鴨跖草の遺言

「……医者の家だと大変そうだな」
「複雑そうでしたね」
 フォローの言葉が見つからず水瀬も素直に頷いた。名刺の苗字を見るも水瀬には覚えのない姓であることから世莉のいう親はダイナミクス精神科医ではないのだろう。企業に就職している兄とこの場に来ている、という時点でどうにも家庭の複雑性が伺えるようで水瀬は顔を曇らせた。
「お前の家は?」
「へ?」
「親も医者なのか」
 違うのだろうなと思いながらも松田は問いかける。世莉との会話から、幼い頃の世話になった医者への興味から今の道に進んだことは聞こえていた。世のため人のためと言わないあたり水瀬らしいとすら思った。水瀬の思考はそこまで崇高でも綺麗ごとでもない、そんなに高いところを見据えていない。もっと低く身近で手の届く範囲を現実的に捉えている。それゆえ響くのだろうということは松田自身で身をもって知っている。だからほんの少しの興味本位で問いかけたのだ。水瀬のパーソナルな話題は案外知らないということに思い至ったからでもある。面談時でも仕事終わりでも水瀬とは日常の会話を多く交わしたが、水瀬の家族の話や警察学校以前の話はほとんどしてこなかった。医大の話こそ例の爆弾事件時に多少聞いていたが今日会話を交わした大学時代の知人達から聞く水瀬というのは松田にはどうにも新鮮だった。
「いいえ」
 やや間があってから水瀬は首を横に振る。水瀬の母親については水瀬が入院していた時に一度かち合っていた松田は鈍い反応に目を細める。水瀬と母親が話している様子を直接見たわけではないが、柔らかい雰囲気を持った婦人は水瀬とあまり似ていない目をくりくりと丸めて松田の見舞いを喜んでいた。仲が良好でなければあれほど嬉しそうに娘の見舞いにくる同僚に感謝を述べないだろうとは思うものの、人間関係とは一方通行になることもままあることを刑事である松田はよく知っている。一見そうとは見えずとも毒を孕んでいることもあれば、乱暴な素行の割に思いやりが紛れていることもある。そしてそれらを受け取る側がどう感じるのかも結局のところ他人には計り取ることはできない。
 松田が水瀬へ言葉を向けようと口を開いたタイミングで松田のスマホが振動する。電話の時のバイブパターンだと気がついた松田は顔を顰め、調査に関する連絡の可能性が高いと会話を切り上げてスマホを取り出す。画面をタップし耳に当てたタイミングで、会場の扉が勢いよく開けられた。
「た、助けてくれ……!」
『2人とも会場へは戻るな』
 床に倒れ込むようにして扉を開けた男と、やけに硬い風見の声が状況の異常さを痛烈に松田と水瀬を身構えさせた。

 マジックショーが始まったせいで会場内の監視カメラに何も映らなくなってしばらく。最初に異変に気がついたのは萩原だった。
「歓声おかしくね?」
 ショーの合間に巻き起こる拍手と歓声。BGMとのタイミングもおかしい上、それ以上の違和感に萩原は顔を顰めた。
「さっきからテープ流してるみたいに同じ歓声聞こえる」
 風見は萩原の言葉に顔を顰めるも、ちょうど端末が着信を知らせたことでそちらに目を向ける。伊達は集中するように目を閉じてヘッドフォンを耳に当てた。言われてみれば確かに、同じ間隔、同じ音声のように思える。
「ウメジさんと河野さんは中残ってるんですよね」
「そういえば高井さんは?」
「あの人も中だ……すまんが手を離せない、萩原頼む」
 そう言ってノートパソコンごと萩原に渡した風見の顔色がグッと悪くなっていることに気がついた伊達は知らずにごくりと喉を鳴らした。何か良くないことが見えない部分で進行している。
「ウメジさん、何かありましたか」
