鴨跖草の遺言
催し物として予定されていたマジシャンによるステージが開始されるとアナウンスされた直後、水瀬の体に軽いものがとすんとぶつかった。驚いて振り向けばそこには少女がおり、青い顔色で水瀬を見上げている。松田が回していた腕からするりと抜けた水瀬は腰を折って少女へと目を合わせた。中学生ほどに見える少女は利発そうな瞳をウロ、と彷徨わせては水瀬を伺うようにしている。「ごめんなさい」
「私こそごめんなさい、大丈夫?」
年頃の少女にしてはドレスはシンプルなもので、それも黒。しっかりと謝罪をした様子を見ていた松田は最近の子供はこんなものなのかと若干驚く。
「大丈夫です」
「一緒に来た人とはぐれちゃった?」
ゆっくりと頷く少女だが、元々色が白いというのもあるのだろうが顔色が悪い。話すのも必死と言わんばかりで声が震えていないのが不思議なほどに呼吸も荒れており、水瀬はドレスのスカートが広がらないように抑えながらその場にしゃがんで少女よりも目線を下にした。ため息を吐き出しそうになった松田はそれを抑えて水瀬の肩に引っかかっていた鞄を水瀬から回収し後ろにひっくり返らないように背後に寄り添った。松田とて仕事中とは言え顔色の悪い迷子を放置するほど鬼ではない。体調が悪い中質問責めにして悪いと思いながらも、続けて問いかけようとした水瀬だがタイミング悪くマジックショーが始まってしまいフロアの照明が一気に落とされてしまう。ショーのBGMだろう音響は会話を妨げるほどで、水瀬は口を閉ざした。恐々と、遠慮に塗れた少女の腕が水瀬に伸ばされたのが見えたため水瀬は咄嗟にその手を掴む。緊張か恐怖か不安か、じっとりと冷や汗を帯びた小さな指先はかわいそうなほどに冷えていた。
「出るか」
少女の様子を見た松田が水瀬の耳元に顔を寄せて問いかける。驚いて振り向いた水瀬は至近距離にあった松田の顔にギョッとしてしまうが、なんとか抑えて首を縦に振った。水瀬の表情は暗闇のせいで見えなかったのだろう、松田が促すように水瀬の腕を手に取った。中腰となった水瀬は少女に近寄りできる限り優しい声で話しかける。ショーを気にかける様子もないことからも少女がここに居続ける余裕がないのは一目瞭然だった。
「一度外に出て座れるところに行こうと思うんだけど、歩ける?」
肯定するように水瀬の手をぎゅうと握って少女が擦り寄る。松田は自身のことながら、よく俺が居て近寄ってきたなこの餓鬼となんともな感想を抱いていた。水瀬の纏う雰囲気が子供が裸足で逃げていく松田の恐ろしさを凌駕したと、近場でやりとりを見ていた河野は拍手でもしてやりたい気持ちになっていたのだが音声だけ聞いていたメンバーも似たような感想を持っていたので松田の自己評価も馬鹿にできなかった。
会場を出てすぐのソファに水瀬と少女を座らせた松田は両名が目視でき、声が聞こえる位置まで離れた。どうにも少女が松田を怖がっているような素振りを見せたためである。慣れた反応であり佐藤によく「子供を怖がらせないで!離れて早く!」と言われていた松田は水瀬に「なんかあれば呼べ」とだけ伝えて少女を一任したのだ。ホテルのスタッフに声をかけることも考えたが、誰もが忙しそうに動いていたことと、少女が水瀬に懐いている様子を見せたために一時預かるという流れとなった。
「お姉さん、お医者様なのね」
言葉使いも相まって随分と大人びた子供だと水瀬は再認識する。どうやら松田が持って行った鞄につけられたホワイトのブローチをしっかり目にしていたらしい。そんな少女は当たり前だが赤色の薔薇を胸元につけていた。黒いドレスの中、赤々としたブローチがやけに大きく水瀬の目に映った。
「一応ね、まだまだ新米だけど」
