無聊な春霖の頃
殆ど原型を留めていないポトフに栄養剤。グズグズになったそれが私の食事だ。量も少ないそれはすぐに私の胃の中に落ちていくがそれでも時間はかかる。本当はなにか食べた後はうがいでもしたいのだけれど、舌がない状態では簡単にそれも出来ない。未だに半分も減らないポトフを木のスプーンで掻きまわしてみる。量が少なかったせいですっかり冷めたそれはもう器を触っても温かくすらない。まだご飯を貰っていないだろうにデンが部屋までついて来たので少し開けたままの戸から冷えた風が入ってくるようなそんなうすら寒さを感じたけれど、恐らくは気持ちの問題だろう。居間の方から時折聞こえてくる音に耳を立ててみるもその声までは聞き取れない。それでもなんだか満たされたような感覚がして、座っている私の膝に片腕を乗せたデンの頭をゆっくりと撫でた。眉間の部分を親指でなぞる様にすれば目の近くに手があるのが怖いのか、それとも気持ちがいいのか判断しかねるが目を細めてクン、と一つ鼻を鳴らした。嫌がっている素振りではないので後者なのだろうけれど。あとでゆっくり食べようと思い、結局スプーンを手放してしまう自分の忍耐のなさに少し情けなくなったがぶんぶんと尻尾を振るデンにどうでもよくなってしまった。椅子を引き体をデンの方に向ければ待っていましたとばかりに片足と顔を膝に置く。耳の後ろを両手でやわやわと撫でれば今度こそ気持ちよさそうにくんくんと鳴いたのでそのまま体を折り曲げる様にして膝にいるデンの頭に額をくっつけて目を閉じる。小さな頭蓋の感触がして犬の中ではそこまで小さくないデンでもやはり人と比べると全てが小さくて愛おしくなる。機械鎧を付けられた方の肩の上のあたりに片方の手をスライドさせて揉むように撫でればふん、と鼻息をかけられてしまう。やはりというか機械鎧の近くの筋肉は固い。境目にはあまり触らない様にしていたのだが、不意にデンが顔を上げる素振りを見せたので嫌だったのかと顔を上げて目を開ける。デンはこちらを向いていなかった。視線を追えば中途半端に開けていた扉がぎい、と開く。
「今、いいか」
難しい顔をしたエドワードにきゅっと心臓が縮みあがった。それを無視して笑顔で頷いてみせる。デンはパタパタとエドの方へ向かい、突進するように一度エドワードにじゃれついたかと思えば、一つエドに撫でられて満足したらしくまだ開けられたままだった扉からするりと出ていってしまった。その扉を、静かにエドが閉める。途端に部屋の空気が固く、詰まるようなものになった。
「まだ飯喰って…ってお前そんだけかよ」
途端に眉間に皺を寄せたエドに慌てて机の上に置いてあったメモとペンを手に取る。こんな普通の会話をするだなんて思ってもいなかったせいか言葉が出てこない。なんて、なんて書けばいい。エドに初めて言葉を伝えようというのに言葉が上手くまとまらず、結局はみっともなく震えた文字でありきたりな言葉を綴った。
『作りながら少し食べたから』
「………」
座ったままの私に立ったままのエド。メモを向けたが文字が読みにくかったのか、背を少し屈めて顔を寄せたエドが全く知らない人に見えてビクリとしてしまう。本当に、背が伸びた。昔は私達の中で一番背が低かったのに。金色の眼が小さなメモの上を横切っていくのを見ているのが怖くて、反対の手に持ったままのペンに視線を落としてしまう。普段ならその視線を追って読み終えたかを図るのに、今はそれもタイミングが掴めなくてそのままメモを突きつけたまま固まってしまう。短い文章なのだからすぐ読み終わるだろうにどうしてかまだだろうか、と手を下ろせずにいた。
しかし唐突に手に触れた温度に驚いて顔を上げればするりとメモを手から抜き取られた。一瞬触れたのはどうやらエドの指だったらしく、左手の中にそのメモが収まっているのを見てなすすべもなくゆっくりと空にあった手を下ろした。ぱら、ぱら、とどういう訳かメモを捲りだしたエドは無言のままで、どうしたのだろうと考える余裕が出来た。取りあえず立ちっぱなしなのが気になって椅子を、思い一度立ち上がろうとする。
「座ってろ」
