鴨跖草の遺言
シンポジウムの開始時間は午前9時。昼を挟み午後3時で終了となり、夕方6時から懇親会のスケジュールだ。午前中の討論を終えて1時間の昼休憩で公安が抑えた小料理屋の個室に急足で戻ってきた風見は心なしかやつれていた。
「お疲れっす」
「いやぁ俺らも盗聴器で聞いてたけど全部英語……しかも結構闇鍋形式で多国語が飛び交うとは思わなかったねぇ」
高伊が唐揚げ定食をつつきながら半目で風見を憐れんだ。ただでさえ専門用語が多く理解も難しい内容をディスカッション形式でなかなかのスピードで話されると聞いている方は疲れるものだ。医大生のふりをして潜入していた風見はたった数時間で老け込んでいる。
「なんの話をしていたのかもわからなかったな」
「俺もだめ〜」
伊達と萩原はあははと笑いながらこちらも定食を食べ進めている。今日に至るまで二度ほど、萩原が患者としてアプローチをかけたが特段不審点も無くカウンセリングを受けただけで終わっていた。萩原が取調べ中に死亡した容疑者について質問を投げかけたが、萩原を担当した医者は心を痛めた様子を見せただけで、当たり前のように詳細は伏せられてしまった。
「はい風見さん」
「ありがとう」
「にしてもあの空間に数時間ってなかなかに苦痛ですね」
萩原が横に立てかけていたメニューを差し出しながら風見に理解できたのかと問いかけた。わかりにくいもののほんのりと笑みを浮かべて礼をいう風見を見て、萩原はこの人後輩にも好かれるだろうなと胸裏にて感想を抱いた。
「ダイナミクス受容体は五感全てにあるという定義から、視覚と聴覚以外の場合はどのように受けているのかと言う議題。動物や昆虫における触覚、および嗅覚の受容体がいかにして発展してきたか、それを人間に当て嵌めた時伝播遺伝的にロジカルがどこにあるかを小一時間話していたがそこからの詳細は理解できなかった」
「日本語にされてもわかんねぇ公安スンゲェや」
行儀悪く箸を咥えてパチパチと手を叩いた萩原は風見を称賛した。学会潜入を心からやらなくて良かったと盗聴しながら思っていた伊達と萩原、そして松田である。配られた資料にも医学生らしくそれらしいメモまでしている徹底っぷりに刑事部の3人は感心してみせる。こういうことを指示もなくサラッと自己判断でできるあたり風見の優秀さが透けて見えた。
「よく出てたドムスケアってそもそも何?」
「Domが興奮状態になって攻撃的になることだろ、厳密には違うらしいがざっくり言えばサブドロップと逆の現象だな」
「あれって名前あるんだ」
「警察学校で習ったと思うが」
「陣平ちゃん大丈夫なの?」
「俺は別に医学生で潜るわけじゃねぇ」
まさか習っていたとはとあからさまに焦って話を変えた萩原は、生姜焼きを大口を開けて食べる松田に矛先を向ける。こんな議論を繰り広げる連中の中に飛び込むなんてすぐにボロが出そうだ。
「事前にも説明してるが、懇親会の方は家族友人パートナー、参加費さえ支払えば参加は可能だ。医学に明るくないやつが潜っても目立たない」
すでに食べ終えてノートパソコンを叩いている河野が視線を上げずに淡々と語る。今日までの間、松田をこれでもかを扱いた河野は繕うことなくその優秀さを遺憾なく発揮していた。指導の様子を知らない萩原と伊達はやや不安気に松田を見やる。苦労も知らずにこいつらと青筋を浮かべながら松田は2人を睨みつけた。自らの提案を早々に後悔するほどに河野の指導はわかりやすくも厳しいものだった。何せ言動に違和感がある場合や情報収集するべき場面で相応しい態度を取れない場合、河野の手足が飛んでくるのだ。指導と同時にしっかり上下関係まで叩き込まれた松田である。それでも松田が態度を豹変させないところを河野も気に入ってより指導に熱が入ったのは余談だ。
「渚ちゃん昼時も難しい話してるわぁ、すごいなほんと」
