても全く問題なく会話が可能だろう域だと察する。
「松田と萩原が試したっていう調査の資料は格納されてないな、あいつらアナログで作業してるのか」
「あ〜、何かと紙とペンの印象あるな確かに」
2人のぼやきに水瀬も「床で紙の山に埋もれて作業してますよ」と微笑んで告げる。食後にと緑茶を入れてきた水瀬は降谷と諸伏に湯呑みを差し出す。集中している降谷と諸伏は気がつかないまま現場に残されていたという数列を眺める。
「数字の羅列自体に意味は見出せないなやっぱり」
「パッと見たところなんらかの規則性や数列を使う暗号の共通点もない。実際警視庁に届いたという手紙から単語が導き出されているのであればそこまでは間違いないんだろうが……問題はその後か、こうも用意周到な犯行だ。残された意味が何かある」
「警察への不満とか非難だけじゃどうも違和感があるしね」
「キーが足りていないのか?」
水瀬と同じ考えに至った降谷はふむ、と考えながら視線をずらし湯気のたつ湯呑みに気がつき水瀬へ礼を伝えた。しかし手は伸ばさない。降谷の様子に呆れた諸伏は躊躇いなく湯呑みの中身をずず、と飲み込んだ。ここにきてまだ疑うか?降谷の中では疑うまで思考が届いていなかったものの、無意識的に脳内で却下の判断が下った結果だった。公安2人の内心など全く気がつかない水瀬は呑気に「よかったらメモにどうぞ」と降谷と諸伏が考察できる環境を整えている。
「警察を目の敵にしてるのは間違いないんだろうけど、目的が読めない」
「今更というのもあるが……逆に言えば今である理由が別にあるのか?」
降谷のぼやきに水瀬はなるほどと目を見開く。住人を殺すという過程で6年経ってしまったのだと思っていたがそう考えればまだ2名残っている状態にも説明がつく。残り2人を殺す前になんらかの理由があり計画を早めたのだとしたら。
「殺された順でのアナグラムならあいつらも試してるだろうし……」
諸伏の言葉に水瀬は頷く。松田と萩原の涙ぐましい努力の経過をポロポロと水瀬が語れば降谷は「見境がなさすぎる」と顔を引き攣らせた。
「他に使っていない数字は……生年月日、アパートへの転居日……これは不明だな。あとは部屋番号と住人の年齢か?」
部屋番号。大きなファクターではあるが確かにそれで並び替えはしていないと水瀬は降谷の発想に感服する。そして詰所のホワイトボードの違和感を思い出し、原因が部屋番号が書かれていなかったことだと気がつく。過去の事件ファイルを検索する際、佐藤と水瀬は部屋番号順に調べていたのだ。その順序がホワイトボードだと死亡順となっていたため水瀬の中では見慣れない順序となり違和感を発生させていた。諸伏がルーズリーフに手を伸ばし、部屋番号と住人の名前、生年月日そして死亡日を書き連ねていく。部屋番号、死亡順。水瀬の中でその並びに引っかかるものがあった。水瀬も実験時に使っていたノートの余りに手を伸ばし、議論を続ける諸伏と降谷の横で黙々と手を進める。
部屋番号は3桁。最初は必ず1か2で始まる。これは2棟に分かれていた建物の区別をつけるためであり、下二桁が純粋な部屋番号だ。そして部屋番号は01から始まり20で終わる。つまり棟が違っても部屋番号が重なることはない。101から110、そして211から220まで。
―― 気持ち悪りぃな、こんだけびっしり書き込まれてるくせに同じ組み合わせが一度も使われてない
松田の言葉が脳裏によぎる。例えば萩原が爆破事件の関係で記憶していた芝田は108号室。死亡した順番は7番目。1号棟の数字を省き08とすると、あの手紙でも良くみたペアの数字にも見える。部屋番号と死亡順は同じにはならないが、老衰として死亡届が出されていた夫婦の死亡日は別々だ。水瀬の手が止まる。
「部屋を借りてた名義人の死亡を基準とすればいいんじゃないか?」
睨みつけるように見下ろしていた紙に、にょっきりと逞しい指が映り込んで水瀬は跳ね上がるほど驚いた。まさかそこまで驚かれると思っていなかった諸伏は目をパシパシと瞬かせて「ごめんね」と謝る。水瀬が集中している間に諸伏と降谷も水瀬の手元を興味深そうに見下ろしていた。
「なるほど、その2つで数列ができるとして原文の手紙から単語を引っ張るのか?」
「現場の単語じゃないか?」
諸伏の言葉に降谷は続きを促すように黙する。
「例えば藤田一家の後最初に亡くなってる永守さんが1番目として……部屋番号の4番を現場に残されていた単語の4番目のアルファベットを引っ張って……」
そうなると、と降谷が手元のパソコンと照らしながら水瀬のノートに逆さまから器用に書き込みをしていく。逆から書いているというのにぶれない綺麗な文字に水瀬は「すごい」とポツリとつぶやいた。
「Marmeladinger……これどういう意味だこれ、マーマレード人間?」
警察に対する侮辱や挑発が並んでいると聞いていた諸伏は単語の意味が読み取れず水瀬へ問いかける。なんとなく悪態だろうということはわかっても意味までは把握できなかった。わからないと言いながら諸伏もドイツ語のリーディング能力はしっかりあることに公安の優秀さが覗き見える。
