家族を謳おう
よく母が言っていた言葉を思い出す。女が割と強かなのを男は知らない。そうだ、確か決まって私がお父さんのことを聞こうとしたらそんな話になっていた気がする。もう懐かしいなんて思えるんだから、月日が経つのは恐ろしくはやい。現実逃避のようにそんなことを考えてしまうのは、久しぶりに母の夢を見たからだ。あの捨ててしまった家で、すこし古びた調理器具を扱いながら呆れたような声でこちらに振り向きもせずに馬鹿だね、というのだ。それに私は何と答えたのだろうか、夕日の滲む時間帯で母の背中も黄昏の色に染まっている。母は夕食の用意をしていたのだろうか、しかしその暖かい匂いは漂ってこない、当たり前だ。だってこれは夢で、もう叶わない日常で、もしかしたら本当はあの母の背中すらも真実とは食い違っていて、私の記憶違いなのかもしれない。だってあんなに母の背は、小さくなかった。ただの夢だ、これは私の願いの残骸だ。
浮上する意識に漂う思考、それが少しずつ手のひらに集まってくるようだった。姉だ、姉の手の平が私を集めて繋ぎ止めた。神経を集中させるようにしてゆるりと瞼を持ち上げた。まず視界にとらえたのは空の青だった。その空から落ちるのは雨で、大きな雫は私に暖かい雨粒を降らせる。姉のスカイブルーの瞳からぼたぼたと落ちるその水分は容赦のないほどに私に降りかかり頬にぶつかる。それが姉の涙だと気が付いて、心臓をぶたれたような衝撃が走った。ひとつ、ひとつ頬にぶつかるたびに私の心臓にその雫が針のように突き刺さる。温かくて、柔らかい針の筵はいっそのこともっと凶暴であれと思ってしまうくらいに優しさに満ちている。
それでも姉の方が、こんなに痛がっているのにそれを嘆くのは間違いだ。
「よ、かった」
震えて、酷く聞き取りにくい言葉だった。それでもそうしようもなくその言葉は私の脳内に響き、そして直接焼印の様に残る。あぁ、嗚呼、私は本当に馬鹿だ。思い上がってしまったのだ、私が、私ならできると。きっと正しいのだと。でもこの結果は当然なのだ、彼らが出来なかったものが私に出来るはずもないのだ。それをやらなければと脅迫に似た観念を持ってしまった。こうなってしまうかもしれないと、どこかでは分かっていたのだ。それでもそれをしなければ、離れて行ってしまう、彼らが。そちらの方が私には怖かったのだ。
だからこそこれは罰なのだろう。怯え驕り浅はかだった私への咎だ。
「……」
こんな風に視線を向けられたことは今までなかった。恨みや怒りを凝縮したようなその眼光は無言のまま私を貫き殺そうとする。腕を組んで壁に寄りかかって立ったまま、目だけでこちらに訴えてくる。憎悪の詰まったその視線はずれることなく真っすぐと私に向かう。いつだって彼は真っすぐな人だった、そうかとこんなことにも真っすぐになれる彼に危うさも感じてしまう。純粋でひた向きで優しいからこそ向けられるそれらの感情は、純度の高い負の感情だ。そうしたのは私なのにそんな彼を不安に思うなんて私はなんて勝手なのだろうか。
ゆっくりとエドが壁から身を離したのが見えて震える姉の手をやんわりと解く。右手で体を起こせば貧血のせいかクラリと視界が振れた。しかしそんなことに気を取られている間もなく、胸元に酷い圧迫感と冷たい激痛が走る。耳に入るのは姉の悲痛な声で、必死になってエドの名を呼んでいる。胸元に触れる手は鋼になった腕だ。思えばこの腕に触れたのは初めてな気がする。エドは私にこの腕で触れないように、なれない左腕で私に接することが常だった。それすらも頭から消え去ってしまったかのようにギリギリと鈍い音すらたてて絞殺さんばかりに病人服を締め上げている。
息苦しい、しかしそれ以上に口の中が灼熱が如く熱かった。半固体の毒が舌の跡地に居座って、そして切断部から肉を直接焦がす。血はもう止まったのに、それなのにどうしてかぶくぶくと湧き出る様に私の口から熱湯の様に噴き出して呼吸を塞ぐ。
「どうして…」
喘ぐようにそれでも酸素を求めていたのに、エドにそれすら止められたようなそんな気がした。エドの方がよっぽど酸素に飢えて苦しげで死んでしまいそうだった。ひゅっと吸った息は血の匂いが濃く私の世界の空気すらも私を嗤っているようだった。まじかに映る金色の怒りは泣きたくなるほどに凶暴で、そして痛々しい。口を開いても情けない細い呼吸しか漏れてこず、謝りたくたって声はもう失われてしまった。もし声が出ていたって、彼らに謝罪など私はできなかっただろう、そんなものでは到底届かないものを私はしてしまったのだ。当たり前だ、こんなひどい裏切りはないだろう。
「自分ならできるとでも思ったのか…!」
途端に頬に走る鈍い痛み。姉の叫びが脳に届いた時に視界がまたぶれるのを感じだ、そうしてやっと殴られたのだと気が付く。口内が自分の歯によって傷つけられ今度こそ血の味が広がる。生身の腕で殴られた頬がすでに熱を持って痛みが遠くなる。姉が必死になってエドの鉛の腕を引き離し、少し緩くなった拘束から逃げ遅れた息が我先にと空気に走っていく。それなのに息は相変わらず苦しいままだ。それでもきっとエドの方が何倍も苦しいのだ、熱に浮かされて生理的に浮かんでしまったのだろう涙のせいで不確定な視界だったが、それでもエドの顔が自負の念に駆られて歪んでいるのがわかる。意地でも涙が落ちてしまわないように歯を食いしばって耐える。
自分になら出来ると思ったのか、その通りだ。私はできると思ってしまったのだ。彼らがあんなことになってしまったというのに、彼らの傷もふさがり切っていないのに上から再びナイフを突き刺してしまったのだ。姉の訴えにか、私がなんの反応も返さないからか乱暴に胸倉を捨てる様に離される。なんだかその動作で、私までもが見捨てられたようなそんな冷たい風がエドと私の間に吹いたようなそんな気がする。スローで流れていく景色は色褪せていて、薄情なほど簡単に過ぎていく。もう二度とエドと向きなうことは叶わないだろうと思ってしまうほどにギッと一瞥を寄越したが、もう私の方に振り返ることはなかった。
もうおしまいだと、そう思った。
投稿日:2017/0905
更新日:2017/0905