しかし持ち上げた腰はそのまますとんと椅子に戻る。肩に置かれたのは機械鎧の腕だったが温度を感じる前にすぐに離れてしまった。一瞬思考回路まで止められてしまった気になるが椅子がぐらついたことでハッとした。もともと四本のうち一本が短かったらしく揺れやすい椅子だったのがこんなところで幸いした。机の上にあったノートを捲り、空白の新しいページに『椅子持ってくる』と書きエドに向ける。視界にノートが入ったのかこちらに目を向けてくれたエドはその文字を目で追い、「いらん」と一言告げてまたメモに目を向け、そしてベッドにどさっと腰を下ろした。少し驚いたが座ってくれたのでなんだか一つ心地が付いて、のろのろとノートを閉じる。未だにメモを捲るエドの眼はそこに書いてある文字を掬っているようで、自分でもあまり見返すことのないそれを見られて言い知れぬ感覚を覚える。メモ自体は複数あり、その時手に持っていたり傍にあるものをランダムに使っているので今エドが見ているメモにいつの会話が書いてあるのかは分からないが、村の人とのやり取りばかりだろうことは確かだった。見ていて面白いものではないのに、すべてを見るつもりなのか一枚ずつ紙を捲っているのを眺めていると何を書いたのかすら記憶にないのにそれらすべてをエドに向けて伝えてしまったような感覚に陥った。
ゆっくりと時間が流れる。けれどその間にきちんと心を落ち着かせることが出来た私は、エドが大きくため息を吐いてメモをこちらに手渡してきても動揺することなくそれをしっかり受け取ることが出来た。
「…飯、明日からお前も下で喰え」
『お客さんに気を使わせちゃうよ』
「いいだろそれくらい」
そうはいっても口に液体を入れるたびに首を上に向けて食べる食事風景、見ていて気を使わせてしまうのは必須だ。困った様にして思わず苦笑を浮かべてしまえば、エドがまた眉間に皺を寄せた。今寄ったところを見たという事はどうやらメモを呼んでいた時は皺はなかったらしいと今更気が付く。
「そんなに大変なのか、飯食うの」
『時間がかかるしお行儀いいとは言えないかも』
ありがたいことにこの村の人は私がこうだと理解してくれているので「ゆっくり食べなよ」と言ってくれるが、あまり人に見せたいという光景でも無いので曖昧に笑ってメモを見せる。しかしどんどんと眉間の皺は深くなっていき比例して目付きも鋭くなってくる。
「なあ、シャノン」
名前、久しぶりに呼ばれた気がする。そんな些細な事にペンを強く握りそうになってしまったが慌てて「なに?」と言うように首を傾げた。
「お前その顔やめろ」
途端に、部屋の空気が固まる。重苦しく苦々しく吐き出すようにしてそう言ったエドの顔は相応に苦しそうで、険しかった。言われた意味を理解する前に、はく、と呼吸が乱れる。心臓が殴りつけられたかのように唐突にうるさく鳴りだし、耳元で拍動が鮮明になる。嫌な音だ、血管の中を凄まじい速さで血液が回り出したのにも関わらず手足がすぅっと冷えていき、何かが遠くへ向かって行くような恐ろしさを感じた。
普段と同じような顔を、まさしく私は浮かべていたのを分かっていた。普段通りに口角を上げ、眼を細め、笑っていた。姉にもばっちゃんにもアルにも村の誰にも今までなにも言われなかった私の唯一の楯を、一瞬にして砕かれたようなそんな恐怖を感じ、気が付いた時には耳を塞いで俯いてしまっていた。
その顔やめろ。頭の中で心臓の音の合間にエドの声がリフレインし、そしてやっと理解した時には目の前が点滅し、呼吸音が可笑しくなっていた。
ぐい、と痛いくらいに左手首を引っ張られ、体が前に飛んでいくように浮いた。そのまま人形のようにぐたりと動けなくなった私はぶつかったまま落ちる様に腰を落とす。は、は、と風が変に抜けていく音が耳に煩い。舌が無くなって溺れると思ったことは何度かあったが、こうして空気に溺れる様に感じたのはあの時以来だ。目が覚めて、姉が手を繋いでいてくれたあの日、あの時の様にぶくぶくと空気の泡が見えるようなそんな気までした時に背中に温度をハッキリと感じる。背中だけではない、座ったその場所も体の正面も。春の温度よりもずっと熱いそれがエドワードだと思い至るのはすぐで、慌てて離れようともがくが腕すらうまく動かせなくて身じろぐだけで終わってしまう。身じろぐと言っても恐らく荒れた呼吸で上下する体の動きに飲まれてしまっていただろうが、小さな抵抗は静かになかったことにされていた。
「落ち着け、頼むから」
まるで泣いているような声が耳元からして、もうこれ以上私を粉々にしないでくれと懇願したくなった。過呼吸で呼吸のあらい口元に宛がわれたエドの左手にすっぽりと口を覆われながら紛れもなく震えているエドワードの機械鎧の腕に気が付かないふりをするしか出来ない自分を、私は今度こそ呪ってしまった。
投稿日:2017/0905
更新日:2017/0905