「第一次大戦時、ドイツ兵が安いマーマレードばかりパンに塗って食べていたことを起因としている民族的な差別用語だ。案外食べ物に関する侮辱の言葉って多いんだよな、海外って」
「さすがゼロ。でもそうだとしたら警察への罵声というより民族批判のスラングってことだろ?まあ、松田はひっかかりそうだなこういうの」
「書いたのは日本人だろうし、そんなに詳しくないんだろ。現に手紙のほうの文法は滅茶苦茶だ」
「国テロも動いてないんだっけ」
水瀬が口を開く前にすらすらと解説をした降谷に諸伏が笑う。スラングまで抑えておいて勉強中はないだろう。国テロ――警察庁外事情報部にある国際テロ対策課はその名の通り国際的なテロ組織の対策を行う課だ。動いていないと言うより、他国にて似た事件が発生していないかどうかの確認は取られ、関連性のある事件がなかったことから国テロでの捜査はクローズしたのだ。
「4番目のアルファベットがMか」
水瀬はどうぞとノートをひっくり返して降谷へと差し出す。集中し始めた降谷は「うん」とぼやくようにつぶやいて次々に追記していく。
「MPHP S……死亡推定日がわかっているから抜けの場所はわかるが意味のある単語になるか……?」
「そこからさらに並び替える?死亡順の意味がなくなるか」
降谷と諸伏が外れか、と次の方法を検討しようと頭を切り替えている間、水瀬は呆然と読み上げられた単語を頭の中で繰り返す。
「あの……降谷さん。見せてもらってもいいですか?」
「ああ」
差し出された紙を眺め、全ての文字を目にした水瀬は険しい顔で考え込む。警察への挑発、藤田一家の死亡の経緯、6年の沈黙と今になっての警察への接触。老夫婦の片方を抜き14名分のアルファベットだとしたら。水瀬が震える指先でスマホを操作するのに気がついた降谷は手を止めて水瀬へと声をかける。
「どうした?何かあったか?」
「……藤田直哉さん、精神病棟で投身自殺ですよね」
「それがどうした?」
「病院どこですか」
ただならぬ水瀬の雰囲気に降谷もすぐに資料を引き出し確認をする。諸伏は水瀬が眺めていた紙を再度眺めながら顔色すら悪くする水瀬に眉を顰める。水瀬が求めていた情報はすぐにヒットした。
「警察病院だ」
口に手を当てて項垂れる水瀬に諸伏は立ち上がって水瀬の隣へ移動した。背中をさすってやりながら水瀬が見ていたスマホを取り上げる。画面は6年前のとある記事。諸伏も記憶にある……記憶に新しい名前の載った記事だった。諸伏の前任者が潜入を諦めるきっかけとなった政治家、田城の記事だ。ダイナミクスをコントロールする薬を開発するために多額の費用を国立研究所へ回す政策を打ち出したという内容。田城議員はダイナミクス関係における政策を担当する役職についているため、表立って話す内容はダイナミクスに関することばかりだ。
「……なるほどそういうことか」
納得したように降谷は水瀬の手元にある紙に目を向ける。
「MPHで単語が切れるとすれば、Metropolitan Police Hospitalの略称だ。そうなると続く単語はおそらくPsychiatrie、警察病院の精神科」
意味のある単語になると降谷は険しい顔で呟いた。諸伏が感心したように目を瞬かせ、そして首を捻る。
「藤田直哉が死んだ場所、か。田城議員って何かあった?」
「それは俺も知らない……水瀬さんはどうしてその記事を今調べた?」
降谷と諸伏の視線に水瀬がおずおずと話し出す。
「ずっと、金田さんの事故現場にあった鷹という単語に引っ掛かりがあったんです」
ブッサルト。ポツンとつぶやいた水瀬に降谷は驚愕に目を剥く。Bussard。正確に和訳するとノスリという鷹のことだ。水瀬が鷹と訳すのも無理はない、この場合どのように和訳しても犯人の意図するところをすぐに読み取ることは不可能だったろう。和訳することが、そもそもの間違い。
「死の医者、人名か」
「ああ!」
思い至った諸伏が声を上げて驚く。医学会でも有名なその医者は、戦時中権力を傘にかけて人道を外れた人体実験を行った医者として知られている。多くの人が犠牲となった凄惨な実験。開発中の薬物を杜撰に投薬しデータを取った非倫理的な史実を残した人物の名がブッサルトだった。
「6年前、田城議員の政策によってダイナミクスコントロールのための研究費用が国から補助され……色々な薬の開発が進みました、警察病院とも提携していたはずです」
「……まさか」
ゾッと、諸伏と降谷の血の気が引く。精神安定のための薬の開発、警察病院との提携。その場所で精神を崩壊させて死んだ藤田直哉。人体実験を横行していたブッサルトの羽を剥ぎ取れという犯人からのメッセージ。
「警察病院で人体実験を行っていたってことか」
諸伏の力のない声がリビングの中で反響するように唸った。
投稿日:2022/1125
更新日:2022/1125