鴨跖草の遺言


 急ぎ帰宅した水瀬は「疲れてるだろうけどごめんね」と諸伏に一言謝られ、着替えを用意させられたかと思えば即座に脱衣所に放り込まれた。化粧を落とすついでにシャワーも浴びてと扉越しに指示され、言われるがままに重たい体を引き摺るようにしながらシャワーを浴びる。普段の学会でもそれなりに頭を使うため疲れるのだが、今回はそれに加えて調査のために目を光らせていたのもあって心労が大きかったことが要因だろう。水瀬が見る限り特に不審な言動を見せるものもおらず、離れた席で参加していた風見から見てもそれは同意見だったらしい。やはり懇親会が本命、ここで糸口を探らなければと水瀬はシャワーの中力瘤を作った。
 普段よりも短時間で上がった水瀬は体にタオルを巻きつけて大急ぎで髪を乾かし、ハンガーにかけられていたドレスを手に取る。昨日時点で届いてはいたのだが、こうして広げて見るのは実は初めてであり水瀬はまじまじとそれを眺める。ドレスとは言ってもそこまで華美ではなく、しかしワンピースにしては普段使いが効かないだろう程度。オフホワイトで、スカートと袖の先に行けば行くほどほんのりとブルーがグラデーションで入っている。首元はしっかり襟があり、袖も七分。スカートも膝より下となっており、水瀬が諸伏に息も絶え絶えに伝えた「露出は嫌です」という言葉をしっかりと汲み取ってもらったのだろうドレス。タイトな作りで、腰回りがひどく細いが入るのだろうかと水瀬は少し心配になった。サイズなど降谷に全く伝えていないのだ。シンプルではあるが触り心地がとても良く、上品。値段を知るのが恐ろしいと思いながら水瀬は恐る恐るドレスを身に纏った。怖くてブランドのタグは見れなかった。
「おお!似合うな!」
「……ピッタリでした」
 どうしてでしょうという疑問を飲み込みながら諸伏のいる居間へ水瀬が向かえば、諸伏はすぐさま賞賛の言葉を述べた。すっぴんなど今更なためお互い気にしてはいなかったが、水瀬はドレスを着ているのにすっぴんという状態で褒められても、といささか複雑な心境となった。
「じゃあ座って、髪とメイクやるから」
「え」
「ほら早く!先に髪やるから、軽食食べて」
 ほらほらと背中を押され椅子に押し込めるように着座させられた水瀬は目を白黒させる。諸伏の言葉が理解できなかったのだ。しかし目の前に並ぶ小さめのおにぎりやお茶、そしてその奥に並べられたメイク用品を見て脳内で諸伏の言葉がじわじわと意味を持ち始める。諸伏がそこから櫛を取り出して後ろを陣取ったため水瀬はバッと勢いよく振り返った。お、と小さな声で諸伏が仰け反る。
「諸伏さんがやるんですか!?」
「うん」
「美容院に行くのでは」
「予約してないだろ?」
 それは諸伏が「こっちでやるから」と水瀬が予約しようとしたのを止めたからだ。水瀬は美容院の予約を諸伏でしておく、と捉えていたのだが諸伏は違う意味で言っていた。こっち、すなわち諸伏である。諸伏も水瀬が勘違いするように言葉を選んで伝えたため確信犯だった。にっこりと笑って水瀬に前を向くように肩を押す。
「大丈夫、それなりに器用だからさ」
「え、えええ」
 そうではなく。そこはあまり心配はしていないが先輩にそこまでやらせるのはどうなのかと水瀬はおにぎりを前に項垂れた。そんな水瀬の様子などお構いなしに諸伏は水瀬の髪へ櫛を通す。ヘアオイルを少量手に取り水瀬の髪に鼻歌混じりに馴染ませていく諸伏は楽しげだ。水瀬は知らない匂いのヘアオイルにあわてて顔を上げる。卓上を改めて確認すれば、見慣れぬ道具やコスメが追加されており絶句してしまった。
「食べないの?」
「……ありがとうございます、いただきます」
 水瀬は考えることを放棄した。諸伏の大きな手が髪を梳くように頭皮を撫でていく。おにぎりの具はほろほろのシャケで、これまた水瀬がくぅと唸るほど絶品だった。

