鴨跖草の遺言
すでに水瀬のマンションのエントランス付近に車を止めて待っていた松田は視界に入った水瀬を見て動きを完全停止させた。水瀬もすでに松田を待たせていたと慌てて駆け寄るも、助手席側のドアに寄りかかっていた松田を見て足を止めてしまう。数メートルの距離を開けて見合った2人は、似たような表情で互いを観察し合った。「……」
「……」
松田の装いは警察らしい無骨さを薄め、しかし松田らしいシンプルで無駄のないスマートな印象を持たせるものだった。ベージュの生地にグレーのストライプ。中のベストはブラウンで、シャツは薄いグレー。ネクタイとチーフはくすんだコーラルで、カフスやネクタイピンなどはメタリックなブルーが使用されていた。水瀬と並ぶとまさにといった色合いである。普段無造作にされている髪も片側だけ撫でつけられており、常時であれば隠されている額やこめかみが露わになっていて水瀬はなぜか見てはいけないものを見たような心地にさせられ視線を落とす。品のいい、水瀬より遥かに大きいブラウンの革靴が光沢ともってそこにあり水瀬は自分のローヒールの色とこれまた揃っていると気がついてついに手で目元を覆った。公安ご用達の店で急ピッチで作成されたセミオーダーでスリーピースーツは、松田の体格に沿わせているためかより魅力を引き立てていた。
「……お待たせしました」
「……いや」
紛うことなきペアルック。松田の脳内では必死になって犯人探しを行なっていたのだが、用意をしたであろう風見がこんなことに気を回すとも思えず暫定で萩原を容疑者として決定した。もっとも萩原はここのところ警察病院に詰めていたため、風見に採寸のためだと連れて行かれた店に行く暇はなかったことを松田も把握はしている。だがまさか風見がこんな事をするはずがなかろうと言う確信と、状況証拠を度外視し消去法で萩原でしかありえないという暴論に至った。ある種の信用の無さである。まさか松田も行方知れずの諸伏と降谷による犯行だとは思いもよらない。この所業を行った犯人を知る水瀬は頭が痛いと言わんばかりに手の甲を額に何度かぶつけ現実と向き合おうと躍起になった。
松田はぎこちないながらも助手席の扉を開けて水瀬に車へ乗るよう動作で促す。松田の横を通った水瀬は松田からは普段しない、ムスクのような甘い香りがして思わず息を止めてしまった。何時もであればパンツスーツである水瀬のためほとんど初めて足を出しているのを見た松田は、白く細い足がスピリットの中に引っ込んだのをつい凝視してしまい、振り払うように力一杯扉を閉めてしまう。服装もそうだがメイクも普段と違いすぎる、松田は運転席に回り込みながら心の中で悪態をつきまくっていた。ここまで普段と違いすぎるといっそ別人だ。
「……打ち合わせ通りに」
運転席に乗り込んで、己にも言い聞かせるようにしてそう吐き出した松田の声は恐ろしいほどに低かった。水瀬は頷いたものの打ち合わせで何を決めていたのかこの瞬間頭から飛んでしまって目をぐるぐると回す。互いに動揺させられ、警視庁でも優良株だと言わしめる若手2人はこの時確実にポンコツに成り下がっていた。
会場に着くまでになんとか持ち直した2人は、近くの駐車場へ車を止めて日航ホテルへと徒歩で向かった。日本の空運業のトップである日本飛行運航が経営する、東都でも有数の一流ホテルだ。駐車場については申請すればホテルの地下駐車場も使用可能だったのだが、公安側からそれはやめておいた方がいいと指示が入ったため近場のパーキングを利用することにあいなった。どうやら地下駐車場は入り組んでおり、加えて一部立体駐車場となっているそうだ。緊急離脱する際、車だけ放置してというわけにもいかないためだと聞かされた松田は一も二もなく素直に指示に従った。煌びやかなエントランスを抜けエレベーターホールへ抜けると大きな液晶パネルにて催事の掲示がされている。35階、ダイナミクスシンポジウム懇親会と書かれた文字に従ってガラス張りのエレベーターへ乗り込む。他に乗客がいないのをいいことに水瀬は静かに呼吸を深めて瞼を落とした。
夜景を見る余裕すらない水瀬を見下ろして、松田は背筋を正す。重力をやけに感じる身体を誤魔化すようにして一度肩を回す。仕立てがいいのか動きに支障もないスーツに、色さえ落ち着いていれば普段の仕事着にしてやったのにと現実逃避のように考える。松田自身には緊張も怯えも何もない。河野から指導を受けるにあたって程よい重圧は向けられてこそいるが、爆弾相手に何年も勤め上げた元爆発物処理班の肝の据わり方はこの程度では揺らぎはしない。
松田にGlareをぶつけられたとき、カーチェイスで連れまわした時。おおよそ恐怖を感じてもおかしくない場でも水瀬はほとんど平坦だった。無理やり松田が引き出してやっと、観覧車とバーで弱音らしものを引き出せた程度だ。だからだろうか、水瀬の分かり易いほどの緊張は松田からはどうにも好ましいものに思えた。
思わずだろう、口角をやや上向きにしながら普段決して侵すことのないパーソナルスペースを一歩踏み込み水瀬の細い腰に腕を回した。驚いた水瀬が目線を床へと落としたまま、瞼を持ち上げる。彩られた瞼がエレベーター内の淡いランプに灯されてキラキラと光るのを松田は違和感に襲われながらも凝視した。
「肩の力を抜け」
「っ!」
「そんな顔だと台無しだ」
水瀬よりも高い松田の体温が、しっかりとしたスーツとドレスの生地を超えて伝わってくる。そのことにゾワリと水瀬は背筋を粟立たせた。嫌にならない程度のムスクの香りが温度とともに水瀬へ移ってくるようだ。水瀬は松田の顔を見ることがどうしてか憚られてしまい、頼りない声で小さく返事をするにとどめる。そして言われた言葉を反復する。
台無し。確かにそうだと水瀬は思考する。ここまでの用意を公安の刑事が、一課の3人が寝る間を惜しんで捜査をしたからこそ、今こうしているのだ。その結果を確固としたものにするためにここにいる。
「そうですね……頑張ります」
意図した言葉と違う捉え方をされたな、と松田は理解したがなにぶん訂正するほどの甲斐性は松田になかったため、そのまま35まで上昇していくインジケーターを見上げるに至った。
投稿日:2023/0408
更新日:2023/0408