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そろそろ戻らないと仕事に差し支えるなあとぐずぐずと鳴りっぱなしの鼻を思い切り啜って乱暴に目元を拭う。海燕がいれば「面白い顔になったな」くらい言ってくれたのにそれもない。鏡はあまり好きではないので持ち歩いていないので自分がどんな顔をしているのかは分からないが海燕曰く面白い顔で隊舎に戻る訳にもいくまい。先ほど海燕に投げつけた草が風で私の死覇装の上に戻ってきたのに気が付いたのは立ち上がろうとしたその時で、なんだかそれを見て海燕らしいなあなんてまた救われたような気になってしまう。すっかりぐちゃぐちゃになってしまった資料を小さく折りたたんで胸元に押し込んだ、これはもう使えないだろう。
「ありがとね海燕、どうせ私以外来てくれる人いないだろうからまた来てやるわ」
ホント不思議だな、海燕といると色々とどうでもよくなるんだから最強になった気がする。現にもうすっかりと先ほどまで渦巻いていた汚い感情も消え失せてしまっているんだから相当だ。
風にさらわれる様に草が流されていく。それをなんとなしに目で追って、その先に真っ白い何かがあって驚いて後ずさりしてしまったが、それが平子隊長だと気が付いてさあっと血の気が引いたような気がした。まるで、先ほどとは逆だ。まずい、まだ顔が。
「す、すみません隊長、あの……」
「死んだんかそいつ」
「え、はいもう随分前に」
「もうやめぇ」
「え?」
「死んどるもんに頼るん、もうやめぇいうとんのや」
とても、静かな表情だった。普段のにやにやした口元も今はなんの感情も読み取れず、薄い唇は閉ざされている。さっきまであんなに赤かったのにいまはその影もない。白い羽織の内側の淡い白殺しの色がやけに今日は濃く見える。空の方がずっと濃い色をしているのに、どうしてだろうか。
「なんでそんなこと言うんですか」
「そいつもえらい迷惑やろうが、死んで尚すがられて」
「隊長に関係ないですよね」
どうしてこうも可愛くないことを言えるんだろう。けれど、いやに頭は冷静だ。それも多分、海燕の前だからなんだろうけれど。ここじゃなかったらきっと先ほどの「裏切られた」なんて独りよがりな感情に支配されて目も当てられなかっただろう。クソ、海燕に助けられてる感じがして癪だ、今度饅頭くらい持ってきてやろう。
「関係あるからいうとんのや」
「海燕はそんなことで迷惑がる奴じゃないです」
私、この人の事本当に好きなんだろうか。百年以上も前からずっとずっと、思い続けてきたせいでどうやら純情な綺麗な片思いではなくなってきたなと言うのは自覚していたけれど、まさかこんな口を聞くまでに捻くれてしまったなんて、もう潮時だろうなと薄らと思ってしまうくらいに自分が嫌になっていた。この人に関わると、好きと言う感情が煮立ってしまったせいなのかどす黒く汚く、醜くなってしまって、それをつきつけられる度にああ私はこんなに汚い感情を持っていて、それをこの人に抱いてしまっているのかと絶望する。
「泣いたんか」
「泣いてないです」
「じゃあなんやその顔」
「……」
「そいつの前では泣くんか」
そこでやっと、平子隊長が怒っているのだと気が付いた。滅多に怒らない人だから、こんな風になるだなんて今の今まで知りもしなかったのだ。淡々と、言葉だけで畳みかける様に静かに。感情を表面に持ってくることなく冷静に。
そいつの前では、なんて。百年以上も私に泣くこともさせてくれなかった貴方が言うのか、いやこんなのお前で十分だ。案外口悪いよなと海燕にげらげら笑われたのを思い出したけれど、もう海燕のお陰で冷静でいられるほどではなくなってきていた。
「泣いてない」
「泣いてたやろ男ん前で」
「泣いてない」
「ずっとこいつが死んでからもそうやってここに逃げてきて泣いとったんか」
「ずっと!」
「……」
「ずっと……ずっとずっとずっと……待たせてくれることしかさせてくれなかったあんたが言うな!」
「……」
「待ってたのは私の勝手だったけど……でも」
「せやなぁ」
肯定されて、喉を絞めつけられたような息苦しさを感じた。なんで、そんな簡単に私の百年以上の行為をたったそれだけの言葉で流すんだ。どんどんと身勝手で自分勝手な私の感情が暴れまわる。目まで熱くなってきたような気がしてしっかりと見つめていた目まで俯かせてしまう。ああ、昔目を見て話すことをこの人に褒められたのに。
「まずは、そっからやもんなぁ……お前にちゃんと、ありがとうも言うとらんかったもんなぁ」
俯いていたせいでこちらにいつの間にか近寄ってきていた隊長に気が付かなかった。自分の物とは全く違う形のつま先が視界に入ってやっと、それに気が付いたけれどその時には視界は白く染まっていた。きゅう、と可愛い音がしそうなくらい優しく、柔らかく回された腕は間違いなく平子隊長の腕で、首元に感じる細い息は、隊長の吐くそれだろう。全身に感じる温もりも、仄かに甘い匂いのする香りも、全部隊長のものなのだろう。そのすべてに、初めて触れた。だからそうだと理解するまでに少し時間がかかったけれど、細いくせに案外しっかりしている腕の事だけは見ていて知っていたから回った腕が隊長のそれだと気が付くのは早かった。くしゃりと自分の胸元から頼りない音がなって、ああ書類、と思い出したけれどそれくらいに私たちは近かった。
「おおきにな、待っとってくれて」
「……」
「おおきになぁ、信じてくれとって」
「……」
「おおきに、ずぅっと好いとってくれて」
ぼろ、と音がした。砕けた何かが落ちるような、鍍金が剥がれ落ちたような音。頑なに馬鹿みたいに勝手に思い続けて、けれど自分を護るためにそれを汚い感情で覆ってしまっていた。それを、簡単に壊してしまうこの人が、心底恐ろしい。ぼろ、ぼろと落ちていく汚い筈の塊は、どうしてか透明な丸い粒の形であった。
投稿日:2017/0926
更新日:2017/0926