家族を謳おう

「…シャノン、何か食べて」


どこか茫然としてしまったまま空を見つめる妹が、怖かった。
エドがあんな風に拳を振うところを始めてみた私は、その対象になった妹の頬を上手く直視できなかった。今はばっちゃんによって大きなガーゼで隠されているものの、それでもその下の頬が変色し、腫れているのは目に映らなくとも分かった。シャノンの横顔がいつかのエドに重なる。快活だったエドが死んでしまったようにボンヤリと日々を過ごし、表情も言葉も心も亡くしてしまったようなあの頃は、今でも思い出すことが怖い。そんなあの日が、今目の前に再び現れて、今度は私の妹を連れていこうとしているのだと分かり、体が震える。
ばっちゃんがだいぶ前に用意したスープはすっかり冷え切ってしまっていて、いつもなら温かいうちに美味しそうに食事をするシャノンらしくない行動がまた震えを助長する。食べてもらおうと私の手に収まっていたスプーンがじんわりと暖かくなっていて、気持ちが悪い。でもこの食べ物の味を、彼女は分かるのだろうか。本で読んだことのある知識がその答えをくれる。答えはこうだ、分からなくなってしまった、だ。舌には味覚を感じ取る細胞が多く集まっている、それをごっそりと無くしてしまえば味覚がなくなるのも当たり前だ。ばっちゃんの作る料理が好きなシャノンが、その味をもう感じることができなくなった。前に二人で作ったクッキーは調味料を入れ間違えて酷い味がして、二人で変な顔をして笑いあったのに、そんな日常がどんどん遠くなっていく。
エドもアルも、シャノンも。どんどん当たり前だった日常が死んでいく。

このまま、なのだろうか。エドとシャノンは。
このままエドはここを出ていってしまい、またふとここへ戻ってきてもシャノンのことをああやって睨むのだろうか。
ついに耐えられなくなってシャノンの手を握れば、また目覚める前と同じような冷たい温度にびくりとしてしまう。握ったままだったスプーンの方がよっぽど暖かい、それが嫌で机に放ればカランと虚しい音が部屋に響いた。冷たい、それでも今この手を離してしまえば消えてしまうと思ったのだ。私を見ても笑いかけてくれず、ボンヤリとしたまま空虚に生きて、ある日ふと消えてしまう。それが私はとてつもなく怖い。彼女の声がもう聞こえない、聞くことが出来ない。シャノンの笑い声が大好きなのに、聞いている私まで一緒に笑って、温かい気持ちになれるあの声が大好きなのに。生きていてよかったと心から思う、それでもどうしても欲張ってしまうのだ。笑ってほしい、温かい温度を持ってほしい、おいしそうにご飯を食べてほしい、あの声で明るく私を姉と呼んでほしい。


「……お父さんとお母さんに、そんなに会いたかったの?」


僅かに、シャノンの触れた手が反応を返す。そんな小さな反応でもホッとしてしまうのだから私も単純なものだ。たとえそれが拒絶を示す様なものでも今シャノンが生きていることを実感できればそれでよかったのだ。こんなこと聞くべきじゃなかったのかもしれない、でも今聞かなければきっと一生私は知れないままだと思った。知るべきだと、知りたいと思った。知らないでいることの方がずっと怖いと、そう実感させられたから。


「…わたしの、せい?」


自分でも口にしてから狡いと思った、だって優しいシャノンなら絶対に否定する。そして安心したかったのだろう、私がシャノンにこんなことをさせてしまったのではないのだと無意識のうちに。案の定勢いよく首を振ったシャノンは絶望に目を染めて否定を示す。違う、そんな顔をしてほしかったんじゃない。
私が寂しがったから?
否定。
私が会いたいと泣いたから?
否定。
じゃあ、じゃあ会いたかったのはシャノンのお母さん?


「――!」


つよい、否定。
もしかしたら私はこれを一番聞きたかったのかもしれないと思うほどに肩から力がすっと抜けた。もしもこの答えを肯定されていたら私はどうしたのだろう。もしかしたら、裏切られたかのような感覚を覚えてしまうかもしれない。シャノンの母親は私と同じだろうと、叫んでしまったかもしれない。そんな理不尽など許されるはずがないのにどうしてかそうしてしまっていたような予感があった。寂しいと泣いていたのは私だけだったのか、お父さんとお母さんは貴女を本当に娘の様に、私だって本当に妹のように思っているのにシャノンはそうじゃなかったのかと弾叫してしまいそうになる。ただそれが悲しいだけなのに私はシャノンに責める様な言葉を投げかけてしまっていただろう。だからこうやって泣きそうになりながらも首を振って、はくはくと声のない否定を見られて安心しているのだ。先ほどまでの抜け殻のような彼女が一変してまで否定してくれることが嬉しく、ホッとするなんて私は可笑しいのだろうか。酷い人間なのだろうか。


「お願い、ねぇお願いよシャノン」


でもだからと言って一人でこんなことをしてしまったシャノンを許してはいけないと思った。私だけは許してはダメだと思った。そうしないとシャノンはどこかに行ってしまう、私の傍から簡単に離れて行ってしまうと思ったのだ。だったら私はシャノンを許さなくていい、近くにいて生きていてくれるのなら私はなんだってする。なんだって。
エドとアルには言えなかった我儘も、“家族”であるシャノンにはすんなりとでてしまっていた。例えシャノンを縛り付ける様な結果になったとしても私はこれでよかったのだと笑うのだろう、それくらいにはシャノンを失うのが怖かった。もうあんな光景見たくもない、あんな思いはしたくない。
もう、もう二度と、ひとりにはしてほしくないのだ。