怪しまれるとまずいため水瀬は大学時代の知人に誘われた先で昼食をとっている。腕時計に仕込んでいる盗聴器にて随時会話は確認しているがこちらもめぼしいものはないと高伊はほうじ茶を喉に流し込んで両手を合わせた。
「ごち、んじゃ俺ホテルの方の班に様子聞いてきやっす」
「ウメジ、ついでにF5の監視カメラの位置調整させろ、遮蔽物で使い物にならん」
「タケさん人使いまじ荒ぇ〜うっすすんません行ってきます」
タケさん――河野壮琉にニッコリと微笑まれた高伊は気怠気な雰囲気をぴゃっと仕舞い込んですかさず敬礼し個室から出て行った。怖すぎだと萩原は顔を引き攣らせたが、伊達から見ればキレている時の萩原と大差はなかった。松田は高伊と同じように姿勢を正していたがそれに気がついたのは風見だけであり、理由を察したのか無言のまま注文のために呼び出しボタンを押した。すぐにやってきた店員に注文を済ませ同時に渡された湯呑みを風見は両手で囲った。
「朝田の方は」
「君らの同僚が引き続き警護してる、高井さんにも張ってもらってるが問題なしだ」
風見の言葉を聞いて諦めが悪そうな同僚を多々思い浮かべた捜査一課3名は各々目をついと逸らした。
「にしても犯人はこれを警察にリークしてどうしたかったんだろうな」
「真っ当に考えるとすれば、警察病院での実験被害者に身内がいたんだろう。どうやって知ったかは不明だが……まあ内通者がいれば簡単に知れるか」
パタンとパソコンを閉じた河野が変装用の伊達眼鏡を外して肩を回す。普段整えている髪をワックスで乱し、私服をラフなものにするだけでグッと若く見える。スーツで隠れている首元にはシルバーのチェーンも見えており小物での小細工も完璧かよと萩原は思わずため息を吐いた。これが恐ろしく似合っているのだからまた憎い。ウェイターの短期バイトにいても全く違和感を持たせない見てくれ、20代半ばでも通じるだろう。
「内通者なぁ」
「順当に考えれば、まあ俺だろうな」
伊達がなんでもないように茶碗蒸しを突きながら吐いた言葉に萩原は胡乱げな目を向けてしまった。松田も「お前がいうなよ」と呆れた顔をしている。
「疑い晴らすためにもちゃんと見張っててくれよ」
「やりにくい!!」
萩原も自身に課せられている使命をきっちり理解しているように叫ぶ。明るくないやりとりのはずが、どうしてかその場を和ませる空気があって風見は何度目か、さすが降谷の同期と感心した。同期だから疑っていない、という姿勢ではなく萩原も松田もしっかりと伊達の護衛兼監視を務めていた。言わずともそれをこなすのだからやはり侮れないと風見は二人を評価する。
「お前の察しの良さと裏を知った上でまっすぐでいられるところは美点だな」
河野が伊達に視線を向けてふっと笑う。伊達も、同期だからと手を抜くことはないだろうと松田と萩原を信用して見せた河野に普段通りの笑みを浮かべて「ありがとうございます」と素直に礼をいう。探られて痛いものがないからこその余裕の笑みだ。もちろん、人間性を考えて伊達が内通者である可能性が限りなく低いということをこの場の全員が理解している。だからこそ、違うという証明をするために疑わなければならないのだ。河野は笑みを引っ込めて真剣な表情で口を開く。
「フラー事件のおり、住人全員が警察病院の精神科にかかっている。その中で精神を崩壊させたのは容疑者として聴取を受けていた藤田だけ……謂わば藤田は理不尽を警察と、そして病院に負わされている可能性が高い」
「逆恨みとするなら藤田直哉の身内を洗うのが早いだろうと確認したらしいですが、天涯孤独。遺体も無縁仏で一時的に市役所で管理後共通墓地に入れられたと」
「でも嫁の親戚いましたよね?」
伊達が首を傾げて風見に問う。
「いたが駆け落ち同然で藤田と結婚してる」
「あー、それは……」