 その証拠のようにしばらく待っても萩原の声に応答はない。しばらくマイクを睨みつけていた萩原は、今度は河野、高井へと無線をつなげて呼びかけるもこちらも無応答。通信障害であればエラーメッセージが出ると事前に知らされていたが念のためネット環境も調べたがこちらには問題はない。応答できない状況なのか、それとも何かがあったのか。例え別の対応をしていようとも、呼びかけに対して一瞬マイクを入れることになっているため、何の音声も聞こえず無音のままであることはありえない。水瀬と少女の会話だけは鮮明に聞こえていることからも会場内で異常が発生したとみて間違いないだろう。
「誰も応答しない、風見さんどうしますか」
「松田と水瀬さんは離脱させる」
「なんかやばいんですか?」
「別件が絡んでいる可能性が出てきた」
 緊張を孕んだ声に伊達と萩原は揃って姿勢を正す。別件と言ったきり詳細を口にしないことから公安で取り扱っている厄介ごとだろうことはすぐに理解した2人は真暗で何も映さない監視カメラの映像から何か読み取れないかと顔を寄せて睨みつける。風見は別働隊に指示を出すためだろう、スマホをもう一台取り出して耳に当てていた。
「風見だ。タイミングから見てショーをしていた業者が噛んでいる可能性が高い、その洗い出しを頼む……いやそれ以外は向こうのバックアップだ。俺は手を離せないからな」
 風見の言葉を聞きながら、ステージの映像を見ていた萩原は他の画面と違い、照明のせいで白飛びしてほとんど何も見えない画面の端で動く何かを見つける。体ごとその画面に寄せてじっと見つめればもやのような何かが映っているのだと気がつく。
「見えねぇ〜!!なんか煙?火事?」
「火事はありえない」
 通話を終えた風見が萩原の言葉に否定を入れながらスマホを操作する。
「セキュリティーにハッキングをかけたが火災報知機は正常に稼働している、アラートは出ていない。それにすぐ扉を出た先に水瀬と松田がいて気がつかない方がおかしい。考えられるとしたら報告にあったマジックで使用するドライアイスだろうが……睡眠薬でもばら撒かれたのか?」
「じゃあ3人とも寝てる?」
「耐性はある筈だが応答しないとなれば可能性は高い」
 しれっと薬物耐性をつけていることを暴露した風見に萩原はうわぁと引いた。公安刑事の3名とも潜入を行ったことがあるためそれなりに薬物耐性はつけている。詳しい内容までは流石に同僚とは言え明かされないものであるが、特に河野に関しては並大抵の薬物では倒れることなどまずないことは風見も知っている。水瀬のつけている盗聴器からは少女が保護者に無事に引き渡せた何とも微笑ましい会話が続いている。いずれにしろ会場に2人を入れることはしない、そのためにもと松田へ通話を繋げる。
「2人とも会場に戻るな……松田?おいどうした」
 松田からの応答がなくなる。雑音と僅かながら水瀬の声が聞こえるため通話はつながっているようだがどうにも様子がおかしい。カメラを確認すると松田が壁に寄りかかるようにしてズルズルと床に座り込む映像が映っており車内に緊張が走った。何度も松田に声をかけ、様子を見ていた水瀬が松田が取り落としたスマホを取った。
『あの』
「何があった」
 困惑しきったような水瀬の声が電話口から聞こえ風見はどっと安堵する。努めて冷静に聞こえるよう、自身に言い聞かせながら問いかける。ここで風見が動揺しきってしまえば後輩たちが狼狽えてしまう。
『突然松田さんが倒れて……脈も呼吸も正常、意識が飛んで眠っているように見えます……それに会場の中にいた全員、倒れています』
 予想はしていたとは言え異常な報告に風見は息を呑む。扉が開けられたために会場内にも光が入り監視カメラの映像にもうっすらと横たわる人の姿が見て取れ伊達と萩原はごくりと喉を鳴らした。松田のそばには1人男も倒れており会場から逃げ出そうとしたところで力尽きたのだろうことが窺えた。そちらの男も簡単に触診した水瀬はふと会場内に目を向けて立ち上がる。