「おいていかないで…」


勝手なことに、涙がボロボロと零れていた。嗚咽がもれて呼吸が苦しい。シャノンの前では泣かないようにといつか漠然と思ったことがあった。私はシャノンのお姉ちゃんなのだからしっかりしないとと、そんな風に小さく決意したことが。それなのにこの様だ。情けなくて、それでも止め方は分からない。あとからあとから追いかける様にして流れる粒は頬を走ってつながった手と手の上に降り注ぐ。
ぽたり、ぽたり。
静かで音のない部屋ではその音が鮮明に聞こえるようだった。普段ならば、私がこんな風に泣いていたらきっとシャノンが隣でなにか話していてくれたのに、俯いたままの私にはもうシャノンの気持ちを分かってあげられる材料がないのだと思い知る。声からにじみ出る心配も愛も、私は無くしてしまったのだと強く手を握る。悲しいだなんて生易しかった、私はこの感情の名前を知らない。けれども本当に失ってしまったわけではないのだ、確かにこの手の中にシャノンの白い手は収まっているしきっと視線だって私に向けているのだろう、シャノンは両親と違って生きているのだ。
なのに私はどうしてか顔を上げるのが恐ろしかった。シャノンからなんの感情も伝わってこないからだ、言葉とは、声とはこんなにも大きなものだったのかと失ってからやっと気が付く。身勝手なことなのにどうしても私には耐えられなかった、顔を上げれば、シャノンの目を見ればいいのに。さっきまであんなに必死に否定してくれていたシャノンを覚えているのに、我儘を言った私にシャノンがどんな反応をするかを知りたくなかったのだ。
それこそ、本当に酷い我儘だ。
ぎゅぅと、痛いくらいにつながっていた手に力が籠められる。この手から私の想いが、気持ちが全部伝わればいいのにと思う、そして同時にシャノンの気持ちも考えも私に流れ込んでくればいいのにと思う。けれどもそんなに世界は都合よくできていない。私より少しだけ小さい手が強く私の手を握るだけで、そこから思いは伝わってこない。

想いを伝えるために、方法はいくつあるだろう。
例えば表情、例えば文字、例えば身振り。きっと思い浮かばないだけでもっとたくさんあるのだと思う。それでも私の中で声という手段はとても大きなものだったんだと思う。人は言葉で嘘をつく、けれどもその分きっと本当の事も言葉で伝えるのだ。大切なことは直接言葉にして伝えなければならないよと、父が寝物語を聞かせてくれた時に教えてくれたことがあった。あの時は分かっていたつもりだったが、分かっていなかったのだ。いまなら本当にそう思う。だってそうじゃないと、相手の気持ちは不明瞭なままだ。

俯いた顔を自然と上げる様に、握られた手に促される。これだけ泣いておいてそれでも正面から涙を見られるのを小さなプライドが嫌がった。反対の手で無理やり拭って止まれと念じれば、思った以上にあっさりと止まってくれたそれに感謝する。
さぁ、顔を上げなければ。逃げてはダメだ、いくら怖くても私は我儘を言ってしまったのだから、駄々をこねてはいけない。深く息を吸って、吐く。ゆっくりと顔を持ち上げる、あぁどうしよう。シャノンはどんな顔をしているのだろう。怖い。
そして私は唖然としたのだ、それまであった恐怖など簡単に消え去ってしまった。今まで悩んでいた自分が馬鹿のようだ、だってシャノンはどこまでも優しい子だ。それを私は一番分かっていたはずなのに忘れていたのだ。
泣き出しそうな、そんな顔だった。少し前の私を鏡で見ているようなそんな感覚、不安や恐怖を顔いっぱいに広めて私が顔を上げるのを待っていたシャノンは私とあった目を、それでもそらさずに口を開いた。


「――――――」


音のない、声だった。
ゆっくりと紡がれたその声はただの空気でしかなく、私の鼓膜を揺らすまでには至らない。だた口を動かしただけだ、ぱくぱくと開閉するだけでそこから声など出ていない、当たり前だ、彼女はもう舌が無いのだから言葉など発せられない。それでも、それでもだ。不思議とその音は私に届いた。不安でいっぱいなシャノンが必死に私に向けた言葉はどうしてか私の心に聞こえたのだ。

そして分かってしまった。
シャノンもきっと、私を置いていってしまうのだと。言われた言葉はそんな言葉ではなかったのに私は分かってしまったのだ、なんだ、案外声以外でも気持ちは分かるものなのだとすっと安心まで覚えてしまった。それでもすんなりと私はその事実を受け止められた。おいていかないでなんて我儘まで言ったのに、それでも私をおいていってしまうであろうシャノンに悲しみを持ってもいいのにちっともそんなのは湧かなかった。初めてだと思う、お父さんもお母さんも、エドもアルも、彼らがここを出ていくときは決まって悲しくて寂しかったのにシャノンもそうしてしまうと理解しても、勇気を出しておいていかないでと言ったのにそれが叶わないのだと分かっても私は平気だった。こんなことをあんな表情で言われてしまえば、私も大丈夫だと思えてしまったのだ。



2014.12.21


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投稿日:2017/0905
  更新日:2017/0905