鴨跖草の遺言
フレンツヒェン・グッテンベルク。ドイツにて医師免許を取得後、ベルリンにて精神病院を開業。甥に病院を引き継ぎ、世界各国にあるダイナミクス研究機関や大学を渡り最終的に8年前に日本に腰を据えた。厚労省から認可も降りた上で日本の国家医師免許も取り直している。来日してからも多くの論文を出しており、48という年齢にそぐわない輝かしい経歴を有している男。妻子はなし。
「雰囲気は河野さんに似てますね」
妻子なしの発言を聞いた直後の萩原は綺麗に失言した。
「グーはやめて!」
河野が無言で拳を振り上げたのを見て萩原は慌てて資料の束で頭をカバーした。圧だけを纏わせた河野の笑みに風見がひくりと喉を震わせる。見た目の割りに肉体言語に訴えることの多かった河野から愛ある拳を多々受けていたため反射のように当時受けていた痛みを思い出してしまったのだ。
「この歳、このスペックで結婚してないと逆に勘ぐりたくなるものはあるけどな」
伊達がボソ、と河野に聞こえないような音量でぼやく。ちなみに伊達は河野が結婚できない理由は理想の高さだと思っていた。なにせ自分にどこまでも厳しいタイプなのだ、その分相手に求めるハードルも自然と高くなっている。加えて仕事人間のため警察に相当理解のある人間でなければお付き合いどころか友人にすらなれないだろうと伊達は推察していた。
「警察病院の精神科ごと調査対象ではあるが、このドイツ人医師に関しては重要参考人としてマークを厳しくする。予定通り萩原は患者として病院へ行ってくれ。手配に関しては高井さん、お願いします」
風見の言葉に萩原が了解の返事をする。支持を出された高井――詰所唯一の女性刑事が、資料の入ったタブレット端末を操作しながら頷く。フレンツは現在患者をとっていないため担当になることはないだろうが、と風見は付け足す。
「そもそも水瀬に診てもらってる前提の萩原が紹介状もなく警察病院に行ってもいいんですか?俺は警察病院にかかったこともあるからまだ目立たないと思いますけど」
伊達が潜入捜査に自身をなぜ入れないのかと怪訝な目で風見を見る。
「伊達に患者は愚策だろ、殺人犯がいる可能性も高い」
松田が指先で画面をスワイプしながら伊達を諫めた。病院に伊達が行くのであれば、萩原の付き添いが限界だ。伊達経由で警察病院を紹介されたという筋書きが妥当だろう。風見も同意見のため元から伊達の名前を出さなかったのだ。犯人がいるかもしれない可能性のある場所に患者として行かせるのはリスクが高すぎる。頓服薬の処方なら防げるが点滴や注射などでは断るのが難しいだろうと水瀬も苦言を呈し伊達は納得する。
「水瀬さんが紹介状出せる関係者はいらっしゃいますか?」
高井の問いに少し考えた水瀬はしっかりと頷く。
「お一人だけ……Domの先生です」
「じゃあ水瀬さんと予定が合わなくて面談できなかったってことにしておこう、学会も近いからってことで有給使ったとか適当言えばどうとでもなる」
河野の言葉に萩原も納得したように頷く。言い訳自体はうまく行くだろうと確信しているが、水瀬以外の医者にかかるのが久しぶりなためそちらの方が心配だ。本当に体調ガタガタになったらどうしよう。萩原は億劫そうにため息を吐き出す。
「河野さんは?」
「当日軽く変装してウェイターで潜る」
ちなみにウメジも。河野は今日も今日とて入り口付近で作業をしている高伊を一瞥することなく親指で指した。2人のウェイター姿を想像して目立たないか?と思った萩原と松田は揃って眉間に皺を寄せた。一歩間違えればホストにしか見えないだろうと思ったのだ。
「フレンツと面識は?」
「あります、一昨年セミナーでご一緒して」
風見の問いかけに水瀬が答える。水瀬の印象では日本語の上手い物腰柔らかな紳士、Domにしては気を配るのが得意なのか水瀬がペンを落としてなくしたことにいち早く気がつき予備のものを貸してくれたのをよく覚えている。もうすでに警察学校への入学を心に決めていた時期だったが、熱心に警察病院への就職を勧められたことも記憶していた。
「なら向こうから勝手に水瀬にコンタクトはとってくるだろうな」
「他の学生にも同じように声をかけていたと思うので……どうでしょう」
覚えられていないだろうと水瀬は苦笑する。しかし数少ない女医の卵だ、女性というだけで衆目もあるだろうし記憶にも残るもの。男性陣は心を一つにし松田に目を向けた。
「松田」
「めんどくせぇ」
代表して風見が言外に頼むぞと松田へ釘を刺す。ずるりと椅子にずり下がった松田は恨めしげに水瀬を睨んだが当の本人は本気で会話の意味が読み取れなかったのだろう、困った顔をしていた。頭いい癖にふざけんなよと松田は噛みつきそうになったがため息を吐いて溜飲を下げた。
「調査したところ懇親会の主催はフレンツらしい」
「学会開いてるのとは別でってことですか」
「学会に関しては日本ダイナミクス研究協会が例年開いてるもの、その後の懇親会についてはフレンツが個別に声掛けって感じだな」
「お前主催に個別に声かけられたって言ってなかったか?去年出なかったとかで」
「去年は警察学校にいたので……」
「そりゃ参加できないわな」
「学会側じゃなくて懇親会に声かけられてるってことよね?」
ええ?と水瀬がスマホを操作して教授から来たメールを見直す。主催から、と書かれている部分に詳しい話は書かれていないためどちらとも取れる内容となっており画面を横から覗き込んでいた萩原は口角を引き攣らせた。
「水瀬ちゃんまじで参加して大丈夫?カモネギになってないこれ」
「……そもそもフレンツが黒かどうかも不明だ、踏切事故の金田のタイミングだとアリバイもある」
「フラー事件の犯人と人体実験疑惑はまた別問題じゃないっすか。それに単独じゃなくて集団での反抗ならアリバイなんてあってないようなもんだし」
河野のフォローにならない言葉に萩原が項垂れる。ヤダヤダ怖い、両手で顔を覆って雑にごねて見せる萩原に河野も風見も思わず笑う。
「それを調べに行くんだ」
しかし無慈悲に風見は萩原を切り捨てた。松田は出会い頭からうっすら感じていたが、風見とは仕事がしやすそうだと改めて思い笑う。伊達の相棒の河野もこの様子では普段から相当出来るのだろう。目暮班と合同調査の時は特段そうは見えなかったが、目立たないよう振る舞っているのだと確信する。公安とは恐ろしい集団だ。
「俺ぜってー公安向かないわぁ」
「同感だ」
萩原が草臥れた声でそんな弱音を吐いたので、松田もケラケラ笑って同意してやった。
投稿日:2023/0120
更新日:2023/0120