萩原が顔を顰めた。その上家族を殺した容疑者として上がってしまったのだ、藤田直哉が妻の親戚に引き取られることがなかったのも致し方なかったのだろう。ちょうど重たい空気のタイミングで風見の頼んだ蕎麦が届く。「いただきます」と丁寧に手を合わせた風見を横目に河野は大きく息を吐き出した。
「いずれにしろ警察病院が絡んでいることは確か、民間人には警察は証拠がないと動かないなんてよく言われるが証拠を探すために無駄な捜査を9割行ってるのが実情だ」
無造作にテーブルに肘をついた河野はふっと笑う。
「もちろん確信がなければおおっぴらにも動けんし、動員も避けない、費用も回せない……それは表も裏も同じだ」
よく揶揄されることだ。被害があってからじゃないと動いてくれない、何もしてくれないじゃないかと叩かれる警察官は多い。だが、怪しいだけで動いた時に警察が周囲に与える影響を松田も萩原もよく知っている。誤認によってもたらす余波はなかなか消えずに残るのだ。それほどまでに警察という組織の負う責務は重く容易ではない。間違っていましたじゃ済まされないものも多くあるからこそ慎重にせざるを得ない。だがそれが後手になっていい理由にももちろんならない、ひどいジレンマだ。
「元々この件……人体実験の可能性が出た時点で公安はすぐ動いた。結果それなりの確証があったからこそここまでしてる。だがそこに犯人の思想、動機まで見出せなかった」
犯人像すら不明だと河野は告げる。単独なのか複数なのか、意図も目的も不明瞭。罠の可能性だって十分あり得る。しかし確証が得られた以上見過ごすことができない闇が存在し、そこに飛び込むしかできないのも事実だった。切り替えるように姿勢を正した河野は風見に一つ声をかける。
「さっきお前の端末にデータを送った、今日判明した追加の参加者リスト……目ぼしいところでソートはしたがお前の方でも改めて確認して2時間で洗え」
「ゲホ」
すすっていた蕎麦を吹き出しそうになった風見は咽せながらなんとか頷く。2時間という期限に恐怖したが、言われてみれば懇親会までの時間を考えその上違法で家宅捜索をするとなるとそれでも長すぎる納期だと気がついたのだ。これ以上後手になるわけにはいかない、そうなると今日ある程度の片をつける必要がどうしてもある。こういう作業は降谷の指示で諸伏に飛ばせと言われていたため遠慮なく後輩をこき使うことに決めた風見はしゃがれた声でしっかりと了解の返答をした。何より河野にできると思ってもらえていることも風見にとっては嬉しいことではある、そういった意味でも苦言すら出そうになかった。
「午後の学会の間は伊達は風見のサポート、松田は再度会場の見取り図とカメラの位置頭に叩き込んでおけ。萩原はそろそろ学会側の音声耳に入れて可能であれば警察病院の医者の声を覚えろ」
ノートパソコンをリュックへと仕舞い河野は立ち上がる。
「風見、学会終わったらすぐに松田のフォローに回れ。学会で怪しい奴がいれば写真の連携だけ寄越して離脱」
「わかりました」
「まあフォローっつってもいらんかも知らんが……伊達は中谷さんから朝田の情報くる可能性があるからその連携と、ないとは思うが家宅捜索要員の公安が通報されたらピックアップする班の手伝いにまわってくれ。表との連携が肝になる、悪いが任せるぞ」
「はい……河野さんと高井さんは?」
「俺はこれから最悪の場合を想定して会場に仕込み。高井はもうホテルの裏方に潜ってもらってる。萩原、俺の相棒頼むぞ」
「はい!」
テキパキと指示を与えて最後に毒のない笑みを浮かべて退室していった河野に、全員がはぁとため息をついた。
「伊達、河野さんっていっつもああなのか」
「そうだな」
「なんというか、こう……飴と鞭がお上手」
両手で顔を覆ってモゴモゴと喋る萩原の内心を察して風見は大きく頷いた。河野は公安時代、別名「公僕育成機」として上層部からそれはもう名高く評価されていたのだった。
投稿日:2023/0219
更新日:2023/0219