炎天の灯
ばっちゃんも、結局は何も言わずに送り出してくれた。インクが切れたら困るだろうと予備のペンを三本も渡されてしまってそれを上着のポケットに差し込みながら少しだけ悲しそうな顔をしたばっちゃんを思い出す。グッと奥歯を噛みしめて、また一つ思いを噛み砕く。二人がそういう顔をすると分かっていて、それでも私は行くと言ったのにそれなのにそのことに私が悲しくなるのは間違いだ。自業自得、そう思えば舌の付け根から血の味がしたような気がして誰も見ていないのをいいことに眉を顰める。
「あら、シャノンちゃんどこか行くのかい?」
駅についてホームで鞄の上に座って待っていると村で小さな酒場をやっているおばさんに声をかけられる。笑顔で頷いてからポケットからメモ帳を取り出してカリカリと前に住んでいたところに少しだけ泊まりに行くのだと伝える。村の名前を聞かれたのでここから二駅先だと書けば「一人で大丈夫かい?」と本気で心配そうな声で聴かれてしまい苦笑してしまう。そんなに心配されるほどなのだろうか。今までも何度か一人であの村には行っているのに、全員そろって不安そうな顔をして私を見る。
ぽんぽんと私の頭を撫でてからおばさんは「気をつけてくんだよ」と丁度買ったのであろうクッキーを一袋私の手に置いて行ってしまった。ありがとうすら言えなかったと口をもごもごとさせながら手元に収まっているそれに目を落とす。どうやらスノーボールのようでシナモンが入っているようだった。これなら舌のない私でも食べられなくはない。口に入れればほろりと勝手に砕けるこれは、最近姉も良く私にと買ってきてくれるのもであった。そうはいっても固形物には変わりはないので口に入れる際には細心の注意をはらっているのだが。鼻を近づければ甘い匂いとシナモンの香りが鼻を通ったが、折角味のあるものを貰っても無味になってしまう私には勿体ないと思った。汽車の中で食べてもいいだろうが二駅しかないのに食べ物を開けるのは気が引ける。加えて手に触れたそれが焼きたてと言わんばかりに温かいのだから、食べないのは申し訳ないだろうと袋をあけて一つ指で挟んで掴む。
指で奥歯まで持っていって、上下で挟んで顔をそちらに傾ける。舌が無いために食べ物を口の中で動かすことが出来ないため、こうするしかないのだ。飲み込むときも同様で、タイミングを見計らって唾液と共に喉に落とし込むようにして胃へと流す。これが中々に難しくなれないうちは何度も気管へと流してしまい噎せかえって吐き出してしまっていた。慣れたとは言ってもうまくいかないことも多く、水を飲むという行為が私にとっては非常に難しいものになっていた。ある程度の量をタイミングを計って口に入れ、重力を利用して飲むまではいいのだが飲みきれずに少量口に残ってしまったときどうしても吐き出さなくてはならない。スープなどスプーンですくうものなどその筆頭で少量の水分は喉に流すタイミングがつかめず上手く飲めない。ある程度固形であればそうでもないのだがだからと言って口内の水分を奪うようなものは逆に受け付けない。なんとも面倒な体になってしまったものだと、毎度気を使ってくれているばっちゃんには頭が上がらない。そんな私の限られた食生活の中で、このスノーボールはそれなりに食べやすい分類に入るもので、これをくれた彼女がその事情まで把握していたのかは分からないが、食べられないものを貰って腐らせてしまうよりはよっぽど嬉しかった。
噛んでも噛んでも、味など感じられない。匂いがあるので想像は出来るが口の中で段々とモタモタとしてくるそれは食べるという行為よりも胃に落とし込むような感覚に近かった。それこそ感情を噛んで砕いてお腹に落とすあれに似ている。消化されるかされないかの違いだけだ。
やっと一つ、口の中で原型を完全になくしたそれを顔を上に傾けて喉の奥へと流し込む。心の中でご馳走様と呟き、上を向いたことで視界に広がる空を見れば一羽の大きな何かが青を背景に凱旋していた。ゆうるりと優雅に空に円を描く様がとても自由であまりにも楽しそうに思えてしまって、それを追いかける様に手を空に伸ばして人差し指で辿る。
円は循環、そこにエネルギーを流すことで回路を形成させて、始まりは滑らかに自然の摂理に則って。壊すのではなくパズルのピースを仕分けしていくように解体していき、そして完結には……。
ちょうど一周した時に耳に汽笛が届いたので慌てて立ち上がって空から視線を落とした。
久しぶりにやってきた我が家は記憶にあるものとなんら変わりはなかったように思えたがいざ蓋を開けてみれば私の記憶は幾ばくか美化されていたのだと知った。
こんなにも椅子は古びていただろうか、扉の蝶番の音はもう少し滑らかだった気がした、窓から覗く風景は青々として輝いていなかったか。
「(埃っぽい…)」
当たり前だった。いくら近所のおじさんに管理を任せているとは言ってもここは今や無人の空き家と同じだ。人がすまなければ家は悪くなる、まさにその通りだと知った瞬間だった。そしてはっと気が付く、本当にしばらくぶりにここに来たのだという事に。それこそこの口がものを言わなくなってから初めてここに来たのだという事実に。
だからあんなにも皆必要以上に心配してくれたのだとやっと知る。そりゃそうだ、声を出せない人間が一人で遠出するものじゃない。
はぁ、と息だけのため息を吐き出して埃を被ったままの椅子に腰かける。目の前のテーブルも見事に白く埃を纏っていて苦笑が漏れてしまう。まあ、それでも懐かしくは思う。この椅子にいつも座って母の後姿を眺めていたり、隣に立って一緒に何か作ったり。一緒に掃除をしてかえって床を汚してしまった事もあった、幼い私の幻影が笑い声をあげて、そうして幻影は幻影のまま綺麗なまま失せていく。一通り思い出せるだけの綺麗なそれを眺めて、そっと瞼を下ろして息を深く吸い込み随分と篭った空気に苦笑が漏れた。
よし、まずは掃除しよう。
投稿日:2017/0905
更新日:2017/0905