対価の訓戒

こそこそと、無断で人の家に入るのは初めてだった。普段なら全く気にならない自分の足が床を進む音や呼吸音、外から聞こえる名前の知らない鳥の鳴き声がやけにうるさく感じ、世界はこんなにも音に溢れていることに気がつく。
ゴクリ、喉を鳴らした音まで鮮明に耳に届いて変な汗をかき始めてしまった手のひらを強く握ってまた一歩、進む。何度か来たことのある家だったはずなのに住人がいないだけでこんなにも知らない場所のように思えて、緊張が増す。目的の部屋の戸は薄らと開いていたがその隙間から覗いている暗闇がどことなく恐ろしさを助長しているような気がして背筋を伸ばした。


「…!」


部屋に顔を突っ込むようにして見えた光景に思わず両手で口を抑え、でそうになった叫びを殺す。膝が笑ったようにガタガタと震え、背中を向けて逃げたいと思った。見なかったことにして、姉に縋り付きたいと心底思った。部屋には大きな錬成陣、その中央からは半端じゃない量の赤黒く変色した血。鉄のような、でも嗅いだ事のない籠った匂い。どうしてこんな状況に成るのか視覚と嗅覚から与えられる恐怖がまとわりつく様に全身をおそう。手が震える、恐怖によって体が震えるなど、そんな経験はしたことがなかったからこそ、縫い付けられたようにその場から動くことが出来なかった。
死体かと、そう思った。人の形に似ていたが、人というには欠陥が多い。人だったが、それをこんな形になるまで殺された、そんな風に考えた方が目の前の生物の説明がしやすいのだろうがそれにしては骨格がおかしい。こちらに逆さまになって向いている顔は、腕は、恐怖の対象でしかない。

錬金術とは、こんな。
そこまで考えてそれ以上を言葉にはしてはいけないような気がして考えるのをやめる。こんな、なんて思いたくなかった。これは、目の前のこれは、あの優しいトリシャさんかもしれないのだ。しかし体は正直だった。そうかんがえてしまうと襲ってくる吐き気。みっともないことに喚き散らしたいと思うほどにここの場所は、怖かった。ここは、私が初めて錬金術を見せてもらった場所で、よくトリシャさんの作ってくれたお菓子を食べた場所だ。同じ場所だと思えなかった。目の前の惨状も、認めたくなかった。


「…お姉ちゃん…」


思わず零れた名前に私は止まっていた足を進めることが出来た。不思議なくらいに自由になった体、思考。そうだ、私は決めたのだ、こんなことで負けてなどいられない。止まってなどいられない。まだ指先は情けなく震えていたけれど、そんなこと構ってられないのだ。私がここに来て、やったことといえば母の言葉を思い出して、好きだといってくれる笑顔を浮かべていただけだ。それだけではダメなのだ、現に今、誰も笑ってくれない。
またあの時のように過ごしたいだけなんだ、だからこそ行動をしなければならないと脅迫に似た観念を持って私はここに来たのだ。盗人のような真似事までして、恐怖なんて無視して、それでもそうしたいと決めたのだから。エドとアルが書いたであろう紙と、その時に二人が見ていたのであろう本を拾い上げる。灯りをつけることはしなかった、流石にあれと二人の空間でそんなことはできそうになかった。
手に取った本も、二人が書いたであろうこの紙だって私が理解するには簡単ではないはずだ。それどころか手に取っているこれらの資料が正しいのかすら分からない。
きっとまたここには来ることにはなると思う、基礎すらわかっていないのだからここにある多くの本はきっとお世話になるはずだ。エドとアルだってここにあるものでしか錬金術は学んでいない。いや、修行にいくといってしばらくいなかった時期もあったがそれでも初めはこの部屋の中ですべて学んだのだ。それに加えて私の手に二人の書いた資料があるのだから、カンニングするようなものだ、なんとかなるとそう思いたい。まずはこれを書き写して、すぐにここに戻しにこなければ。

不安でしかなかった、それでも決めたのだからやるしかない。そう震えっぱなしだった指先を両手で互いに潰してしまうようにして握りこんだ。不安も、握り潰せればいいのにとそんなことを考えながら逃げる様にその場を後にした。






そうやって何度もエルリック家に侵入し、ある日ばっちゃんがアレを埋めてくれた後。それでも妙に背筋が寒くなるあの部屋から家に戻る途中で、珍しく一本道に車が通る音が聞こえて振り返る。
早いスピードでこちらに迫ってくるそれに脇の雑草の茂る場所に足を踏み入れれば、がさりと動いた住処に驚いたのかバッタがそこから逃げる様にして跳ねた。なんとなしにそれに目を奪われて、目で追いかけながら重たい鞄を背負いなおす。
このまえあんなことがあったというのにやっぱり世間は薄情で、普段道理に回っているようだ。私のお母さんが死んだときも、お義父さんお義母さんが連れていかれた日も、死んでしまったと便りが来た時も。
エドとアルのお母さんが病に倒れた日も、死んでしまった日も、エドとアルがあんなことになってしまったってその日はすぎて、世界は今日を迎えている。まだ、エドはあの日から返ってきていないように虚ろな目のままだしアルだってカタカタと震えてばかりだ。それでもどんなことがあっても、結局はいつも通りなのだ。

ブオォオン、と一層車のエンジン音が近づいて風が舞う。ぶわりと髪が舞って視界が自分の髪に覆われて、日の光がちらちらとその隙間から漏れる様が目に映る。そんな風もすぐに収まってそれに伴い髪も落ちる様にして視界から去る。一部はまだしぶとく顔にかかったままでぶんぶんと頭を振ればやっと落ちた。
もう車なんて来ないだろうと特に確認もせずに道に出て、足元だった。目に付かないような風景のような光景だったが、きちんと目に留まった。バッタは車に、轢かれてしまったらしかった。日常とはこんなにも酷薄なのだととうとう私が理解した瞬間だった。




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投稿日:2017/0905
  更新日:2017/0905