『河野さん!』
 光があたりギリギリ視認できる位置、確かに河野の姿が見えた。ぐったりとしておりテーブルに体重を預けきってはいるが何とか両足で立っている。スマホと河野の通信機から音声が入ってきた。
『わる……』
『一旦出ます、歩きますよ』
 河野の腕を肩に回し会場から出ようとしている水瀬もこの状況を作り出した原因はこの場にあると考えたらしい。実際松田が倒れたのは会場の扉が開かれてしばらくした後。ではなぜ水瀬の意識ははっきりとしているのかという疑問が誰もに浮かぶ、水瀬自身ですらそれは疑問だったがそれでもまずは医者としてしなければならないことがあると思考を置き去りに行動を開始する。
 引きずるようにして河野を松田の横に座らせた水瀬は河野に問いかけを行いながら脈や瞼の裏を確認していく。時折意識が飛ぶのだろう、河野はガクンと頭を落としながらも辿々しく声を出している。あの河野ですらこんな状態になるほどの何かが会場に塗布された。松田はすっかり寝入ってしまったような呼吸をしているのが腹部の上下の様子から見てとれた。突然すぎるほどの異常事態の連続に伊達と萩原は目を回さないようにするのに必死だ、画面に映る松田を深刻な表情で見つめる萩原は風見に問いかけた。
「救急か、俺らが行くのは無理っすか」
「許可できない」
 萩原も問いかけていて答えはわかっていたのだろう、グッと奥歯を噛み締めてそれ以上の言葉を飲み込んだ。別件が絡んでいる可能性、風見がその話をした時点で公安ではない萩原と伊達の行動制限が強くかかることは自明だった。水瀬から命に別状がないと言外に伝えられていたことも大きい。そもそもまだフロアには人を卒倒させる何かが蔓延している可能性が高いことから、応援に駆けつけたとしても意味がないだろう。ミイラ取りがミイラになる、そんな愚策をガスマスクもない状態で許せるはずもなかった。その上ガスである、というのはただの推論であり事実ではない。
「どうして水瀬は」
 ぽろ、と伊達の口から耐えていた言葉が溢れる。それどころではないのだが、どうしてもこの異様な光景の中でも通常に振る舞っている水瀬はおかしく映る。ハッとした風見は険しい顔のまま口を開いた。
「松田と水瀬は会場に入ってから同じものを口にしていた、唯一違うのはフレンツに薦められた酒だけ」
「じゃあ解毒薬みたいなのを水瀬ちゃんだけが飲んでたから平気ってこと?」
「ありえる……ならこの状況を作り出したのは」
 伊達が最後まで言い切る前に、カメラの映像に変化が現れる。これまで松田の横でピクリともせず倒れていた男がむっくりと起き上がったのだ。
「水瀬ちゃん!」
 萩原の悲鳴に似た声に風見もすぐに状況を理解しスマホに呼びかける。
「水瀬逃げろ!後ろの男が」
 風見が言い切る前に映像の中の男は水瀬の手を背後から捻り上げる。風見の耳に無情な雑音が響きブツンと通話が切られた。
『すみませんね、でも助けを呼ばれたら面倒なのです』
「フレンツ、ではない」
「金太郎の方だ!陣平ちゃん起きろ!!」
 冷静さをかなぐり捨ててしまった萩原が松田の映る画面につかみかかりガタガタと揺らし始める。それでも声だけで見事人物を割り出した萩原は、苛立ちのまま舌打ちを零した。金太吉。萩原の口から金太郎と咄嗟に飛び出したのは、ついさきほどまで話していたためだろう。名前を見た時から強烈なまでに違和感は覚えていた。まさか、こじつけにもほどがあると気にも留めていなかったが最悪の結果が今萩原の目の前に現れてしまったためにより顔が険しく歪む。
『大人しくついてきていただけますね』

 - return - 

投稿日:2024/0721
  更新日:2024/0721