無聊な春霖の頃
それが触れてはいけない部分だったと気が付いた時にはもう遅すぎた。聞きたくないとばかりに耳を覆って俯いてしまったと思ったら明らかに異常な呼吸音。震える体に苦しそうな息。音に成りきっていない嗚咽を聞いた時には手を伸ばしてしまっていてむりやり引きずるようにしてしまっていた。引き寄せた体は思っていたよりもずっと軽くて、そのせいで勢いよく俺の体に突っ込んでくるように収まった。それでも明らかに苦しんでいる細い体が怖くて仕方がない、シャノンが死んでしまうと思ってしまうくらいに慌てた。どうしていいのか分からず、意味もなく背中を撫でてみるもその腕がみっともなくガタガタと震えていて舌打ちが漏れる。しょうがないだろう、こんなに細くて、軽くて、顔色も悪くて、食事だって残していた。呼吸音も今まで聞いたことがないような音が鼓膜を揺らし、それが明らかな異常を訴える。落ち着け、落ち着けと己にも念じながらシャノンが消えてしまいそうで思い切り腕に閉じ込めて、やっと過呼吸かもしれないと考えが廻った。慌てて左手で口元を覆えば温いシャノンの吐く息でしっとりと掌がすぐに湿る。俺なんかの手で覆えるくらいに顔も小さいのだと気が付いて柄にもなく本気で泣きそうになった。なんで、なんでこんなに全てが頼りないくらいに細くて弱々しいんだ。悪かったから、もう笑うななんて言わないから頼むから落ち着いてくれ。
下唇を時折噛んで、震える腕を叱咤したがそれでも機械鎧の腕は震えたままぎこちなくシャノンの背中を上下に擦る。こんなにくっついているのに体温すら、低い。こんな状態になってもそれでもシャノンは涙を流す様子もなく、ただただ震えて苦しそうなだけだ。いっそ泣いてくれ、なんて普段なら絶対に思わないような考えまで頭を過ってしまう。
「頼むから、」
頼むから死なないでくれ。そう言ってしまいそうになって慌てて言葉をすり替える。言葉にすればそれが本当になってしまいそうで口にすらできなかった。それくらいにシャノンの存在が希薄なのだ、閉じ込めている筈なのにここにいないような薄さと軽さがこんなにも怖い。まだアルのあの体に慣れていなかった頃を思い出し心底ゾッとする。だらんと横に打ち捨てられている様になっていたシャノンの右腕が僅かに動いたのを見て、俺から離れようとしているのだとなんとなく分かってしまった。馬鹿野郎と小さく悪態をついてそれを押さえつける様にさらに引き寄せる。その白すぎる右手首にくっきりと俺が掴んでしまった跡が残っていて、あんな一瞬で跡を残せてしまう事実が俺のどこかをズタズタに切り裂いて行った。
冷や汗で悪寒まで走ってきたときにやっとシャノンの呼吸が少し落ち着いてきた。それに全身の力が抜けるほどにホッとさせられて長く大きく息を吐いた。時間感覚が完全に狂っているのは自覚しているがやたらと長いこと慌てていたような感覚がある。どっと疲れたがそれでも未だ恐怖の感覚だけは居座っているせいで、正直このまま後ろに寝転がりたいほどだった。いや、それはまずいか。やっと普段通りの早さに戻った呼吸を確認して左手を顔から離す。
「大丈夫か」
小さく頷いたシャノンを見てはぁ〜、と安堵の声が出た。急に心臓に悪すぎる。北で腹に穴が開いた時以上に寿命が縮んだ気がする。未だに体温は低いが先ほどよりはずっと安定したシャノンの存在感を確認すると同時やっと距離が近すぎることに気が付いて悲鳴を上げそうになったが、未だに下にいるであろう連中を思い出し寸で耐えた。あぶねえ、本気で危なかった今。恐る恐る背中から手を避ければそっと上体を起こしたシャノンと目が合う。途端に気まずくなって視線を下に落とせば丸い膝が覗いていてそこからも視線を慌てて逃がした。そんな俺に関わらずにすっと立ち上がろうとするシャノンに少し微妙な感情が湧いたが、体がまだフラフラとしているのに気が付いてそのままベッドに腰を下ろすように体を導く。大人しく左隣にすとんと腰を下ろしたもののまだ視界が悪いのか瞬きが多いのを見て少し呆れた。明らかに栄養失調だ。机の上に放置されたままの小さな器の中に残っているポトフをぼんやり見つめながらなんとなしに機械鎧の右手をシャノンに見られない様に何度か開閉する。
「あの日」
かちゃ、かちゃとおおよそ人体からはするはずのない音にはもうとっくに慣れたと思っていたのに、シャノンが隣にいるせいかなんだか違和感を感じてしまう。隣は見なかったが近い距離にいるせいでシャノンの体が強張ったのは分かった。
「…見たのか、真理の扉」
メモは知らないうちに床に落ちていたし、ペンも同じくどこかに転がっているのだろう。今シャノンに会話を交わす術は一つもない。ましてや俺がシャノンの方を見向きもしないのだから当たり前だ。しかしそれでいいと思った、俺が話すだけの一方的なものの方がまだ、ましな気がしてしまった。
「暫く、寝れなかったろ」
右手をグッと強く握れば、つなぎ目の肩の部分の筋肉が変に収縮した。今俺が動かしている腕は鉄の塊で間違いなく、人の体ではないのだとシャノンの温度の残る左手や触れていた部分と比べてしまう。この右手は意図して背中をさすってまでいたのに、どうあがいても動かす為の伝達はできても熱を受け取る受信は出来ない。
「…暗いところが怖くなったろ」
言いたいことがありすぎて、言葉が詰まった。もっと責めるような言葉でも、優しい言葉でも、なんでもいいはずなのに言えない言葉も多すぎた。それでも一番喉に突っかかって出て来そうになかったのは謝罪の言葉で、それだけはいってはダメだと理性でも理解していた。間違いなくその言葉だけは、今度こそシャノンを殺してしまうだろうと確信がある。
シャノンがなにか言おうとしているのがシーツの擦れる音で分かって、それを遮るように立ち上がる。ちゃんとこいつの綴る言葉で知るべきことは山ほどある、けれどメモ帳の中で何枚も連続して『ありがとう』という同じ文字の続く言葉を見れば、こいつにそれを文字にして伝えさせることが酷く残酷に思えてならなくて、だったらそうしなくて済むまでは待ってもいい気がした。切り替える様に声の調子も変えて、シャノンに一切を話させないようにする今の方が酷いのかもしれないが。エゴだろうが構いやしない、こうなったらとことん押し付けて仕舞えと半ばやけになっていたのかもしれない。
「んで、お前がやってた手話、本とかねーの?」
振り向いてやっと顔を見たシャノンの表情は先ほどまでの無理に笑ったような顔よりはずっといいものに映ってしまいつい笑ってしまった。
投稿日:2017/0905
更新日:2017/0905