鴨跖草の遺言
しばし呆然としていた水瀬のもとに松田が戻ってくるのはすぐだった。言葉もなく隣に戻った松田は水瀬のもつグラスを勝手に奪い近くに歩いていたウェイターに返してしまう。「……ありがとうございます」
「どうした」
水瀬のもつ盗聴器の受信機を持たない松田は、いささか様子のおかしい水瀬に片眉を持ち上げて問いかける。戻れという指示が河野から出た時点で嫌な予感はしていたがこうもわかりやすく水瀬が狼狽えているというはよっぽどだろう。退路を奪うようにして松田は水瀬の背に腕を回す。フレンツはすでに離れており、先程話をした浅井の近くに立っていた。
「何でもないです」
松田を見上げた水瀬の顔はやはり強張っている。声こそいつも通りなため傍受先では気がつけないだろうが、正面から見た松田にはその微弱な水瀬のサインに気がつくことができた。考えるように一度黙った松田だが、すぐに首を縦に振る。ほっとする水瀬の背中を押すようにして会場の外へと向かうように歩けば水瀬はギョッと目を向いた。
「話せ」
はく、と口を開いた水瀬だがすぐに正面に向き直る。顔色が悪い状態の水瀬をそのままにしてパーティー会場に居続ける方が不自然だ。真っ直ぐと見つめ合っていると水瀬の目の色の色素が少し薄いことに気がついた松田は、徐々にその瞳の焦点が合わなくなってくるような、妙な感覚を覚える。瞬きをするごとにその違和感は強くなりついに天辺まで上り詰めた時、不快感となって松田の直感に訴えかけてきた。
「本当になんでもないんです、ただ周り全部が怪しく見えてしまって」
お手本のような普段通りの笑顔、細められた目。瞼にほとんど覆われてしまったその瞳に松田は強烈な嫌悪に近いものを覚えた。
なるほどそうか、こうしてこいつはいつも覆い隠してしまっていたのかと知る。思えば驚いて目を見開いていた時には、つぶさに感情が読み取れていたのだろう。目は口ほどに物を言うとはこのことかとため息を吐き出しながら松田は面倒そうに水瀬を見下ろしたのだった。理由を言えと視線で促しながら松田は結局水瀬を壁際へと押し込むように戻した。そもそも松田以外の刑事にはフレンツとの会話は筒抜けだっただろうになぜここにきて渋るのか、松田には理解できなかった。
「あのなぁ」
呆れた松田はため息を吐き出して水瀬を見下ろす。笑う水瀬が何を思っているのか松田にはわからない。ただ瞼に覆われた奥を覗き込めば普通の精神状態で笑っているとは、もうとてもじゃないが思えなかった。松田は背中に回していた手を徐に腰元へと回し、くっと引き寄せた。
「恋人だろうが、大人しく甘えられねぇのか」
松田らしい態度なのに、言葉のチョイスだけが歪で水瀬は思わず笑ってしまう。ぶっきらぼうな音なのにいつだって松田の視線は水瀬を心配していたし、気遣っていた。嫌になるほどに松田の視線はまっすぐだ。態度以上に飾らないその視線を受けるうちに、水瀬は不器用な松田の実直な視線を逸らすことができなくなっていた。
「……」
「終わったら話せ、いいな」
ほとんど怒りと言っていいほどの厳しい言葉に終始水瀬は笑みで抵抗を見せた。
「何だろうね」
会場近くの路地裏にて、公安で所有しているキャンピングカーの中で萩原、伊達、風見の3名は通信用の機材や監視カメラのモニターなどに囲まれて待機していた。潜入しているメンバーの盗聴に加え、捜査一課が見張りを続けている朝田の警護状況、各地にて待機している公安の住宅取り押さえメンバーの統括を一気に担っているのがこの車内の3名だった。主には風見が主導をとって指示を飛ばしていたためあまり慣れていない萩原や伊達は本当にこの男は一つ上なだけなのだろうかと若干疑いの目を向けた。風見しか知らないが、裏方で諸伏も活躍していたため何も知らない刑事部の2人からすれば風見が2人分の働きをしているように目に写っていたのだった。
何かトラブルでもあったのか、そう思わせるほど松田の言葉に棘があったため作業の手を一度止めた3名は盗聴器から聞こえてくる音に耳を澄ませたが、松田の言葉を最後に盗聴器からは雑音しか拾っていない。
「フレンツのせいだとは思うけど緊張したにしては陣平ちゃんしつこかったし」
「最後聞き取れたか?」
「頼ってこい、みたいなニュアンスだったと思うが詳細は声が遠くてわからなかった」
