鴨跖草の遺言
まるで釣り糸に魚が掛かるように、フレンツは1人佇む水瀬を見つけると声をかけてきた。「ミス水瀬?」
「フレンツさん、お久しぶりです」
笑顔でハグを求められたため応じながらも、水瀬はまさか名前を把握されていたとはと驚いていた。ダイナミクス精神科の世界は狭いものの、年若いというだけでベテランの医師に認知されるほど母数が少ないわけではない。萩原が言っていた懇親会の方に声をかけられていたのではという推測もあながちはずれてはいなかったのかもと水瀬は体を離しながら苦笑しそうになる。ウッド系統の香水の匂いがほんのりとフレンツの着るスーツから香った。
「会えて嬉しいよ、昨年は会えなかったからね。そうだ、卒業論文素晴らしかったよ!」
「み、見てくださったんですか」
「もちろん!優秀な子の論文は必ず目を通すさ。対話による受容体閉鎖とスコア対比……学生があそこまでカウンセリングに詳しいなんて驚いたんだ」
「ありがとうございます」
「だがまさか警察官になるなんてね」
「元々そのつもりでしたので」
もったいないと言わんばかりのフレンツに水瀬は眉を下げる。フレンツだけではなく米花医大でもラボに来ないかと何度か打診はされていた。もっとも水瀬を担当していた冨田に関しては生徒の意思を一番に重んじるタイプだったため、一度水瀬が進路について決まっているということを伝えればそれ以上止めてくることはなかったが。
「フレンツさんは新薬の開発を?」
「ああ、一般に治験を募ってね。結果を見るといつも億劫になる」
D薬は個人の体質によっても合う合わないが極端に分かれるため万能薬が存在しない。いずれも副作用が強く処方が難しい。それらをクリアした新しいものを目指したいとフレンツは肩をすくめて笑う。
「特にDomのGlare抑制剤とSubの耐性剤に力を入れてるよ」
「どちらも手がけているんですか」
「ああ、チームを2つ作ってそのリーダーシップを僕がとっている」
両極端な薬なためそれはすごいと水瀬は感心した声をあげる。それが治験まで進んでいるということは実用化までも秒読みということだろう。事件のことさえなければ水瀬も手放しで喜べたが、後ろ暗いところがあると公安がはっきりと掴んだとなればそうもいかない。元々水瀬は薬も医者もいらなくなるようにするのが己の役目だと思っているので、薬は最終手段としてとっておくスタンスだ。警察官を目指す前に警察病院への就職を考えたこともあるのだ。すぐに進路から消えた理由は投薬に積極的だったというところも大きかったのと、患者を取るより研究者としての役目が強くなりそうな点だった。
「飲み物がないね、何か飲もう」
自然な流れでバーカウンターまでエスコートされ水瀬は「お酒弱くて」とタジタジになってなんとか伝える。そこまで弱いわけではないが今は避けたい。人好きしそうな笑みを浮かべたフレンツは「選んであげよう」と上機嫌に笑う。笑った時に笑窪が綺麗に浮かんでチャーミング、なんて言葉が水瀬の耳に届き横目に確認すればフレンツをうっとりとした顔で見つめるマダムがおり水瀬は体を硬くした。
「アペロールは……あるね、アペロール・スピリッツとメルツェンを。弱めで頼むよ」
「かしこまりました」
申し合わせたように高伊が注文を受けた。普段の笑みよりグッと落ち着いた控えめな笑顔、髪をオールバックにし背筋をしゃんと伸ばした高伊は別人のようだった。心構えをしていなければ水瀬は驚きで声を上げてしまっていただろうほどにこちらも河野と同じく全く普段と雰囲気が違う。
「アペロールはドイツでも親しまれているハーブリキュールでね、白ワインと炭酸で割るから弱い君でも飲みやすいだろう」
「綺麗な色ですね」
「ああ!君の目元の色と同じだろ?」
お茶目に笑うフレンツに水瀬は一拍遅れてあははと笑う。高伊は困ってるなぁと笑いそうになりながら手際よくカクテルを作り、メルツェンと呼ばれるビールの栓を小気味良く抜く。こちらもドイツでは有名なビールではあるが、メルヘンと音の近い注文に盗聴器の向こうはざわついただろうなと高伊はうっすらと予測した。予想通りではあったが「水瀬ちゃんやっぱ口説かれてんじゃん!!」と萩原が怒鳴ったのが一番の理由であった。
「乾杯」