 渾身の出来に諸伏はとても満足そうに笑って水瀬へと鏡を向けた。髪が完成したあとは一度歯磨きのため洗面所に行きその出来栄えに驚いた水瀬だったが、メイク中は全く鏡を見ていなかったため煌びやかにメイクアップされた自身の顔に数秒固まってしまった。異性の先輩に顔をペタペタと触れられていた羞恥など飛んでいくほどの衝撃に水瀬は瞼を何度も上下させる。程よくマスカラが乗せられて長くなった睫毛が伴って開閉し水瀬はさらに混乱した。
 オフホワイトのドレスにも合う、オレンジベースのメイク。アイシャドウは鮮やかなオレンジとホワイト、ラインもくっきりと綺麗に、そして普段よりも少しだけ太く長く引かれている。細かいブルーのラメが入ったハイライトがまぶたのトップに乗りキラキラと目元を輝かせている。頬にはオレンジレッドのパウダーチーク、唇はベースに色味の薄いコーラルとその上からぽってりとティントが塗られ彩が美しくなっていた。髪についても器用にクルクルと捻ったり巻いたりしながらシニヨンに、後毛をわざと残し固くなりすぎないよう全体的に崩しながらもしっかりとまとめ飾りに小ぶりなブルーの花のピンを刺している。
「いかがです?」
 いたずらっ子のように笑いながら諸伏が水瀬へ鏡越しに問いかけた。
「す……っごい」
「はは、気に入ってもらえてよかったよ」
「本当にすごいです、諸伏さんすごい、どうして……プロ?」
 目をキラキラさせて諸伏を見上げた水瀬は本気で問いかけていた。それがわかった諸伏はモゴモゴと口を動かして最後には困ったように眉を下げる。
「天才だ……すごい……本当にありがとうございます」
「もういい、いいからほら荷物の準備しなきゃ」
 諸伏の言葉にハッとした水瀬は時計を確認する。気がつけば松田が来るという時間の15分前。諸伏が急いでいた訳だと水瀬も立ち上がって荷物の用意を始める。ドレスにあう鞄まで降谷から送られて来ていたため、普段使いのものから貴重品やメイク道具などを移さねばならないのだ。ちなみに当たり前のように靴まで用意されていたため水瀬は降谷に長々とお礼のメールを入れている。
「腕時計は盗聴器、イヤリングは発信器ね。無理はしなくていいけど、こいつだって確信できたら相手にイヤリング仕込んで」
「頑張ります」
「腕時計のつまみを引けば盗聴器機能オフになるから、お手洗いとかでは遠慮なく切ってね。切る前に腕時計を2回爪で叩いてくれたらこっちもオフにするようにはするけど」
 水瀬は諸伏にも移りそうなほどにガチガチに緊張していた。松田と現場に居合わせた時より、潜入という責務が水瀬の肩を重くさせていたのだ。それはそうだろう、潜入先は水瀬のホームとも言える医学会。水瀬の善性が公安上層部に受け入れられ、降谷の後押しもあったからこそ許された潜入だ。本来つながりのある人間を捜査員に加えることは良しとされていない。それを覆すほど、水瀬が諸伏を救ったという功績は大きく、そして情報を秘匿し続けたことは信用に値すると評価された。
「普段通りでいいんだ、大丈夫水瀬さんは違和感を見つければいいだけ」
 髪が乱れてはいけないので、諸伏は水瀬の肩をポンと軽く叩いてやった。細い肩だ、諸伏の手が大きいのもあるがすっぽりと覆われる肩の華奢さに思わず笑ってしまう。こんなにも頼りなく弱い生き物に自分は縋り、命を助けてもらったのだ。その上精神的にまで支えられているのだから頭も上がらない。そのままエスコートするように玄関まで水瀬を進ませる。ローヒールのパンプスに足を通した水瀬はこれまたぴったりなサイズでクッション性もある靴底に「わぁ」と白目を剥きかけた。
「水瀬さん」
 諸伏は両方の掌を水瀬へと向ける。ハンドバックを肘のあたりに引っ掛けて水瀬はニッと笑って諸伏の両手に手をぶつける。ぺち、とハイタッチにしては虚弱な音が玄関に響いた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」


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投稿日:2023/0326
  更新日:2023/0326