「風見さんもですか?」
「ああ」
フレンツが水瀬に接近はしていたものの耳打ちされた音まで手元の盗聴器は拾っていなかった。言い寄られていたことが嫌だったのだろうとひとまず納得した風見は諸伏から送られてきた資料を読み込んで顔を険しくする。時間が経過するごとに自体が複雑化している、経験上こういった案件は非常に面倒な後処理が待ち受けているのだ。
「……河野さんから連絡がないということは問題なかったんだろう」
風見の言葉に一応納得した萩原は、今一度手元のデータを見下ろす。フレンツヒェン・グッテンベルク、滝正親、金太吉。名前の後にこれまでの経歴や年齢、ひいては住所や血液型までずらりと並べられている。ここまで情報が集まっていることに闇を感じるが公安とはそういうものなのだろうと納得するほかない。伊達も萩原の手元を横から覗き見て「金太郎みたいな名前だよな」とボソッとつぶやいた。
「確かに一文字違いだな」
「中国人、ではないのか。『今』とかなら割といるけど珍しい」
「論文の関係だとかで改名してる、元はもっとよくある名前だが……同業に同姓同名がいたとかいう理由で変えてるな」
作業を続けながら風見が口をはさむ。へぇと相槌を返す。太郎という名前で苗字もありきたりであれば同姓同名は腐るほどいただろう。再びリストに目を落とし、何かがひっかかるようなと萩原が目を細めた時に風見が険しい声で2人を呼んだ。
「報告が上がってきた」
そう言ってタブレットを萩原と伊達に向けた風見は眉間の皺を濃くしている。受け取った萩原は文字でびっしりな報告書を斜め読みし、そして同じく顔を険しくした。
「フラー団地の後にできたアパートが宗教団体の宿舎になってる……?」
すでに取り壊しされていたフラーネカルだが、その土地には別の集合団地が建設されていた。念のため風見の指示で公安職員がその住所周辺の捜査を行なっていたらしいのだが、そこでこの情報を掴んだらしい。宗教の勧誘が多かったという場所で一家心中という凄惨な事件が起き、建て替えたアパートがその宗教の根城となっている。
団体の名称は「コウセイ教」。後世、恒星、公正、更生。自分達のあらゆる欲求を平坦に均すことで未来がより良くなる、そのためにも世界に溢れる欲求も根絶していくべきであるという教えのもと発展してきた新興宗教。崇拝している神の存在は曖昧で、存在こそしているものの信者によって証言が異なるようで詳細は不明。そして1番の問題点は急激な成長をしたからなのか派閥が分かれており過激派と称される信者達の中には殺人すら起こしているものもいるという。
「まあでも団体様での犯行って言われた方が納得はできますね」
監視カメラを切り替えながら萩原が唸るように呟く。単独での犯行にしてはあまりにも手際が良すぎるのだ。そうでなければもっと早くに事件性に気がつき、連続殺人として取り上げられていただろう。
「宗教絡みとなると目的をこっちで推察するのは難しいか」
「社会主義に近い考え方だと思っていいのかねこれって」
「生産物や富まで分け合って生活してるならな、欲求ってのが曖昧な分解釈は多くありそうだ」
「風見さんって宗教関係の山当たったことあるんですか?」
「さあな」
さすが公安、と口を割らない風見に萩原が残念そうに頬を膨らませた。堅物に見える分、そういった団体への潜入捜査は向いていそうだがと伊達は勝手にも思ってしまった。もっとも詰所で知り合った公安警察の中では河野とウメジを除けば大抵風見と似たような雰囲気を纏っているためその手の調査には事欠かないだろうと言うのが伊達の見解だ。予々その見解は当たっているのだが、思慮深く容易に考えを口に出さない性格だったために風見が潜入捜査をしたことがないことは露見しなかった。
「欲求なぁ」
伊達が頬杖をついて監視カメラを切り替えながらぼやく。どうしたと風見に視線を向けられた伊達はマウスから手を離し眉間に皺を寄せながらシートの背もたれに体を預けた。
「この場で欲求って言ったら、ダイナミクスなんて最たるものなのかななんて思っただけです」
伊達の台詞に風見と萩原は背筋がヒヤリとしたような妙な感覚に囚われた。
投稿日:2023/1221
更新日:2023/1221