グラスを掲げたフレンツに合わせて水瀬がそっとシャンパングラスを添わせるようにしてあてがう。チン、と軽い音を立てたグラスをフレンツは一気に煽る。水瀬も鮮やかなオレンジ色の液体を舐めるようにグラスに口をつけた。高伊の計らいだろう、炭酸の割合が多くなりそこまでアルコールは強くないように思えたがそれを抜きにしても飲みやすい口当たりのカクテルだった。
「美味しいです」
「それは何よりだ」
ふんわりと笑うフレンツは上機嫌にビールを傾ける。グラスの違いだろうか、居酒屋で伊達が煽っていたものとは全く別物に見えるのが不思議だった。
「未だに米花中央病院でいろいろな科に顔を出していると聞いたよ」
非番の日、水瀬は知識更新のためにも精神科に始まりその他多くの科に顔を出して研修を受けていた。まだ医者として一年目、本来であれば研修医としてベテランの元で研修を受けていてもおかしくはないのだ。ダイナミクス精神科医となると他の科の知識の更新は常に必要だ。総合病院などの大きな場所では定期的に院内にいる精神科医のための講習を行ったりなどして勉強会が開かれており、米花中央病院でも週に一度この勉強会は実施されている。しかし非番が不定期であるため水瀬が常にそれに参加できるわけではない。そのため米花中央病院の各医師に掛け合い、検診や手術の様子を見学させてもらう時間を設けてもらっていた。出身大学というのもあり快く受け入れられているが代わりに研究の手伝いも頼まれているため、それなりに忙しくさせられていた。
「ずっと籠っているとすぐに置いていかれてしまうので」
「警察病院にも融通は効くだろうに、こちらの方が施設も大きいだろう?」
「卒業の時にすぐにお願いしていたので……そこまで考えが至らず」
D課に配属されてすぐ、佐原には警察病院での研修を打診されていた。D課に警察病院から来ている医者こそいないものの、それぞれどこかの病院には属しているため勉強会や研修会の話は知っており、病院所属ではなくなる水瀬を思って手を回そうとしてくれていたのだ。しかし水瀬も先に大学側に話を通していたため実現することなく警察病院での研修は流れた。ちなみにD課では毎日会議が設定されており、その場で各自が仕入れた知識を共有しあっている。
「警察病院でも定期的に勉強会みたいなものはあるんですよね?」
「ああ、週一で各科の医師が入れ替わりで最新技術や論文の報告会をしているよ」
「非番が不定期なのでそういった定例会への毎回の参加が難しくて……米花中央病院の方では無理を言って先生にくっついて診断の様子とか見学させてもらってるんです」
「なるほど、看護師のように手伝いを?」
「いえ。お仕事の邪魔にならないように見学だけです」
「君は素晴らしい才能を持っているのに本当に謙虚で慎ましいね」
心底、と言ったように呟かれて水瀬は思わずフレンツをじっと見つめてしまう。言い放った本人はなんでもないことのように首を傾げているが、どうにも深みのある言葉のように感じてしまった水瀬はつい探るような目を向けてしまった。それに苦笑したフレンツは困ったように肩をすくめて口を開く。
「本当に、君さえこちらのラボに来てくれれば研究は遥かに楽に進んだだろうと思うことが何度もあったんだ。実際君の携わった論文を役立てたことも少なくない」
「……買い被りすぎですよ」
「日本人のいけないところだね、今日本で一番若い精神科医だろうけど僕は一番君を評価しているよ。君自身が認めてあげずにどうしろっていうんだい?」
思わぬ評価に水瀬は言葉を詰める。真剣な表情であるフレンツが本心から言葉を向けてくれていることに気がついて水瀬は恐る恐る頭を下げた。しかし水瀬は本当にここまで評価される謂れはないのだ。まさかという思いが水瀬のなかに落ちる、きっと捜査のことさえなければそんな予感さえ抱かなかっただろうが水瀬の中には疑念と不安が入り乱れていた。
「この後催し物も用意しているんだ、ぜひ楽しんでくれ……そろそろ君のプリンスに噛みつかれそうだから退散するとするよ。それともし研究に興味があったらいつでもおいで」
グッと水瀬の耳元に顔を寄せたフレンツは楽しげにそう零して、頬にリップ音を落としていった。顔が離れる時、至近距離で見つめられたままフレンツは口角を上げる。
「……ダイナミクスで困ることも多いだろう、きっと助けになるよ」
投稿日:2023/0923
更新日:2023/0923