「どうして医者になったの」
誰と来たのか、名前は、具合は。水瀬から聞きたいことは山ほどあったがそうさせない空気を少女は纏っていた。一種の拒絶にも似た空気を水瀬は読み取り、マジックショーの間はなんの仕事もできないだろうとゆったりと少女に付き合うことを選択する。
「あまり話したことがないから恥ずかしいけど……聞いてくれる?」
優しく微笑む水瀬に少女は戸惑ったようにしながらも頷く。
もうずっと昔だ。水瀬が少女よりもずっと幼い頃、世話になっていた医者がいた。水瀬自身が幼かったこともあり、どうして医者にかかっていたのかまでは記憶していない。けれども長い期間、何度も何度もその医者に診察され面倒を見てもらった。
「今思うとあんまり子供も好きじゃなかったのかな、むすっとして熱とか測って……でも、すごく綺麗な人だったんだ」
スッと伸びた背筋に、いつも厳しげに細められていた瞳。全くと言っていいほど笑いかけられたことも優しくされた覚えもなかった。それでも水瀬の中に痛烈なほどに残ったのは、その人がとても綺麗に、とても影濃くいつも同じことを言っていたからだった。
「いつもね、どうしてか私に謝ってたの」
「……謝ってた?」
「ごめんねって」
診察の最後、医者が帰る間際見下ろされながら落とされる言葉はさよならでもお大事にでもなく、謝罪だった。幼い水瀬はその理由を直接聞いたのかもしれないが、きっと答えてもらえなかったのだろう。そもそも雑談ができるような空気をその医者は許さなかった。
「どうして謝ってるのかわからなくて、それが知りたいなって思って医者になろうと思ったのが最初かな」
変でしょ。そう笑う水瀬を少女は凝視する。肯定も否定もなく、けれど何かに耐えるように唇を噛み締めた様子は痛々しくも見えた。面白い話ではないがこうも硬くなってしまうほどの内容だっただろうか、もしや少女は医者を目指しており志を聞きたかったのだろうかと水瀬は少しの狼狽えを感じながらもそっと少女の背中に手を伸ばす。ピクリと反応を見せたものの嫌悪は見られなかったため薄く小さい背中をそっとさする。この年代の子供に対して向ける言葉というのは特に難しいということを水瀬はよく知っている。自己と他者を明確に区別化し始め、世間や世論の中に理不尽を見つけ始める時期だ。夢ばかりを語っても響かず、かといって現実を突きつけすぎるものよくない。
「……普通は誰かを助けたいとか、そういう綺麗事を言うんじゃないの」
やはり少々手厳しい毒を吐く少女に水瀬は笑う。
「人を助けたい、誰かのために頑張りたいっていう気持ちは後から芽生えたかなぁ。直接人と対面して、自分の患者を持って。この人たちには健やかにいてほしいなって。私にとっては『誰か』ってどこかの知らない人を理由にはできなかったのかも。医者になりたいの?」
水瀬からの問いかけに少女は間を空けてから首を横に振る。
「……親が」
触れてほしくはないのだろう、硬い声でなんとか吐き出したような音をしていた。もっとも親にどうして医者になったのかを気軽に聞けるようであればわざわざ初対面の水瀬にこんなにも緊張して聞くこともなかっただろう。そう思うと迂闊に両親の話題を掘り下げることを水瀬はできそうになかった。迷子と言っていたが、もしかするとわざとはぐれたのかもしれないとそんな可能性まで考えついてしまった水瀬は会場がまだマジックショーで盛り上がっているのを耳で確認しながら「そうなんだ」と軽い返答をする。どちらにしろ中で明かりがついた後、少女の親が会場に子供がいないことに気が付けばすぐに近くの扉から出てくるだろうことは想像に容易い。
「……ねぇ」
「なあに?」
「お姉さん、名前はなんていうの?」
あれ、と水瀬は首を傾げる。少女から名前や親のことを聞かない、という選択をしてしまったせいかすっかり自分も名乗ることを忘れていたらしい。
「水瀬渚です」
「水瀬さん……」
口の中で音を転がすようにして復唱してみせた少女は、何かに安堵するようにほんの少しだけ纏う空気を和らげた。その様子を見てすぐに名乗らなかったことを反省した水瀬は松田を目線で指しながら「あの人は神野さん」と伝える。松田に目を向けた少女はわかりやすく眉間に皺を寄せた。聞こえているだろうに、松田は一瞬顔を上げただけですぐに操作していたスマホに目を落としてしまった。お互い関わり合いになりたくないとばかりのあからさまな態度に流石の水瀬も苦笑してしまう。
「世莉!」
つい声を張り上げてしまったとばかりの声に、少女ははっきりと体をびくつかせた。駆け寄ってきたのはゴールドのブローチをつけた若い男性。会場ではなく通路からやってきたところを見るに少女を探していたのだろうか。少し息を乱しながら安堵の笑みを見せた男。松田は先ほど会場で妙に笑顔を向けてきた男だと気がつき、眉を顰めながらもたれていた壁から身を離した。
「すみません妹が……」
「いえ、すれ違わなくてよかったです」
華奢で背の高い男は整った顔立ちをしており、確かに並べば少女と似通った点があった。アルトの声ははっきりとしているが迷惑をかけたという負い目だろうか些か曇っている。世莉と呼ばれた少女は水瀬に倣って立ち上がって男の横へと並ぶ。仲のいい兄弟、というわけではないのだろうと邪推してしまう程度には距離のある立ち位置と笑顔も見せず声すら発しない少女に、松田も水瀬もなんと声を掛ければいいのか迷ってしまった。
「探したんだよ」
「……ごめんなさい」
優しく声をかけた兄に見向きもせず、反省したように下を向いてしまった世莉はあいも変わらず顔色が悪かった。
「じゃあ俺たちはこれで」
「ああ待ってください」
松田が水瀬へと腕を回し立ち去ろうとするも、男は眉を下げて引き止める。迷惑をかけた、申し訳が立たないと捲し立てるようにして述べた男はジャケットの内側から名刺入れを取り出し水瀬と松田へと差し出した。聞いたことのない企業名であるが製薬、とついた社名から業種はわかりやすかった。名刺を出されればそれを返すのが礼儀となる、水瀬も松田に預けていた鞄の中から名刺を取り出して男へと差し出した。松田は学生として潜入しているためもちろん持ち合わせていない。
「何かございましたらご連絡ください、私の名を出していただければ繋いでもらうようにしますので……と、警察?」
水瀬の名刺を読みギョッとした声を上げた男は水瀬を凝視した。
「医師免許もあるので、白い薔薇で参加してるんです」
「なるほどそういうことでしたか、てっきり病院の先生かと……」
D薬を売りに出している製薬会社ではダイナミクス精神科医の獲得は必須となる。専属で雇うというよりは病院所属の医者を囲い込み、病院と提携して研究を進めている製薬会社がほとんどだ。そうでなければ臨床試験にまで進んだ段階で被験者が足りなくなることが問題になる。
「何かの縁です、もし研究などに興味がありましたらぜひご連絡ください」
そう言って少女の手を引いて会場へと戻っていった男を見送った水瀬と松田はそっと肩の力を抜く。あんなにもぐいぐいと営業されるとそれはそれでやりにくいものがあり、その上世莉と呼ばれた少女のことを思うとどうにも下世話な勘ぐりまでしてしまって気疲れしてしまった。なんとなしに少女を見送る。その背中の小ささに水瀬はどうしてか不安に似た何かを胸中に抱いた。
投稿日:2024/0224
更新日:2024/0224